玉勝間 / 一の巻 又
いきほひ富る人の上にては、かばかりの費は、何ばかりの事にも有らで、そのいさをは、天の下の人のいみしきめぐみをかうぶりて、末の世まで殘るわざぞかし。かへすがへすこころざし有らむ人もがな。
新字:いきほひ富る人の上にては、かばかりの費は、何ばかりの事にも有らで、そのいさをは、天の下の人のいみしきめぐみをかうぶりて、末の世まで残るわざぞかし。かへすがへすこころざし有らむ人もがな。
書き下し
いきおい富める人の上にては、かばかりの費は、何ばかりの事にも有らで、そのいさおは、天の下の人のいみしきめぐみをこうぶりて、末の世まで残るわざぞかし。かえすがえすこころざし有らむ人もがな。
現代語訳
勢いがあり富んでいる人にとっては、これほどの費用は大したことでもなく、その功績は天下の人々が大きな恵みを受けて、末の世まで残るものである。くれぐれも、その志のある人がいてほしいものだ。
解説
古書刊行の勧めを締めくくる短い段である。力と富のある人にとって、版を起こす費用など大したものではない。それなのにその功は天下の人に恵みとなり、後の世まで残る、と宣長は念を押し、最後に「かえすがえすこころざし有らむ人もがな」と願いを込める。松坂の町医者として暮らし、自らの著作の刊行にも苦心した宣長には、資金さえあればできることが進まないもどかしさがあったのだろう。同じ頃、江戸では塙保己一が古書を集めて『群書類従』として刊行する大事業を進めていた。わずかな負担で大きく長い恩恵を生むお金の使い方がある。富を持つ者の役目とは何かを考えさせる一文である。
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 又また心無き商人の手にてしたつるは、利をのみはかるから、ここかしこひそかにはぶきなどもして、物する程に、全く善き本はいとまれにのみ成り行くめり。さればたとい悪しくは有りとも、なおもろもろの書は、板にえり置かまほしきわざなり。殊に貞観儀式、西宮記、北山抄などのたぐい、そのほかも、古えのめでたき書どもの、なお写本のみにて有るが多きは、いかでいかで皆板にえりて、世にひろくなさまほしきわざなり。家々の記録ぶみなども、つぎつぎにえらまほし。今の世大名たちなどにも、ずいぶんに古書をようじ給う有れど、ただその家の蔵におさめて、あつめ置かるるのみにて、見る人も無く、ひろまらざれば、世のためには何のやく無く、有るかいも無し。もしまことに古書をめで給う心ざし有らば、斯かるめでたき御世のしるしに、大名たちなどは、その道の人に仰せて、あだし本どもをも読み合わせ、善きをえらばせて、板にえらせて、世にひろめ給わむは、よろづよりもめでたく、末の代までのいみしき功なるべし。
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『玉勝間』十の巻 古へより伝はれる事の絶るをかなしむ事世の中に、古えの事の、いたく衰えたる、またひたぶるに絶えぬるなども多かるを、かかるめでたき御代にあたりて、何事も起したてまほしき中に、絶えたるも、跡をたずねて、またはじめむに、始めつべきは、遅くも疾くも、直毘の神の頼みの、なおのこれるを、一たび絶えては、またつぐべきよし無く、また始むべき便り無き事どもこそ、殊に云うかいなく、口惜しきわざには有りけれ。古き氏々など、神代のゆえよし重きなどは、更にも云わず、さらぬも、早く末の絶え果てぬるが多き、今は如何に思いても、二たびつぎ起すべきよし無くなん。これらを思うに、万の古き事は、わずかにも残りて、絶えざるをだに、おとしあぶさず、よくとりしたためて、今より後、絶ゆまじきさまに、如何にも如何にも、強くかたく成し置かまほしきわざぞかし。
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『玉勝間』二の巻 ふみども今は得やすくなれる事その頃までは、大かた斯かりけるに、このちかき年頃となりては、写本ながら代匠記も多く出でて、さらに得がたからず成りぬるは、古学の道のひらけて、ようずる人多ければぞかし。さるは代匠記のみにも有らず、すべて写しまきなる物は、家家の記録などのたぐい、その外の書どもも、いといと得がたかりしに、何も何も、今はたやすく得らるる事となれるは、いともいともめでたく尊き、御代の御栄えになん有りける。
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『玉勝間』一の巻 また珍しき書を得たらむには、したしきもうときも、同じこころざしならむ人には、かたみにやすく貸して、見せもし写させもして、世にひろくせまほしきわざなるを、人には見せず、おのれひとり見て、ほこらむとするは、いといと心ぎたなく、物学ぶ人の有るまじきことなり。ただし得がたき書を、遠く便り悪しき国などへ貸し遣りたるに、あるいは道の程にてはふれうせ、あるいはその人にわかになくなりなどもして、遂にその書かえらずなる事有るは、いと心うきわざなり。されば遠きさかいよりかりたらむ書は、道のほどの事をもよくしたため、また人の命は、にわかなる事もはかりがたき物にし有れば、なからむ後にも、はふらさず、たしかに返すべく、おきて置くべきわざなり。すべて人の書を借りたらむには、すみやかに見て、返すべきわざなるを、久しくとどめ置くは、心無し。さるは書のみにも有らず、人に借りたる物は、何も何も同じ事なるうちに、いかなればにか、書はことに、用無く成りてのちも、なおざりに打ち捨て置きて、久しく返さぬ人の、世に多き物ぞかし。
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『玉勝間』三の巻 富貴を願はざるを善き事にする論ひ世世の儒者、身のまずしく賤しきをうれえず、とみ栄えをねがわず、喜ばざるを、善き事にすれども、そは人のまことの情にあらず、多くは名をむさぼる、例のいつわりなり。まれまれにさる心ならむもの有りとも、そは世のひが者にこそあれ、なにの善き事ならん。ことわりならぬ振舞いをして、あながちに願わむこそは、悪しからめ。ほどほどにつとむべきわざを、いそしくつとめて、なりのぼり、富さかえむこそ、父母にも先祖にも、孝行ならめ。身衰え家貧しからむは、うえ無き不孝にこそ有りけれ。唯だおのがいさぎよき名をむさぼるあまりに、まことの孝を忘るるも、又もろこし人の常なりかし。
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『玉勝間』十二の巻 金銀ほしからぬかほする事金銀欲しからずと云うは、例の漢ようの偽りにぞ有りける。学問する人など、好書をせちに得まほしがる物から、金銀は欲しからぬ顔するにて、その偽りはあらわなるをや。いまの世よろずの物、金銀をだに出せば、心にまかせて得らるる物を、好書ほしからむには、などか金銀ほしからざらむ。然は有れども、憚る事無くむさぼる世のならいにくらぶれば偽りながらも、さる類いは、なおはるかにまさりてぞ有るべき。
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