玉勝間 / 三の巻 下樋小川
かくて此川も、かの眞盛川の上たる小川どもの內の一ッなるを以て思ふに、此下樋、古より然かせる事にて、下樋小川と云ふ名は、もしくは是によりて負へるには有らざるにや。此事よし有りげにおぼゆる故に、しるしつ。まことや上に云へる細汲岸江と云ふところは、伊勢勅使部類記に、嘉承二年二月十一日、伊勢奉幣使進發云云、出壹志驛、岸江南、大神宮撿非違使二人來、依爲祇承也、(伊勢祇承歸也、また、長治二年八月十六日、伊勢勅使進發云云、十八日雖可急立、待潮干之間、及巳終、沐浴解除、依保曾久美南江潮、疋駕暫國立神寶奉留者、待潮干之故也岸江南、仕承撿非違使來向、伊勢仕承歸去、渡櫛田川之後、暫休息云云、と見えたり。岸江南と云へる、即ヲ下樋小川なり。岸ノ江は、今も松坂のすこし東にて、西岸ノ江東岸ノ江とて有り。細汲は、細頸とも云り、松坂の半里ばかり北の海邊にて、後に松が島とて、北畠ノ信雄の君の、城を築かれし所なり。今の松坂は、その松が島の城を、引うつせるなり。
新字:かくて此川も、かの真盛川の上たる小川どもの内の一ッなるを以て思ふに、此下樋、古より然かせる事にて、下樋小川と云ふ名は、もしくは是によりて負へるには有らざるにや。此事よし有りげにおぼゆる故に、しるしつ。まことや上に云へる細汲岸江と云ふところは、伊勢勅使部類記に、嘉承二年二月十一日、伊勢奉幣使進発云云、出壱志駅、岸江南、大神宮撿非違使二人来、依為祇承也、(伊勢祇承帰也、また、長治二年八月十六日、伊勢勅使進発云云、十八日雖可急立、待潮干之間、及巳終、沐浴解除、依保曽久美南江潮、疋駕暫国立神宝奉留者、待潮干之故也岸江南、仕承撿非違使来向、伊勢仕承帰去、渡櫛田川之後、暫休息云云、と見えたり。岸江南と云へる、即ヲ下樋小川なり。岸ノ江は、今も松坂のすこし東にて、西岸ノ江東岸ノ江とて有り。細汲は、細頸とも云り、松坂の半里ばかり北の海辺にて、後に松が島とて、北畠ノ信雄の君の、城を築かれし所なり。今の松坂は、その松が島の城を、引うつせるなり。
書き下し
かくて此川も、かの真盛川の上たる小川どもの内の一つなるを以て思うに、此下樋、古より然かせる事にて、下樋小川と云う名は、もしくは是によりて負えるには有らざるにや。此事よし有りげにおぼゆる故に、しるしつ。まことや上に云える細汲岸江と云うところは、伊勢勅使部類記に、嘉承二年二月十一日、伊勢奉幣使進発云云、壱志駅を出づ、岸江の南、大神宮の検非違使二人来る、祗承たるに依るなり、(伊勢の祗承帰るなり、また、長治二年八月十六日、伊勢勅使進発云云、十八日急ぎ立つべしと雖も、潮干を待つの間、巳の終りに及ぶ、沐浴解除す、保曾久美の南江の潮に依りて、疋駕暫く国立ち神宝を留め奉るは、潮干を待つ故なり、岸江の南、仕承の検非違使来向す、伊勢の仕承帰り去る、櫛田川を渡るの後、暫く休息す云云、と見えたり。岸江の南と云える、即ち下樋小川なり。岸の江は、今も松坂のすこし東にて、西岸の江東岸の江とて有り。細汲は、細頸とも云えり、松坂の半里ばかり北の海辺にて、後に松が島とて、北畠の信雄の君の、城を築かれし所なり。今の松坂は、その松が島の城を、引きうつせるなり。
現代語訳
こうしてこの川も、あの真盛川の上流である小川の一つであることから考えると、この下樋は昔からそのようにしていたことであって、「下樋小川」という名は、もしかするとこれによって負ったのではなかろうか。このことは理由がありそうに思われるので記しておいた。そういえば、上に述べた細汲・岸江という所は、『伊勢勅使部類記』に「嘉承二年二月十一日、伊勢奉幣使が出発した云々。壱志駅を出た。岸江の南で、大神宮の検非違使二人が来た。案内役であるためである(伊勢国の案内役は帰った)」とあり、また「長治二年八月十六日、伊勢勅使が出発した云々。十八日は急いで発つべきであったが、潮が引くのを待つ間に巳の刻の終わりに及んだ。沐浴して祓えをした。保曾久美(ほそくみ)の南の入り江の潮のために、一行がしばらく留まり神宝をお留め申し上げたのは、潮の引くのを待つためである。岸江の南で案内役の検非違使が来て迎え、伊勢国の案内役は帰り去った。櫛田川を渡った後、しばらく休息した云々」と見える。「岸江の南」と言っているのが、すなわち下樋小川である。岸江は今も松坂の少し東にあって、西岸江・東岸江としてある。細汲は細頸とも言い、松坂の半里ほど北の海辺で、後に松ヶ島といって、北畠信雄の君が城を築かれた所である。今の松坂は、その松ヶ島の城を移したものである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』三の巻 下樋小川伊勢の下樋小川は、古、飯高の郡と飯野の郡との堺にて、飯高の郡とも、飯野の郡とも、書どもには有り。神領と国領との堺にて、駅使の鈴の声を止めし所なり。然るに此川、今はさだかならず。まず昔の大道は、今の大道より東北に在りて、飯高の郡の細汲平生大口江津岸の江、飯野の郡の朝田立入清水など云う村を経て、斎宮にいたる道にて、今も其道あり、三渡りより分るるなり。さて或人の説に、岸の江村と朝田村とのあいだ、東岸の江村を離れて、すこし東に、鈴止の森と云いて、小さき塚あり、これ下樋小川の跡なりと云えり。今は川は流れの変りて、其塚のあたりにはあらず、やや東の方に在りて、真盛川と云いて、土橋を渡せる川なり。此川の上、今の大道にては、飯高の郡の内にて、下村と上川村との間なる小川、又徳和村と下村との間の小川など是なり。さて今の大道、松坂の東なる、徳和村の東のはずれに、貧乏川と云う有りて、土橋を渡せる、其の少し上の方に、此の貧乏川の底の地の下を、西より東へよこぎりに、樋を通して流す川一つあり。そは其川の上の方、地ひきくして、かの貧乏川へ一つに落しがたき故に、しか下樋をとおして、東の地ひきき方へ流せるなり。
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『玉勝間』十四の巻 伊勢国かくて松坂は、殊によき里にて、里のひろき事は、山田につぎたれど、富める家おおく、江戸に店と云う物をかまえ置きて、手代と云う物を多くあらせて、商いせさせて、あるじは、国にのみ居てあそびおり。うわべはさしもあらで、うちうちはいたく豊かにおごりてわたる。すべてこの里、町すじゆがみ正しからず、家なみ悪ろく、一つごとに一尺二尺ずつ出入りてひとしからず、いといとしどけなし。家居はさしもいかめしからず。されど内々のすまいはいとよし。水は良き所と悪ろき所と有りてひとしからず。川水すくなく潮もささねば、船通わず。山へは、大方一里あまり、海へは、半里あまり、諸国のたよりよし。ことに京江戸大坂はたよりよし。諸国の人の入り来る国なれば、いずこへもいずこへも便りよし。人の心は善くもあらず、奢りてまこと少なし。人のかたち、男も女もいなかびたる事更に無くよろし。女は里のゆたかににぎわわしきままにすがたよそいよし。すべておさおさ京におとれる事無し。人の物云いは、尾張の国より東の国々はなまり多きを、伊勢は、大かたなまり無し。されど山城大和などとは、何と無く声いやしく、詞もいやしきこと多し。
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『玉勝間』十四の巻 伊勢国いわゆる呉服物、小間物のたぐい、松坂は善き品を用いて、山田津などとはこよなく代物よし。されば商人の、京よりしいるるも、松坂は殊に物よく上々の品なり。京のあき人常に来かようなり。時々のはやり物も、おり過ごさず、諸芸は所がらにあわせては、善きことも有らず。もろもろの細工いと上手なり。あきないごとにぎわわし。芝居、見せ物、神社、仏閣すべてにぎわわし。すべてこの国は、他国の人多く入りこむ国なる故に、善からぬ物もおおく、盗なども多し。松坂は、魚類野菜などすべて豊かなり。されど魚には、鯉鮒すくなく、野菜には、くわい蓮根など少なし。松坂のあかぬ事は、町筋の正しからずしどけなきと、船の通わぬとなり。
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『玉勝間』三の巻 伊勢例幣使発遣参向路次事西宮記に云う、伊勢使、当日早旦沐浴す、次に禊を修す云云、次に参る、(内に生絹の袋を頸に懸け、袍の下に在り、)近例召しに依りて御前に参り、竜顔に近づき、宸筆の宣命を給う、(近代懸紙一枚を加えて封ぜらる、)使笏を授けて之を給わり、懐中に挿む、勅して曰く能く能く申し進めよ、使称唯す、次に仰せられて曰く、宣命読み了らば、神前に於いて之を焼くべし、(若し仰せられずば、殿上に出でて蔵人をして焼くべきか、将た返上すべきかの由を申さしむ、云云、)次に甲賀駅に到りて宿す、云云、十日云云、鈴鹿駅に到りて宿す、十一日、国司供給す、早旦浴殿、次に禊して路に就く、(鈴鹿川を渡ること二渡、安濃川三瀬、雲出川を渡る、)壱志駅に到りて宿す、十二日云云、伊勢の祗承、下見橋に於いて退去す、櫛田川を渡る、(大神宮の検非違使祗承すべし、)多気川にて禊す、(大神宮司祓物を儲く、)下樋小川、或いは云う鈴の声を停む、(神領と国領との界なり、)件の川は斎宮の東に在り、これに下見橋と下樋小川とを、別にある如く記せれども、下見橋すなわち下樋小川の橋なり。此川は、櫛田川多気川などより西にあり、斎宮の東に在りとあるも、たがえり。斎宮は、多気川の東なればなり。
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『玉勝間』十四の巻 伊勢国伊勢の国は、かた国のうまし国と古語にも云いて、北のはてより南のはてまで、西の方は山々つらなり続きて、まことに青垣を成せり。東の方は入海にて伊勢の海と云うこれなり。かくていずこもいずこも山と海との間、ひろく平原にして、北は桑名より、南は山田まで、二十里あまりがほど、山と云う物一つも越ゆる事無くひたつづきの国原なり。その間に、広き里々おおかる中に、山田、安濃津、松阪、桑名など、殊ににぎわわしく大きなる里なり。大かた京より江戸まで、七国八国を経てゆく間に、かばかりの大里は、近江の大津と、駿河の府をおきては有る事無し。外の国々も思いやらる。なお件の里々につぎて、四日市、白子などよき邑なり。かくてこの国、海の物、山野の物、すべて乏しからず。暑さ寒さも、他国にくらぶるに、さしも甚だしからず。但し寒さは、北の方へ寄るままに次第に寒し。風はよく吹く国なり。国のにぎわわしき事は、大御神の宮にもうずる旅人たゆる事無く、殊に春夏のほどは、いといとにぎわわしき事、大かた天の下にならび無し。土こえて、稲いとよし。たなつ物も畑つ物も、大かた皆よし。
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『玉勝間』六の巻 しはつ山 笠縫ノ島里人昔より笠をぬう事を業として名高く、童謡にもうたえり。今も里の長幸田喜右衛門と云う者の家より、御即位のおりは、内裏へ菅を献る。また讃岐の殿へも、円座の料の菅をまいらすとぞ。延喜の内匠寮式に、伊勢斎王の野宮の装束の中に、御輿の中子の菅蓋一具(菅并びに骨の料の材は、摂津国の笠縫氏より参り来たりて作る)、と有り。笠縫氏は、この所の人にぞ有りけむ。さてこの深江村は、大坂の城より東にあたりて、河内の堺に近し。この地古えは島なりしよし、里人云い伝えたり。まことにこのわたり古は、北の方は難波堀江に続き、東は大和川、南西は百済川、そのほかも小川ども多く流れあいて、広き沼江にて有りしとおぼしくて、難波の古き図のさまも、しか見えたり。また今この里人の語るを聞くに、この村のみ地高くて、ほとりは、いず方もいず方も地ひきし。井など掘れば、葦の根貝のからなど出ずと云えり。かくてこのところ、かのしはつ山の坂路より、北にあたりて、よきほどの見渡しなれば、島こぎ隠るたななし小船、とは詠めるなりけり。
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