言志四録 / 言志後録 第百五十七条 養子承後
邦俗養子承後。雖出於不得已。於道亦不太妨。堯以舜爲婿。後以天下與之。祭法曰。有虞氏祖顓頊而宗堯。則全然與養子承後相類。葢亦天也。
新字:邦俗養子承後。雖出於不得已。於道亦不太妨。堯以舜為婿。後以天下与之。祭法曰。有虞氏祖顓頊而宗堯。則全然与養子承後相類。葢亦天也。
書き下し
邦俗の養子承後は、已むを得ざるに出づと雖も、道に於ても亦太だしくは妨げず。堯は舜を以て婿と為し、後天下を以て之に与ふ。祭法に曰く、「有虞氏は顓頊を祖として堯を宗とす」と。則ち全然養子承後と相類す。蓋し亦天なり。
現代語訳
わが国の風習である、養子を取って家を継がせることは、やむをえない事情から出たものではあるが、道理の上からもそれほど差し支えない。堯は舜を娘婿とし、後に天下を譲った。『礼記』祭法篇には「有虞氏(舜)は顓頊を祖とし、堯を宗とする」とある。これはまったく養子が家を継ぐのと似ている。思うに、これもまた天の定めである。
解説
日本の養子相続の慣行を、儒教の立場から弁護した一条です。中国の儒教では、血のつながらない他姓の者を後継ぎにすることは宗法に反するとして否定的に見られました。しかし日本では、家の存続のために養子を迎えることが武家でも商家でも広く行われていました。一斎は、それがやむをえない事情から生じたものでも、道理に大きく反するものではないと言い、根拠として堯が娘婿の舜に天下を譲った故事と、『礼記』祭法篇の、舜の一族が顓頊を祖とし堯を宗として祀ったという記述を挙げます。前条と同じく、中国の礼を日本の現実にどう合わせるかという問題意識が見えます。血縁によらない継承をどう正当化するかは、事業承継を考える現代にも通じる問いです。
この章句が説くこと
承継養子礼家天命
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