玉勝間 / 四の巻 猿の舞をまふ事
寛元三年四月廿一日、左馬頭入道正義、自美作國領所稱將來之由、獻猿於御所、彼猿舞蹈如人倫、大殿并將軍家、召覽于御前、爲希有事之旨、及御沙汰〓隆云、是匪直之事歟、と同書に見えたり。賴經ノ君、將軍の職を賴嗣ノ君にゆづり給ひて後、鎌倉にて大殿と申せり。
新字:寛元三年四月廿一日、左馬頭入道正義、自美作国領所称将来之由、献猿於御所、彼猿舞蹈如人倫、大殿并将軍家、召覧于御前、為希有事之旨、及御沙汰〓隆云、是匪直之事歟、と同書に見えたり。頼経ノ君、将軍の職を頼嗣ノ君にゆづり給ひて後、鎌倉にて大殿と申せり。
書き下し
寛元三年四月二十一日、左馬頭入道正義、美作国の領所より将来すと称するの由、猿を御所に献ず、かの猿舞踏すること人倫の如し、大殿ならびに将軍家、御前に召し覧ず、希有の事たるの旨、御沙汰に及ぶ、〓隆云う、これ直なる事にあらざるか、と同書に見えたり。頼経の君、将軍の職を頼嗣の君にゆずり給いて後、鎌倉にて大殿と申せり。
現代語訳
「寛元三年(1245年)四月二十一日、左馬頭入道正義が、美作国の領地から連れて来たと称して、猿を御所に献上した。その猿は人間のように舞い踊った。大殿と将軍家が御前に召してご覧になり、珍しい事だということで評判になった。〓隆は、これはただ事ではないのではないかと言った」と、同じ書に見えている。頼経君が将軍の職を頼嗣君にお譲りになった後、鎌倉で大殿と申し上げた。
解説
吾妻鏡から、人のように舞う猿が将軍御所に献上された記事を引いた一段である。寛元三年、美作から連れて来たという猿が人のように舞い踊り、大殿頼経と将軍頼嗣が召して見物し、珍しいことだと話題になった。ところが一人が、これはただ事ではない、何かの前兆ではないかと言った、と記事は結ぶ。頼経はこの翌年、鎌倉を追われて京へ送り返されることになる。宣長は評を加えず、「大殿」とは将軍職を子の頼嗣に譲ったあとの頼経の呼び名だ、と説明を添えるにとどめている。記録に残る珍事と、それを凶兆と見た人の言葉は、当時の人が出来事をどう受け止めたかを伝えている。記事の人物の呼び名を正確に押さえてから読む、という読み方も示されている。
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