玉勝間 / 四の巻 法親王入道親王
北山抄の御佛名ノ條の裏書に、天曆九年十二月廿二日、入道親王依召參候云云、法親王依仰彈和琴」と有る。是れは同じ御事を、入道親王とも、法親王とも申せり。古くは通はして申せしなるべし。後ノ世には、親王のかざりおろし給へるを、入道親王と申し、僧になり給ひて後に、親王になり給へるを、法親王と申して、かはり有めり。
新字:北山抄の御仏名ノ条の裏書に、天暦九年十二月廿二日、入道親王依召参候云云、法親王依仰弾和琴」と有る。是れは同じ御事を、入道親王とも、法親王とも申せり。古くは通はして申せしなるべし。後ノ世には、親王のかざりおろし給へるを、入道親王と申し、僧になり給ひて後に、親王になり給へるを、法親王と申して、かはり有めり。
書き下し
北山抄の御仏名の条の裏書に、天暦九年十二月二十二日、入道親王召しに依りて参候す云々、法親王仰せに依りて和琴を弾く、と有る。是れは同じ御事を、入道親王とも、法親王とも申せり。古くは通わして申せしなるべし。後の世には、親王のかざりおろし給えるを、入道親王と申し、僧になり給いて後に、親王になり給えるを、法親王と申して、かわり有めり。
現代語訳
北山抄の御仏名の条の裏書に、「天暦九年(955年)十二月二十二日、入道親王が召しによって参上した云々、法親王が仰せによって和琴を弾いた」とある。これは同じお方のことを、入道親王とも法親王とも申し上げている。古くは互いに通わせて申し上げたのであろう。後の世には、親王が出家なさったのを入道親王と申し、僧になられた後に親王になられたのを法親王と申し上げて、区別があるようだ。
解説
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 法親王のはじめ続世継に、覚行法親王の御事を申していわく、わらわにても親王の御名え給わねども、親王の宣旨こうぶり給えり。後二条のおとど、出家の後は、例無きよし侍りけれども、白川院、内親王と云う事も有れば、法親王もなどか無からんとて、始めて法師の後、親王と聞こえ給いしなり。かくて後ぞ、打ち続きいづくにも、出家ののちの親王きこえ給うめる、と有り。法内親王の御例は、今の世までも、いまだおわしまさず。
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『玉勝間』四の巻 宮と申す称天皇の御胤を宮と申す事、古えは皇子皇女にかぎれり。皇子の御子よりしては、宮と申す事無かりき。然るを中ごろよりして、皇子の御子をも申し、近くは親王の御すじをば、世々すべて宮と申す事となれり。
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『玉勝間』九の巻 后妃内親王など院号の事同書に、応保元年、十二月十六日、無品内親王(障子)を以て八条院と為す、伊通公の申状に、帝王の養母の儀、元延喜より始まる事なり、所謂温子(九条殿の女)なり、貴くして皇太后と為す、寛平法皇先例無しと申さしめ、仍りて然るべからざるの由給う、然れども例に依るべからず、母儀を存ぜしめ給うの由、之を仰せらる、女院は東三条院より始まる、院号は后より貴きか、将た賤しきかの由、法家に問わるべし、小一条院は、元東宮なり、而るに院号の後、三宮の下たるべきの由宣下す、太上天皇は別なり、只の院号は、更に后位より貴かるべからざる事なり。
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『玉勝間』六の巻 小宮同じ書に、建久四、十一、五、同記に云う、今日仁和寺の小宮(高倉院の御子)御灌頂の後朝なり云云。物がたり書どもに、いまだ元服せぬ人を、小君と云えり。これに小宮と有るは、皇子の、童にますほどを申すなるべし。
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『玉勝間』十三の巻 親王宣旨の書キやう同書に、文治五、十一、十九、同記に云う、高倉院の宮宮、親王の宣旨を下さるべし、云云、御名字を宣下す、云云、壇紙一枚に書く云云、その書様、守貞惟明已上親王と為すと見ゆ。件の二つの御名、並びて各一行に書きて、已上云云は、又一行にて、少し下して書きたり。
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『玉勝間』四の巻 李部王ノ記李部王の記と云うふみの名の李の字、心得がたし。西宮記・北山抄などに引かれたるには、吏の字をのみ書かれたり。台記などにすら、吏の字を書かれたり。李は後に誤れるものなるべし。
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