玉勝間 / 三の巻 妖ノ字の事
又同盛衰記に、平ノ時忠ノ卿の事を云へる所に、故建春門院の御妖にておはしまししかばと、これには、せうとに妖ノ字を書たり。そもそも此字は、妹にむかへて、夫、兄の意に、皇國にて古、造れる字と見えたり、さるたぐひ外にも多し。字書を考フるに、此字、漢國にも有れども、夫兄などの義は、かつて無き字なり。
新字:又同盛衰記に、平ノ時忠ノ卿の事を云へる所に、故建春門院の御妖にておはしまししかばと、これには、せうとに妖ノ字を書たり。そもそも此字は、妹にむかへて、夫、兄の意に、皇国にて古、造れる字と見えたり、さるたぐひ外にも多し。字書を考フるに、此字、漢国にも有れども、夫兄などの義は、かつて無き字なり。
書き下し
又同じ盛衰記に、平の時忠の卿の事を云える所に、故建春門院の御妖にておわしまししかばと、これには、せうとに妖の字を書きたり。そもそも此字は、妹にむかえて、夫、兄の意に、皇国にて古、造れる字と見えたり、さるたぐい外にも多し。字書を考うるに、此字、漢国にも有れども、夫兄などの義は、かつて無き字なり。
現代語訳
また同じ『源平盛衰記』に、平時忠卿のことを述べた所に「故建春門院の御兄(せうと)でいらっしゃったので」とあり、これには「せうと」にこの字を書いている。そもそもこの字は、「妹」に対して、夫・兄の意味で、我が国で昔造った字と思われる。そういう類いの字はほかにも多い。字書を調べると、この字は中国にもあるけれども、夫や兄などの意味はまったく無い字である。
解説
前段の続きで、宣長はこの字が「せうと(兄)」の意味でも使われた例を源平盛衰記から挙げる。平時忠は、後白河上皇の后で高倉天皇の母となった建春門院滋子の兄である。そのうえで、この字は日本で夫や兄の意味に造った字であり、中国の字書に同じ形の字があっても、そうした意味はまったく無い、と結論づける。峠や榊、畑のように、日本で独自に作られた漢字は数多くある。宣長が問題にしているのは、形が同じでも日本での意味と中国での意味が別物になっている場合で、中国の字書だけを頼りに古い日本の文献を読むと誤る、という注意でもある。漢字は借り物であり、それを使って日本人が日本語を書き表した歴史がある。文字を見るときにも、日本語の側から考えるという宣長の立場が貫かれている。
関連する章句
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『玉勝間』三の巻 妖ノ字の事鎮火の祭の祝詞に、伊邪那美の命の御言に、伊邪那岐の命を、吾奈妖乃命、また吾名妖乃命とあり、又その上の文に、妹背二柱とある、背の字も、書紀の釈・元元集などに引けるには、妖とあれば、古き本に然か有りしなるべし。さて和名抄備中の国賀夜の郡の郷の名に、庭妹と書きて、爾比世としるしたるあり、今の世に庭瀬と云う所なり。此妹の字も、妖を誤れるなり。又同国下道の郡呉妹、下野の国芳賀の郡に、広妹遠妹など云う郷の名あり、これらは読をしるさざれば、いかならん知られねども、妹の字なるに、イモとよまずして、セと仮字をつけたる、まことにセなるべく聞こゆる名どもなり。それにとりて、又備中の国下道の郡に、弟翳と書きて、勢と読む郷の名も有るに准うれば、これらも妹と書きて、セなるにやとも思わるれど、古、男女の兄弟のあいだにて、女は、男をば、勢と云いし例なれば、弟をも、かの弟の字は、さるよしなど有りて、負いたる名とせば、云われたるを、妹と書きて、セと読むべきよしは、さらに無ければ、皆妖の字を写し誤れる事しるし。又源平盛衰記に、平家の侍に、妹尾太郎と云う有り。これも同じ。妖の字は目馴れぬ故に、みなかく妹に誤れるなり。
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『玉勝間』十四の巻 仮字皇国の言を、古書どもに、漢文ざまに書けるは、仮字と云うもの無くして、せむかたなく止む事を得ざる故なり。今はかなと云う物ありて、自由に書かるるに、それを捨てて、不自由なる漢文を以て、書かむとするはいかなるひが心得ぞや。
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『玉勝間』十三の巻 文字を添て書る例同集に、雖干跡、将有裳、不知爾、これらの書きざま、下なる跡の字裳の字爾の字余れるが如し。この例、続紀の宣命の詞、又菅家万葉などにも有り、その外にも有りしとおぼゆ。
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『玉勝間』一の巻 言をもじと云ふ事歌のみそじひともじを、近きころ古学するともがらは、字と云う事をきらいて、卅一言と云い、五もじ七もじなどをも、五言七言とのみ云うなれども、古今集の序にも、みそもじあまりひともじと有りて、古えより斯く云えり。すべてもじと云うは、文字の字の音にて、御国言にはあらざれども、もんじと云わずして、もじと云えば、字の音とも聞こえず、御国言めきてきこゆる。この外にも、ほうし、ぜに、ふみなどのたぐい、字の音を直して、やがて御国言に用いたる例多かり。されば古き物語ぶみなどにも、詞をことばと云いて悪ろき所をば、もじと云えること多し。のもじ、をもじなど云う類なり。これらをも、近く古学の輩の、のの語、をの語など云うなるは、中々にからめきてぞ聞こゆる。源氏物語などには、別と云う事をすら、わかれと云うもじと云い、葵の巻には、今はさるもじいませ給えなど有るも、さる詞と云う事なり。かく詞と云いても善きをだに、もじと云える事あれば、まして五もじ七もじのもじをもじなどのたぐいは、さらなり。
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『玉勝間』九の巻 人ノ名を文字音に云ふ事人の名を、世に文字の音にて呼びならえる事、古くは、時平の大臣、多田の満仲、源の頼光、安倍の晴明などのごとき有り。やや後には、俊成卿・定家卿、家隆卿、鴨の長明など、もはら文字ごえにのみ云いならえり。琵琶ほうしの、平家物語を語るを聞くに、常にはさもあらぬ、もろもろの人の名どもも、多くは文字ごえに物すなるは、当時ことに、世の中にさかりなりし事なめり。
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『玉勝間』四の巻 御国の言と外ッ国の言とおのづから似たるも同じきもある事皇国の古言と、漢字の音と、おのづから同じきも、まま有るなり。ケと気、ヤと耶、サカと尺、ウマと馬、ニと死、ハグと剥、スと洲などの如し。なお有るべし。また蝉は、セミセミと鳴けば、その声によれる、本よりの名か、字の音をとれるか、これらはわきまえがたし。このたぐいもなお有るべし。文、銭、関などは、字音なる事しるし。然るをこの文、銭などになずらえて、いささかも似たるが有れば、皆その字音をとれりと心得るは、ひが事なり。また梵語、朝鮮語などと似たるが有れば、それをもかれを取れる物と思うめり。まづ梵語をとりて、ここの言にしたるは、有る事無し。たまたま似たるが有るは、おのづからの事なり。千万の言の中には、おのづから似たるも、同じきも、などか無からん。また今の朝鮮の言と同じきは、寺、郡などのたぐいは、まことに韓語をとれるなり。
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