玉勝間 / 五の巻 あやしき事の説
さるに此人と云ひし物、ある時いたくなやみて、やうやうに重りて行くほどに、つひにかのよろづのしわざ皆やみて、いささか動く事もせず成りて止みにき、と記したらむ書を、儒者の見たらむには、例の信ぜずして、神代ならんからに、いづこのさるあやしき事か有るべき。すべてすべて理も無く、つたなき寓言にこそは有れ、とぞ云はむかし。
書き下し
さるにこの人と云いし物、ある時いたくなやみて、ようように重りて行くほどに、ついにかのよろずのしわざ皆やみて、いささか動く事もせず成りて止みにき、と記したらむ書を、儒者の見たらむには、例の信ぜずして、神代ならんからに、いずこのさるあやしき事か有るべき。すべてすべて理も無く、つたなき寓言にこそは有れ、とぞ云わむかし。
現代語訳
ところがこの人というものが、ある時ひどく病んで、しだいに重くなっていくうちに、ついにあのさまざまな働きがみな止まり、少しも動かなくなって終わってしまった、と記した書を儒者が見たならば、いつものように信じないで、「神代だからといって、どこにそのような不思議なことがあろうか。まったく何の道理もない、拙い寓言である」と言うことだろう。
解説
前半で描いた「人というもの」の話に、死を書き加えて締めくくる短い後半である。あれほど見事に働いていた耳も目も口も手足も、病が重くなるとすべて止まり、少しも動かなくなる。これが神代の記録として書かれていれば、儒者はいつものように、そんな理屈に合わないことがあるものかと寓言扱いするだろう、と宣長は皮肉る。生も死も、目の前で毎日起きているから人は怪しまないだけで、理屈で説明し尽くせたわけではない。宣長は死を人の知でどうにもならない悲しいものとして正面から受け止めた人でもある。ここではその死を例に取り、分かったつもりの理屈が、実は見慣れに寄りかかっているだけだと示している。当たり前をいったん外から眺め直す、という読み方の訓練である。
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 また又上のくだり、人と云いて、神代に有りし物の、生まるるはじめを記して、この人と云いける物の、出で来しようは、まずはじめ某の国に、男女住みける。その男女、夜ねたりし程に、しかじかのわざをしたりしに、女の腹なん、ようようにふくらかになりて、十月と云う頃おい、腹いたく覚えて、にわかにまえより、何にかあらん、動きて啼くものぞ出で来にける。とりあげて見ければ、云云の物になん有りける。またはじめ、腹のふくらかになりつる程よりして、胸乳より白き汁の出でそめて、たえず出でけるを、かの出で来て啼く物の、声のいずる孔にあてて、くくめしかば、心地よげにのむままに、よるひると云わず飲ませつつ、月日をふるままに、その物、ようように大きになりゆきて、初めの程はせざりしわざどもも、ようようにしいでてなむ、上の件に云えるようにはなれりける、としるしたらんを、儒者見てば、又何とか云わむとする。例の、寓言とぞ云うべき。すべて神代の事どもも、今は世にさる事の無ければこそ、あやしとは思うなれ。今も有らましかば、あやしとは思わましや。今世に有る事も、今有ればこそ、あやしとは思わね、つらつら思いめぐらせば、世の中にあらゆる事、なに物かはあやしからざる。云いもてゆけば、あやしからぬは無きぞとよ。
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『玉勝間』十一の巻 人のうまるるはじめ、死て後の事人の生まれ来るはじめ、また死にて後、いかなるものぞと云う事、誰も心にかけて、明らめ知らまほしくするならいなるを、仏ぶみに説きたる、生死の趣、心性のさだ、いと委しきようなれど、皆人の考えたる、作り事なれば、よく悟りあきらめたらむも、ついに何の用も無き、いたずらわざなり。ただ儒者の説に、死にて身ほろびぬれば、心神もともに消えうせて、残る事無しと云えるぞ、よく思いめぐらせば、真にさるべきことわりとは聞こえたる。然はあれども、これもまた頼み難し。すべて物の理は限り無きものにて、火の色は赤きに、焼けたる物は、黒くなり、また灰になれば、白くこそなれ。すべてかく思いのほかなる事有りて、思いはかれるとは、いたくたがえる事の多ければなり。されば人の死にて後のようも、さらに人の智もて、一わたりのことわりによりて、はかり知るべきわざには有らず、思いのほかなるものにぞ有るべき。これを思うにも、皇国の神代の神のつたえ説に、夜見国にまかると云えるこそ、いといと尊けれ。から国のことわり深げなる、さかしき説どもは、なかなかにいとあさはかなる事なりかし。
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『玉勝間』五の巻 あやしき事の説もし人と云う物、今は無き世にて、神代にさる物ありきと記して、その人と云いし物のありしよう、まず上つかたに、首と云う所有りて、その左右に、耳と云うもの有りて、もろもろの声をよく聞き、おもての上つ方に、目と云う物二つ有りて、よろずの物の色かたちを、残るくまなく見明らめ、その下に、鼻と云うものも有りて、物の香をかぎ、又下に、口と云う物ありて、おくより声の出ずるを、くちびるを動かし、舌を働かすままに、その声さまざまにかわりて、詞と成りて、万の事を云い分け、又首の下の左右に、手と云うもの有りて、末に岐ありて、指と云うこのおよびを働かして、万のわざをなし、万の物を造り出だせり。又下つかたに、足と云う物、これも二つ有りて、うごかしはこべば、百重の山をも登り越えて、いずこまでもありき行きつ。かくて又胸の内に隠れて、心と云う物有りつる。こは有るが中にも、いとあやしき物にて、色も形も無きものから、上の件、耳の声を聞き、目の物を見、口のもの云い、手足のはたらくも、皆この心のしわざにてぞ有りける。
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『玉勝間』八の巻 しぬるを病死と云ふ事今の世、おおやけざまの文書などには、人の死ぬるを、病死と云うことなり。そもそも人は、病ならで死ぬるは、百千の中に、稀れに一人二人などこそ有べけれ、おしなべては、みな病て死ぬる事なれば、それをとり分けては云わでも有ぬべく覚ゆるを、これは昔みだれ世の頃は、戦いて死ぬるもの多かりし故に、病死は病死と、分けて云えりし時のならいのままなるべし。
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『玉勝間』五の巻 漢籍と神ノ御典とのけぢめからぶみの説は、いとかしこくは聞ゆれども、人のさとりは限りし有れば、及ばぬところ有りて、かの人のたくみをもて、人を作らんとすれども、ついに作り得ることあたわざるがごとくなるを、神代の伝えごとは、かの閨の内の態の、見る目ははかなく愚かなれども、よく人を造りなすに同じきをや。このふたつを思いわたして、神世の事どもの、うわべは、なにのことわり有りげも無く、はかなくおろかに聞こゆれども、まことには、人の智の及びがたくはかりがたき、深き理のそなわりたんめる事を、さとりねかしとぞ。
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『玉勝間』五の巻 漢籍と神ノ御典とのけぢめ上の三件につきて、又おかしきさとし説をぞ思いえたる。そはすべてから書の、万ずにかしこく、ことわり深く聞ゆるにくらべては、神代の伝説どもの、はかなく愚かに聞こゆるけじめを、一つちかき事につきて、さとさむとするなり。たとえば、今この人と云う物を一人、作り出でんとせむに、いかにかしこくさとり深く、たくみなる人の、いかに心をくだきて、例の陰陽和合のことわりを極め、ここらの年月をいたずきて、作り成さむとすとも、かく活きはたらくまことの人をば、つくり得る事あたわじを、上に云えるように、ただかのおとこ女の閨の内のみそかわざによりては、心をも入れず、小刀の一つだにつかわず、何の労も無くて、成り出ずるぞかし。さるはその閨のうちのしわざよ、何のかしこくうるわしく、理深げなる事かは有る。そのありさまは、穂にいだしてまねぶべくも有らず、いともいともひとわろく、めめしく、童べのたわぶれにもおとりて、はかなく愚かなるしわざなれども、これによりてこそ、人のたくみにてはえ作らぬ、まことの人の、さばかりたやすく成り出ずるなれ。神の御しわざは、世にはかりがたく、あやしくたえなる物ならずや。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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