玉勝間 / 二の巻 久安五年忠通公任太政大臣宣命
兵範記にいはく、久安五年十月廿五日云云、今日任太政大臣云云、節會如例、右大臣爲内辨、左宰相中將經宗朝臣爲宣命使、其文云、天皇我詔旨と勅御命乎、親王諸王諸臣百官人等、天下民衆聞食宜と、攝政從一位藤原朝臣者、宗門相繼天、國乃賢佐奈り、忠貞乃心を持天、先先乃御世守り、天下カ政を相穴奈比助奉る事も久之、因茲太上天皇ヵ傳國カ詔命、攝政之職ヒ治賜っる事在之加は、朕加踐祚カ始ノ、万機を折之者、功績古タリ、加之ス纖縦を在時與り、輔導保護仕奉古と年久シ、君臣之道雖存、孫祖之義尤厚之、頃年も、舊例乃任爾早久太政大臣カ官に上賜むはと、念御座しを、謙損乃心增深久し天、先朝乃御宇爾、件官を辭退せり、而有所思天、太政大臣乃官上給比治賜ふと勅よ、但攝政之職ハ、今も彌益勤仕奉禮と勅御命を、衆聞食と宣、久安五年十月廿五日作者大内記長光
新字:兵範記にいはく、久安五年十月廿五日云云、今日任太政大臣云云、節会如例、右大臣為内弁、左宰相中将経宗朝臣為宣命使、其文云、天皇我詔旨と勅御命乎、親王諸王諸臣百官人等、天下民衆聞食宜と、摂政従一位藤原朝臣者、宗門相継天、国乃賢佐奈り、忠貞乃心を持天、先先乃御世守り、天下カ政を相穴奈比助奉る事も久之、因茲太上天皇ヵ伝国カ詔命、摂政之職ヒ治賜っる事在之加は、朕加践祚カ始ノ、万機を折之者、功績古タリ、加之ス繊縦を在時与り、輔導保護仕奉古と年久シ、君臣之道雖存、孫祖之義尤厚之、頃年も、旧例乃任爾早久太政大臣カ官に上賜むはと、念御座しを、謙損乃心增深久し天、先朝乃御宇爾、件官を辞退せり、而有所思天、太政大臣乃官上給比治賜ふと勅よ、但摂政之職ハ、今も弥益勤仕奉礼と勅御命を、衆聞食と宣、久安五年十月廿五日作者大内記長光
書き下し
兵範記にいわく、久安五年十月廿五日云云、今日太政大臣に任ず云云、節会例の如し、右大臣内弁と為り、左宰相中将経宗朝臣宣命使と為る、其の文に云う、天皇が詔旨らまと勅りたまう御命を、親王・諸王・諸臣・百官人等、天下の民衆聞こし食えよと宣る、摂政従一位藤原朝臣は、宗門相継ぎて、国の賢佐なり、忠貞の心を持ちて、先々の御世を守り、天下の政を相あないたすけ奉る事も久し、茲に因りて太上天皇が伝国の詔命に、摂政の職に治め賜える事在りしかば、朕が践祚の始めの、万機を行う者、功績古たり、しかのみならず纖縦に在る時より、輔導保護仕え奉ること年久し、君臣の道存すと雖も、孫祖の義尤も厚し、頃年も、旧例のままに早く太政大臣の官に上げ賜わむと、念おし御座しを、謙損の心増して深くして、先朝の御宇に、件の官を辞退せり、而るに思う所有りて、太政大臣の官に上げ給い治め賜うと勅りたまう、但し摂政の職は、今もいよいよ益々勤め仕え奉れと勅りたまう御命を、衆聞こし食えと宣る、久安五年十月廿五日、作者大内記長光
現代語訳
『兵範記』(平信範の日記)にこうある。「久安五年(1149)十月二十五日、今日、太政大臣に任じた。節会は例のとおり。右大臣が内弁(儀式の進行役)となり、左宰相中将経宗朝臣が宣命使となった。その文にこうある。天皇の詔旨としておっしゃるお言葉を、親王・諸王・諸臣・百官の人々、天下の民衆は承れと宣る。摂政従一位藤原朝臣(忠通)は、一門を継いで国の賢い補佐である。忠実で正しい心をもって先々の御代を守り、天下の政を助け申し上げることも久しい。そのため太上天皇が位を譲られた際の詔によって摂政の職に任じられたので、朕が即位した初めから万機を執り行う者として、その功績は古くからのものである。それのみならず、朕が襁褓(おむつ)にくるまれた幼いときから、導き守り仕えてきたことも年久しい。君臣の道はあるけれども、孫と祖父の間柄の情もまことに厚い。近年も、旧例のとおり早く太政大臣の官に上げたいとお思いになっていたが、へりくだる心がますます深く、先帝の御代にこの官を辞退した。しかし思うところがあって、太政大臣の官に上げて任じるとおっしゃる。ただし摂政の職は、今もいよいよ励んで勤め仕えよとおっしゃるお言葉を、皆承れと宣る。久安五年十月二十五日、作者は大内記長光」。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』二の巻 行成記書写の事同記に云う、久安五年十一月廿六日、召しに依りて早く鳥羽殿に参る、法皇北殿に御す、権弁以下執筆の輩十余人、同じく召しに応じて参候するなり、権大納言行成の記、正暦以後五十余巻、御所の近辺に於て之を書写せらる、時時御簾の中に出〓して、叡覧を経、終日書写す、或いは晩頭に退出す、下官本新共に御所に返上して退出し了んぬ、廿七日、早旦鳥羽殿に参る云云、今日下官十五枚書き了んぬ、返上す、晩頭に帰京す、廿八日、早朝鳥羽殿に参る、書写の功昨日の如し云云。
-
『玉勝間』二の巻 六条摂政基実公の棺の事同記に云う、仁安元年九月廿三日云云、棺の料の板四枚、直物を賜いて交易せしめ、左近に仰せて造り始めしむ、寸法、長さ六尺、弘さ二尺、高さ一尺六寸、敷物は練絹長さ六尺、三幅五巻、野草衣、同じ絹長さ八尺四幅両巻、(真言梵字を書くべし、格は生絹八尺四幅、黄幡の料白生絹一丈、こは六条の摂政基実のおとどの御料なり。
-
『神皇正統記』巻四 第五十六代 清和天皇氏長者たる人むねとこの院を管領して興福寺及氏の社のことをとりおこなはる。良房の大臣摂政せられしより彼一流につたはりて、たえぬことになりたり。幼主の時ばかりかとおぼえしかど、摂政関白もさだまれる職になりぬ。おのづから摂関と云名をとめらるゝ時も、内覧の臣をおかれたれば、執政の儀かはることなし。天皇おとなび給ければ、摂政まつりことをかへしたてまつりて、太政大臣にて白河に閑居せられにけり。君は外孫にましませば、猶も権をもはらにせらるともあらそふ人あるまじくや。されど謙退の心ふかく閑適をこのみて、つねに朝参などもせられざりけり。其比大納言伴善男と云人寵ありて大臣をのぞむ志なんありける。時に三公闕なかりき。信の左大臣をうしなひて、其闕にのぞみ任ぜんとあひはかりて、まづ応天門を焼しむ。左大臣世をみだらんとするくはたてなりと讒奏す。天皇おどろき給て、糺明におよばず、右大臣に召仰て、すでに誅せらるべきになりぬ。
-
『玉勝間』十三の巻 親王宣旨の書キやう同書に、文治五、十一、十九、同記に云う、高倉院の宮宮、親王の宣旨を下さるべし、云云、御名字を宣下す、云云、壇紙一枚に書く云云、その書様、守貞惟明已上親王と為すと見ゆ。件の二つの御名、並びて各一行に書きて、已上云云は、又一行にて、少し下して書きたり。
-
『神皇正統記』巻五 第七十二代 白河院院の御前にて摂政兼家のおとゞうけ玉はりて、源の時中朝臣を参議になされたるとて、小野宮の実資の大臣などは傾申されけるとぞ。されば上皇ましませど、主上をさなくおはします時はひとへに執柄の政なりき。宇治の大臣の世となりては三代の君の執政にて、五十余年権をもはらにせらる。先代には関白の後は如在の礼にてありしに、あまりなる程になりにければにや、後三条院、坊の御時よりあしざまにおぼしめすよしきこえて、御中らひあしくてあやぶみおぼしめすほどのことになんありける。践祚の時即関白をやめて宇治にこもられぬ。弟の二条の教通の大臣、関白せられしはことの外に其権もなくおはしき。まして此御代には院にて政をきかせ給へば、執柄はたゞ職にそなはりたるばかりになりぬ。されどこれより又ふるきすがたは一変するにや侍けん。
-
『玉勝間』六の巻 御書始中右記に云う、寛治元年十二月二十四日(壬寅)、今日未の刻ばかり、御書始の事有り。式部権大輔正家朝臣を以て、侍読と為す。その儀式のごとし。左少弁敦宗を以て、尚復と為す、云云。件の三点図は、正家朝臣、御書始に注進する所なり。白色の紙の小作子、表紙無きを以て、これに書き付く。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る