玉勝間 / 五の巻 熊沢氏が神典を論へる事
熊澤氏が三輪物語と云ふ物に云ひけるは、神書は、昔の傳へをそのまま書かで、はるばる後の世に、寓言して書たり。その筆者に、道德の學無かりし故に、寓言のしやうまで惡しし。せめて寓言すとも、莊周などのやうに、理を明らかにしたらば、善かるべし。神聖の御事を、凡人の上にてかりとき、寓言したれば、大かたにては通じがたし、と云へり。宣長今これをあげつらはむ。まづ神の御典を、いはゆる寓言なりと見たるは、めづらしくもあらぬ、例の儒者意なり。すべて儒者は、世ノ中にあやしき事は無きことわりぞと、片おちに思ひとれるから、神代の事どもを、みな寓言ぞと心得たり。儒者のみにも有らず、から心ののぞこらぬ、近き世の神學者と云ふ者はた、皆同じ事ぞ。そもそもあやしき事をば、まこと、そらごとを問はず、すべて信ぜぬは、一わたりは賢きやうなれど、中中のさかしらにて、人の智はかぎり有て、及ばぬ所多き事を、えさとらで、よろづの理を、おのがさとりもて、ことごとく知つくすべき物と思へる、からごころのひが事なり。
新字:熊沢氏が三輪物語と云ふ物に云ひけるは、神書は、昔の伝へをそのまま書かで、はるばる後の世に、寓言して書たり。その筆者に、道徳の学無かりし故に、寓言のしやうまで悪しし。せめて寓言すとも、荘周などのやうに、理を明らかにしたらば、善かるべし。神聖の御事を、凡人の上にてかりとき、寓言したれば、大かたにては通じがたし、と云へり。宣長今これをあげつらはむ。まづ神の御典を、いはゆる寓言なりと見たるは、めづらしくもあらぬ、例の儒者意なり。すべて儒者は、世ノ中にあやしき事は無きことわりぞと、片おちに思ひとれるから、神代の事どもを、みな寓言ぞと心得たり。儒者のみにも有らず、から心ののぞこらぬ、近き世の神学者と云ふ者はた、皆同じ事ぞ。そもそもあやしき事をば、まこと、そらごとを問はず、すべて信ぜぬは、一わたりは賢きやうなれど、中中のさかしらにて、人の智はかぎり有て、及ばぬ所多き事を、えさとらで、よろづの理を、おのがさとりもて、ことごとく知つくすべき物と思へる、からごころのひが事なり。
書き下し
熊沢氏が三輪物語と云う物に云いけるは、神書は、昔の伝えをそのまま書かで、はるばる後の世に、寓言して書きたり。その筆者に、道徳の学無かりし故に、寓言のしようまで悪しし。せめて寓言すとも、荘周などのように、理を明らかにしたらば、善かるべし。神聖の御事を、凡人の上にてかりとき、寓言したれば、大かたにては通じがたし、と云えり。宣長今これをあげつらわむ。まず神の御典を、いわゆる寓言なりと見たるは、めずらしくもあらぬ、例の儒者意なり。すべて儒者は、世の中にあやしき事は無きことわりぞと、片おちに思いとれるから、神代の事どもを、みな寓言ぞと心得たり。儒者のみにも有らず、から心ののぞこらぬ、近き世の神学者と云う者はた、皆同じ事ぞ。そもそもあやしき事をば、まこと、そらごとを問わず、すべて信ぜぬは、一わたりは賢きようなれど、なかなかのさかしらにて、人の智はかぎり有りて、及ばぬ所多き事を、えさとらで、よろずの理を、おのがさとりもて、ことごとく知りつくすべき物と思える、からごころのひが事なり。
現代語訳
熊沢氏(熊沢蕃山)が『三輪物語』という書で言うには、「神の書は、昔の伝えをそのまま書いたものではなく、ずっと後の世になってから寓言(たとえ話)として書いたものだ。その筆者に道徳の学がなかったので、寓言の作り方までまずい。せめて寓言にするにしても、荘周(荘子)などのように道理を明らかにしていたら良かっただろう。神聖な事柄を、凡人の身の上になぞらえて解き、寓言にしたものだから、たいていのところでは意味が通じにくい」と言っている。宣長はいまこれを論じよう。まず神の御典をいわゆる寓言だと見るのは、珍しくもない、いつもの儒者の考え方である。そもそも儒者は、世の中に不思議なことなどない道理だと、偏って思い込んでいるから、神代の事柄をみな寓言だと心得ている。儒者だけではない。漢意(からごころ)の抜けきらない近ごろの神学者という者もまた、皆同じことである。いったい不思議なことを、本当か嘘かを問わずすべて信じないのは、ひととおりは賢そうに見えるが、かえって小賢しさであって、人の知恵には限りがあり、及ばないところが多いということを悟れずに、あらゆる道理を自分の悟りで残らず知り尽くせるものと思っている、漢意の誤りである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 熊沢氏が神典を論へる事すべて世の中のことわりは、限り無きものにて、さらに人の短かき智もて、知りつくすべきわざに有らざれば、神代の事あやしとて、凡人のいかでかはたやすくはかり云わん。筆者道徳の学無かりし故に、寓言のしざままで愚かなりとは、その事どもの、なにのいたり深きことわりも無く、ただいと浅はかに聞ゆるを云うなるべし。そは猶思いはかりの、くわしからざる事なりかし。古今集の歌にも、そこいなき淵やは騒ぐ、と詠めるごとく、すぐれて深き事は、かえりてうわべには、何の深きことわりも見えぬものにて、その理深げに見え聞えたる事は、かの山川の浅瀬の浪のさわぐにて、まことには、さしも深からぬにこそあれ。底いなき淵のさわがぬことわりまでを、今すこし深く思わざるは、いかにぞや。昔神代の御ふみをしるせりし人、たとい、いわゆる道徳の学問は無くとも、寓言をも作るばかりのざえ有らんには、いささかにても、必ず山川の浪の玉ちる、岩瀬のけしきをも、などかは作り成す事を得ざらむ。見どころも無き淵にては、やむべきに有らざるをや。
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『玉勝間』五の巻 漢籍と神ノ御典とのけぢめからぶみの説は、いとかしこくは聞ゆれども、人のさとりは限りし有れば、及ばぬところ有りて、かの人のたくみをもて、人を作らんとすれども、ついに作り得ることあたわざるがごとくなるを、神代の伝えごとは、かの閨の内の態の、見る目ははかなく愚かなれども、よく人を造りなすに同じきをや。このふたつを思いわたして、神世の事どもの、うわべは、なにのことわり有りげも無く、はかなくおろかに聞こゆれども、まことには、人の智の及びがたくはかりがたき、深き理のそなわりたんめる事を、さとりねかしとぞ。
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『玉勝間』二の巻 神典のときざま中昔よりこなた、神典を説く人ども、古の意言をばたずねむ物とも思いたらず、ただひたぶるに、外国の儒仏の意にすがりて、その理をのみ思いさだして、万葉を見ず、むげに古の意言を知らざるが故に、かのから意のことわりの外に、別に古の旨ありて、明らかなることをえ知らず、これによりて古のむねはことごとくうずもれて顕れず、神の御ふみも、皆から意になりて、道明らかならざるなり、かくておのが神の御書をとく趣は、世のつねの説どもとはいたく異にして、世世の人のいまだ云わざる事どもなる故に、世の学者、とりどりにとがむる事おおし。されどそはただ、さきの人人の、ひたすら漢意にすがりて説きたる説をのみ聞きなれて、みずからも同じく、いまだからごころのくせの清く去らざるから、そのわろき事をえさとらざるものなり。おのが云うおもむきは、ことごとく古事記書紀にしるされたる、古の伝説のままなり。世の人人の云うは、皆そのまどい居る漢意に説き曲げたるわたくし事にて、いたく古の伝説と異なり。このけじめは、古事記書紀をよく見ば、おのずから分かるべき物をや。もしおのが説をとがめむとならば、まず古事記書紀をとがむべし。この御典どもを信ぜんかぎりは、おのが説をとがむる事えじ。
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『玉勝間』五の巻 漢籍と神ノ御典とのけぢめ上の三件につきて、又おかしきさとし説をぞ思いえたる。そはすべてから書の、万ずにかしこく、ことわり深く聞ゆるにくらべては、神代の伝説どもの、はかなく愚かに聞こゆるけじめを、一つちかき事につきて、さとさむとするなり。たとえば、今この人と云う物を一人、作り出でんとせむに、いかにかしこくさとり深く、たくみなる人の、いかに心をくだきて、例の陰陽和合のことわりを極め、ここらの年月をいたずきて、作り成さむとすとも、かく活きはたらくまことの人をば、つくり得る事あたわじを、上に云えるように、ただかのおとこ女の閨の内のみそかわざによりては、心をも入れず、小刀の一つだにつかわず、何の労も無くて、成り出ずるぞかし。さるはその閨のうちのしわざよ、何のかしこくうるわしく、理深げなる事かは有る。そのありさまは、穂にいだしてまねぶべくも有らず、いともいともひとわろく、めめしく、童べのたわぶれにもおとりて、はかなく愚かなるしわざなれども、これによりてこそ、人のたくみにてはえ作らぬ、まことの人の、さばかりたやすく成り出ずるなれ。神の御しわざは、世にはかりがたく、あやしくたえなる物ならずや。
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『玉勝間』三の巻 神の御ふみをとける世世のさま神の御典を説く事、むかしは紀伝道の儒者の職にて、その説ける書、弘仁より代代の、日本紀私記これなり。そはいずれも、ただ漢学の余力をもて考えたるのみにして、神の御典をもはら学びたるものに有らざるが故に、古の意詞にくらく、すべてういういしく浅はかにて、もとより道の旨趣も、いかなるさまとも、説きたる事無く、唯だ文によりて、有るべきままに云えるばかりなり。然れども皇朝の昔の儒者は、すべてから国のように、己が殊にたてたる心は無かりし故に、神の御ふみを説くとても、漢意に説きまげたる、私説もおさおさ見えず、儒意によれる強説も無くて、やすらかには有りしを、後の世に至りては、殊に神学と云う一ながれ出来て、もはらにするともがらし有れば、つぎつぎに委しくはなりもて行けど、なべての世の物知り人の心、なまさかしくなりて、神の御ふみを説く者も、さかしらを先にたてて、文のままには物せず、おのが好むすじに引きつけて、或るは仏意、或るは儒意に、説き曲ぐる事となれり。
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『玉勝間』一の巻 漢意然るに神の御典を説くともがら、もはらこれらの理をもて説くなるは、いかなるしれわざぞや。近き頃にいたりて、儒意をのぞきて説くと思う人も、なおこの天理・陰陽などの説のひが事なるをば、えさとらず、その垣内を出ではなるる事あたわざるは、なお漢意のきよく去らで、かれにまどえる夢の、いまだ確かにさめざるなり。また天照大御神を、天津日にはあらずとするも、漢意の小さき理にかかわりなづみて、まことの道の、微妙なる深きことわり有ることを思わざるものなり。この大御神天津日にましまして、その御孫命天より降り坐して、御国しろしめす御事は、人のちいさきさとりをもて、その理は測り知らるべききわにあらず。おのが智もてはかり知る事あたわざるをもて、その理無しと思うは、例の小さきから意なるをや。
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