史記 / 傅靳蒯成列伝
凡斬首九十級,虜百三十二人;別破軍十四,降城五十九,定郡、國各一,縣二十三;得王、柱國各一人,二千石以下至五百石三十九人。高后五年,歙卒,謚為肅侯。子亭代侯。二十一年,坐事國人過律,孝文後三年,奪侯,國除。
新字:凡斬首九十級,虜百三十二人;別破軍十四,降城五十九,定郡、国各一,県二十三;得王、柱国各一人,二千石以下至五百石三十九人。高后五年,歙卒,謚為粛侯。子亭代侯。二十一年,坐事国人過律,孝文後三年,奪侯,国除。
書き下し
凡そ首を斬ること九十級、虜百三十二人。別れて軍を破ること十四、城を降すこと五十九、郡・国を定むること各一、県二十三。王・柱国各一人、二千石以下五百石に至るまで三十九人を得たり。高后の五年、歙卒し、謚して粛侯と為す。子亭代はりて侯たり。二十一年、国人を事とすること律を過ぐるに坐し、孝文の後三年、侯を奪はれ、国除かる。
現代語訳
(靳歙が)挙げた戦果は、合わせて首九十、捕虜百三十二人。別動隊として敵軍を破ること十四、降した城は五十九、平定した郡と国がそれぞれ一つ、県が二十三。捕らえた者は王と柱国がそれぞれ一人、二千石から五百石までの官吏が三十九人であった。高后の五年、靳歙は死去し、粛侯と諡された。子の靳亭が代わって侯となった。二十一年目、領地の民を律の定めを超えて使役した罪に問われ、孝文帝の後元三年に侯位を奪われ、国は取りつぶされた。
解説
この段は、靳歙の戦功の総計と、その家の行く末を記しています。首級九十、捕虜百三十二人、破った軍十四、降した城五十九と、功績が一覧のように示されます。漢では功臣の働きがこうして数え上げられ、封爵の根拠とされました。靳歙は高后の五年に死去して粛侯と諡されますが、跡を継いだ子の靳亭は、領地の民を律の定めを超えて働かせた罪で、文帝の時代に侯位を奪われました。父が命がけで積み上げた功績も、子が領民を酷使すれば失われます。司馬遷は功臣の家の断絶を多くの列伝で淡々と記し、創業の功が二代目で失われる例を繰り返し示しています。今の企業でも、先代が築いた信用が、後継者の小さな規則違反や現場への無理な要求から崩れることがあります。受け継いだものを守るには、定められた線を越えない節度が欠かせません。
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