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玉勝間 / 三の巻 神武天皇の御陵

神武天皇の御陵は、今それと申す所は、あらぬ所にて、實は今綏靖天皇の御と申すぞ、神武天皇の御ならむと、おのれ考へて、はやく吉野の道の日記に、しかしるしぬるを、其後此四五年さきに、大和國人に、竹口英齋と云ふが語りけるは、今綏靖天皇の御陵と申すは、なほ綏靖天皇なるべく、神武天皇の御は、おのれさだかに尋ぬ出奉りたり。日本紀にしるされたるに、方もよくあへり。そは畝火山の東北の方の麓につきて、天皇宮といふ祠のある山なり。そこに字を加志と云ふ所あり。古事記にしるされたる、かしの尾ノ上てふ名の殘れるなるべし。山本村なる神八井耳ノ命の御墓山よりは東、小泉堂村よりは南、大久保村よりは西にて、保良村といふ里のあたりなり。その近きあたりの田地の字に、神武田またみさんざいなど云ふ所も有りと云ひて、すべて此うねび山につきたる御陵ども、そのあたりいとくはしく考へて、書たる圖をも見せたりき。同じ國の內にて、殊に近きところなれば、しばしば行見て、考へ定めたるなりとぞ語りける。これを聞き見れば、おのがさきのかむかへは、猶あたらず、まことに此人の云へる所ぞ、其ならむと思はるる。

新字:神武天皇の御陵は、今それと申す所は、あらぬ所にて、実は今綏靖天皇の御と申すぞ、神武天皇の御ならむと、おのれ考へて、はやく吉野の道の日記に、しかしるしぬるを、其後此四五年さきに、大和国人に、竹口英斎と云ふが語りけるは、今綏靖天皇の御陵と申すは、なほ綏靖天皇なるべく、神武天皇の御は、おのれさだかに尋ぬ出奉りたり。日本紀にしるされたるに、方もよくあへり。そは畝火山の東北の方の麓につきて、天皇宮といふ祠のある山なり。そこに字を加志と云ふ所あり。古事記にしるされたる、かしの尾ノ上てふ名の残れるなるべし。山本村なる神八井耳ノ命の御墓山よりは東、小泉堂村よりは南、大久保村よりは西にて、保良村といふ里のあたりなり。その近きあたりの田地の字に、神武田またみさんざいなど云ふ所も有りと云ひて、すべて此うねび山につきたる御陵ども、そのあたりいとくはしく考へて、書たる図をも見せたりき。同じ国の内にて、殊に近きところなれば、しばしば行見て、考へ定めたるなりとぞ語りける。これを聞き見れば、おのがさきのかむかへは、猶あたらず、まことに此人の云へる所ぞ、其ならむと思はるる。

書き下し

神武天皇の御陵は、今それと申す所は、あらぬ所にて、実は今綏靖天皇の御と申すぞ、神武天皇の御ならむと、おのれ考えて、はやく吉野の道の日記に、しかしるしぬるを、其後此四五年さきに、大和国人に、竹口英斎と云うが語りけるは、今綏靖天皇の御陵と申すは、なお綏靖天皇なるべく、神武天皇の御は、おのれさだかに尋ね出で奉りたり。日本紀にしるされたるに、方もよくあえり。そは畝火山の東北の方の麓につきて、天皇宮という祠のある山なり。そこに字を加志と云う所あり。古事記にしるされたる、かしの尾の上ちょう名の残れるなるべし。山本村なる神八井耳の命の御墓山よりは東、小泉堂村よりは南、大久保村よりは西にて、保良村という里のあたりなり。その近きあたりの田地の字に、神武田またみさんざいなど云う所も有りと云いて、すべて此うねび山につきたる御陵ども、そのあたりいとくわしく考えて、書きたる図をも見せたりき。同じ国の内にて、殊に近きところなれば、しばしば行き見て、考え定めたるなりとぞ語りける。これを聞き見れば、おのがさきのかむがえは、猶あたらず、まことに此人の云える所ぞ、其ならむと思わるる。

現代語訳

神武天皇の御陵は、今それと申している所は違う所であって、実は今綏靖天皇の御陵と申しているのが神武天皇の御陵であろうと私は考えて、早くに吉野への道中の日記にそう記しておいた。その後、この四、五年前に、大和国の人で竹口英斎という人が語ったことには、「今綏靖天皇の御陵と申しているのは、やはり綏靖天皇のものであろう。神武天皇の御陵は、私がはっきりと探し出し申し上げた。日本書紀に記されているのに方角もよく合っている。それは畝傍山の東北の方の麓にあって、天皇宮という祠のある山である。そこに字(あざ)を加志という所がある。古事記に記された『かしの尾の上』という名が残っているのであろう。山本村にある神八井耳命の御墓山よりは東、小泉堂村よりは南、大久保村よりは西で、保良村という里のあたりである。その近くの田地の字に、神武田、またミサンザイなどという所もある」と言って、およそこの畝傍山に付属する御陵どもについて、そのあたりを非常に詳しく考えて書いた図も見せてくれた。同じ国の内で、ことに近い所なので、たびたび行って見て、考え定めたのだと語った。これを聞いて図を見ると、私の以前の考えはやはり当たっておらず、本当にこの人の言う所こそがそれであろうと思われる。

解説

神武天皇陵の所在をめぐって、宣長が自説を改めた記録である。宣長は明和九年(1772)の吉野への旅の日記『菅笠日記』で、今の綏靖天皇陵こそ神武陵だろうと書いた。ところが大和の人竹口英斎が、畝傍山の東北の麓の加志という字、古事記の「かしの尾の上」と合う地名、さらに「神武田」「ミサンザイ」という田の字名まで挙げ、図を添えて示した。近くに住み何度も足を運んで確かめた人の調べを聞いて、宣長は「おのがさきのかむがえは、猶あたらず」と潔く認める。幕末の文久年間に幕府が陵墓を修めた際、神武陵とされたのはまさにこの神武田の地であった。自分より詳しい人の現地調査を尊重し、自説を撤回できる柔らかさは、学問に大切な資質である。

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