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玉勝間 / 四の巻 あかもがさ

日本紀略云、長德四年七月、天下衆庶煩疱瘡、世号之稻目瘡、又号赤疱瘡、天下无免此病之者、但前信濃守佐伯公行、不患此病、また云く、今年天下、自夏至冬、疫瘡遍發、六七月間、京師男女、死者甚多、下人不死、四位已下人妻最甚、謂之赤斑瘡、始自主上、至于庶人、上下老少、无免此瘡、只前信濃守公行不患、と見えたり。稻目瘡と名けたるは、蘇我ノ稻目ノ大臣の事を思ひてなるべし。書紀ノ欽明ノ御卷十三年、疫氣のおこりし事考ふべし。又敏達ノ御卷に、十四年、天皇與大連卒患於瘡云云、又發瘡死者充盈於國、其患瘡者、言身如被燒被打被摧、啼泣而死、老少竊相謂曰、是燒佛像之罪矣とあるも、あかもがさにや有けん。此かさの事、榮華物語浦浦の別ノ卷に、今年例のもがさにはあらで、いと赤きかさのこまかなる出できて、老たる若かき上下わかず、これを病みののしりて、やがていたづらに成るたぐひもあるべし云云と有る。これかの長德四年のたびの事なり。又峰の月ノ卷にも、ことしはあかもがさと云ふ物いできて、上中下わかず病みののしるに、初めのたびやまぬ人の、此たび病むなりけり云云、これは萬壽二年の事なり。はじめの度と云へるは、長德四年にて、それより廿七年後なり。

新字:日本紀略云、長徳四年七月、天下衆庶煩疱瘡、世号之稲目瘡、又号赤疱瘡、天下无免此病之者、但前信濃守佐伯公行、不患此病、また云く、今年天下、自夏至冬、疫瘡遍発、六七月間、京師男女、死者甚多、下人不死、四位已下人妻最甚、謂之赤斑瘡、始自主上、至于庶人、上下老少、无免此瘡、只前信濃守公行不患、と見えたり。稲目瘡と名けたるは、蘇我ノ稲目ノ大臣の事を思ひてなるべし。書紀ノ欽明ノ御巻十三年、疫気のおこりし事考ふべし。又敏達ノ御巻に、十四年、天皇与大連卒患於瘡云云、又発瘡死者充盈於国、其患瘡者、言身如被焼被打被摧、啼泣而死、老少窃相謂曰、是焼仏像之罪矣とあるも、あかもがさにや有けん。此かさの事、栄華物語浦浦の別ノ巻に、今年例のもがさにはあらで、いと赤きかさのこまかなる出できて、老たる若かき上下わかず、これを病みののしりて、やがていたづらに成るたぐひもあるべし云云と有る。これかの長徳四年のたびの事なり。又峰の月ノ巻にも、ことしはあかもがさと云ふ物いできて、上中下わかず病みののしるに、初めのたびやまぬ人の、此たび病むなりけり云云、これは万寿二年の事なり。はじめの度と云へるは、長徳四年にて、それより廿七年後なり。

書き下し

日本紀略に云う、長徳四年七月、天下の衆庶疱瘡を煩う、世これを稲目瘡と号す、また赤疱瘡と号す、天下この病を免るる者無し、ただ前信濃守佐伯公行、この病を患えず、また云く、今年天下、夏より冬に至るまで、疫瘡遍く発る、六七月の間、京師の男女、死する者甚だ多し、下人は死せず、四位已下の人の妻最も甚だし、これを赤斑瘡と謂う、主上より始めて、庶人に至るまで、上下老少、この瘡を免るる無し、ただ前信濃守公行のみ患えず、と見えたり。稲目瘡と名づけたるは、蘇我の稲目の大臣の事を思いてなるべし。書紀の欽明の御巻十三年、疫気のおこりし事考うべし。また敏達の御巻に、十四年、天皇と大連と卒かに瘡を患う云々、また瘡発りて死ぬる者国に充ち盈つ、その瘡を患う者、身焼かるるが如く打たるるが如く摧かるるが如しと言いて、啼泣きて死ぬ、老少竊かに相謂いて曰く、これ仏像を焼きし罪なり、とあるも、あかもがさにや有りけん。この瘡の事、栄華物語浦々の別の巻に、今年例のもがさにはあらで、いと赤き瘡のこまかなる出で来て、老いたる若き上下わかず、これを病みののしりて、やがていたづらに成るたぐいもあるべし云々と有る。これかの長徳四年のたびの事なり。また峰の月の巻にも、ことしはあかもがさと云う物いで来て、上中下わかず病みののしるに、初めのたびやまぬ人の、このたび病むなりけり云々、これは万寿二年の事なり。はじめの度と云えるは、長徳四年にて、それより二十七年後なり。

現代語訳

日本紀略に言う。「長徳四年(998年)七月、天下の民衆が疱瘡に苦しんだ。世間ではこれを稲目瘡と呼び、また赤疱瘡とも呼んだ。天下にこの病を免れた者はなかった。ただ前信濃守の佐伯公行だけはこの病にかからなかった」。また言う。「今年は天下に、夏から冬まで疫病の瘡が広く流行した。六、七月の間、都の男女で死ぬ者がたいへん多かった。下人は死ななかったが、四位以下の人の妻が最もひどかった。これを赤斑瘡という。天皇から始めて庶民に至るまで、上下老若を問わず、この瘡を免れた者はなかった。ただ前信濃守公行だけはかからなかった」と見える。稲目瘡と名づけたのは、蘇我稲目大臣の事を思ってのことであろう。日本書紀の欽明天皇の巻の十三年に、疫病がおこった事を考え合わせるべきである。また敏達天皇の巻に、「十四年、天皇と大連(物部守屋)がにわかに瘡を患った」云々、また「瘡が発して死ぬ者が国に満ちあふれた。その瘡を患う者は、身を焼かれるよう、打たれるよう、砕かれるようだと言って、泣き叫びながら死んだ。老いも若きもひそかに語り合って、これは仏像を焼いた罪だと言った」とあるのも、あかもがさであったろうか。この瘡の事は、栄華物語の浦々の別の巻に、「今年はいつもの疱瘡ではなく、たいへん赤い細かな瘡が出て、老人も若者も身分の上下も問わず、これを病んで大騒ぎし、そのまま亡くなる者もあるだろう」云々とある。これはあの長徳四年のときの事である。また峰の月の巻にも、「今年はあかもがさというものが出て、上中下の別なく病んで大騒ぎするが、初めのときに病まなかった人が、今度病むのであった」云々とあり、これは万寿二年(1025年)の事である。初めのときと言っているのは長徳四年のことで、それから二十七年後である。

解説

平安時代に流行した「あかもがさ」の記録を、史書と物語から集めた一段である。日本紀略は長徳四年の大流行を記し、世に稲目瘡・赤疱瘡と呼ばれたこと、ただ一人佐伯公行だけがかからなかったことまで伝える。宣長は稲目瘡という名に、仏教が伝わった蘇我稲目の時代の疫病の記憶を読み取り、敏達紀の、仏像を焼いた祟りと噂された瘡の流行もこれかと推す。さらに栄華物語から長徳と万寿の二度の流行を拾い、一度目にかからなかった人が二度目にかかった、という記述に目を留めている。一度かかれば二度はかからないという病の性質が、年数の照合から浮かび上がる。散らばった記録を並べて一つの事象を立ち上げる、考証の手際が見える段である。

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