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玉勝間 / 二の巻 忌日祥月年忌の事

今の世に、親先祖のうせぬる日を、忌日と云ふは、月毎の其日にて、その月のをば、殊に祥月とぞ云ふなる。此祥ノ字は、もろこしの小祥大祥よりうつれるなるべし。されど古へは、今云ふ祥月をこそ、忌日とはしけれ、月ごとの忌日と云ふは、ここにももろこしなどにも、無かりしかば、祥月と云ふ事も、もとより無かりしなり。昔は忌月とて、其月の內は、すべてよろづをつつしみて、その日をば殊に正日と云ふ事は有きかし。されば今祥月と云ふも、正日の例にて、正月なるべきを、然書きては、月次の正月にまぎるる故に、祥の字は書にもあらむか。さて月每の忌日は、もろこしに無き事なるを以て、今儒者などは、有るまじき事として、親も先祖も、月毎には死なず、死し日は、唯だ一日こそあれ、など云ふめるは、一わたりはことわり聞えたれども、もし然云はんには、年每にも死にはせざれば、年ごとの忌日も、あるまじき事とや云はまし。すでに年每の忌日あるうへは、月每にせむも、何か惡しからむ。これは古へよりもまさりて、ねもころなるしわざにしあれば、今の世のならひに從はんこそ、まさりては有らめ。

新字:今の世に、親先祖のうせぬる日を、忌日と云ふは、月毎の其日にて、その月のをば、殊に祥月とぞ云ふなる。此祥ノ字は、もろこしの小祥大祥よりうつれるなるべし。されど古へは、今云ふ祥月をこそ、忌日とはしけれ、月ごとの忌日と云ふは、ここにももろこしなどにも、無かりしかば、祥月と云ふ事も、もとより無かりしなり。昔は忌月とて、其月の内は、すべてよろづをつつしみて、その日をば殊に正日と云ふ事は有きかし。されば今祥月と云ふも、正日の例にて、正月なるべきを、然書きては、月次の正月にまぎるる故に、祥の字は書にもあらむか。さて月毎の忌日は、もろこしに無き事なるを以て、今儒者などは、有るまじき事として、親も先祖も、月毎には死なず、死し日は、唯だ一日こそあれ、など云ふめるは、一わたりはことわり聞えたれども、もし然云はんには、年毎にも死にはせざれば、年ごとの忌日も、あるまじき事とや云はまし。すでに年毎の忌日あるうへは、月毎にせむも、何か悪しからむ。これは古へよりもまさりて、ねもころなるしわざにしあれば、今の世のならひに従はんこそ、まさりては有らめ。

書き下し

今の世に、親先祖のうせぬる日を、忌日と云うは、月毎のその日にて、その月のをば、殊に祥月とぞ云うなる。この祥の字は、もろこしの小祥大祥よりうつれるなるべし。されど古は、今云う祥月をこそ、忌日とはしけれ、月ごとの忌日と云うは、ここにももろこしなどにも、無かりしかば、祥月と云う事も、もとより無かりしなり。昔は忌月とて、その月の内は、すべてよろずをつつしみて、その日をば殊に正日と云う事は有りきかし。されば今祥月と云うも、正日の例にて、正月なるべきを、然書きては、月次の正月にまぎるる故に、祥の字は書きにもあらむか。さて月毎の忌日は、もろこしに無き事なるを以て、今儒者などは、有るまじき事として、親も先祖も、月毎には死なず、死にし日は、ただ一日こそあれ、など云うめるは、一わたりはことわり聞こえたれども、もし然云わんには、年毎にも死にはせざれば、年ごとの忌日も、あるまじき事とや云わまし。すでに年毎の忌日あるうえは、月毎にせむも、何か悪しからむ。これは古よりもまさりて、ねもころなるしわざにしあれば、今の世のならいに従わんこそ、まさりては有らめ。

現代語訳

今の世で、親や先祖の亡くなった日を忌日というのは毎月のその日のことで、その月のものは特に祥月という。この「祥」の字は、中国の小祥・大祥から移ったのであろう。しかし古には、今でいう祥月の日をこそ忌日としたのであって、毎月の忌日というものは、この国にも中国などにもなかったので、祥月ということも、もともとなかったのである。昔は忌月といって、その月のうちは何事も慎み、その日を特に正日と言うことがあった。だから今祥月というのも、正日の例で「正月」であるべきところを、そう書くと暦の正月と紛れるので、「祥」の字を書いたのでもあろうか。さて毎月の忌日は中国にないことなので、今儒者などは、あってはならないこととして、親も先祖も毎月死ぬわけではない、死んだ日はただ一日だけだ、などと言うようだが、ひととおりは筋が通って聞こえるけれども、もしそう言うなら、毎年死ぬわけでもないのだから、毎年の忌日もあってはならないと言うのだろうか。すでに毎年の忌日がある以上、毎月にするのも何が悪かろう。これは古よりもまさって懇ろな行いなのだから、今の世の習わしに従うのがまさっているだろう。

解説

月ごとの命日(月忌)と祥月命日の習わしを論じた段である。宣長はまず言葉を正し、祥月の「祥」は中国の喪礼の小祥・大祥から来たか、あるいは古の「正日」を正月と紛れないよう書き換えたものかと推す。そして儒者が、親は月ごとに死ぬわけではないから月命日は無用だと言うのに対し、それなら年ごとにも死なないのだから年忌も無用になる、と理屈の破れを突く。月ごとに親を偲ぶのは古よりかえって懇ろな行いで、今の習わしに従うのがよい、というのが結論である。古を尊ぶ宣長が、ここでは古にない後世の習わしを肯定しているのが興味深い。古いか新しいかではなく、心がこもっているかで判断している。形式の新旧より中身を問う姿勢は、身近な弔いの習わしを考えるうえでも示唆に富む。

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