玉勝間 / 四の巻 もろこし人の説こちたくくだくだしき事
すべてもろこし人の物の論ひは、あまりくだくだしくこちたくて、あぢきなき徒ら事多し。宋儒の論ひを、こちたしとてそしる儒者も多けれど、それも唯だいささか甚しからぬのみにこそ有れ、然か云ふ者も猶こちたし。
書き下し
すべてもろこし人の物の論いは、あまりくだくだしくこちたくて、あじきなき徒ら事多し。宋儒の論いを、こちたしとてそしる儒者も多けれど、それもただいささか甚しからぬのみにこそ有れ、然か云う者もなおこちたし。
現代語訳
総じて中国人の物事の議論は、あまりにくだくだしく仰々しくて、つまらない無駄事が多い。宋儒の議論を仰々しいといって謗る儒者も多いけれども、それもただ少しばかり甚だしくないというだけであって、そう言う者もやはり仰々しい。
解説
中国の学者の議論が煩瑣であることを批判した短い一段である。宣長は、中国人の議論は細かすぎて大げさで、つまらない無駄が多いと言う。宋儒の理屈っぽさを批判する儒者も多いが、それも程度が少し軽いだけで、そう言う者もやはり煩瑣だ、と続ける。ここで念頭にあるのは、朱子学を批判して古の聖人の言葉に直接向かおうとした伊藤仁斎や荻生徂徠らの古学派であろう。宣長は徂徠の学問から多くを学んだが、儒学である以上、同じく理屈で道を立てる漢意から抜け出ていないと見ていた。前段で述べた、おおらかに定めてくだくだしい論に及ばないことを良しとする考えの続きである。議論を精密にすればするほど真実に近づくとは限らない。理屈の積み重ねそのものを疑う視点である。
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