退食閑話 / 尊王攘夷の実際
問、 東照宮亂を撥し正しきに反し給ふことは、兒童走卒の知る所なれば、論ずるに及ばず、尊王攘夷とは何れの事をば指し給へることぞや、曰、 東照宮恭儉の德まし〱て、富四海の內を保ち給へども勢を恃給はず、屢京師に朝して君臣の義を正しうし給ふ、兵亂の世にして、 至尊より公卿太夫に至るまで萬事匱乏に困しみ給ひしに、禁城の狹隘なりしをも、增擴ありて脩理し給ひしより、供御の田を增れて供給闕るとなく、秘籍寶器の亡失せるを御座に返し納め、伶官の職を失ひしも先職に復せしめ、 朝廷の法制を撰述せられ、伊勢皇太神宮二十年改定の期、古法をうしなひしも永制を立給ひ、又亂世には 朝廷財用とぼしく、御即位大嘗會等の禮も行はれず、僅に大內氏毛利氏などの其料を調進せし事ありしのみなり、織田氏豐臣公の時にいたりて、其料かくる事なくなりしかども、
新字:問、 東照宮乱を撥し正しきに反し給ふことは、児童走卒の知る所なれば、論ずるに及ばず、尊王攘夷とは何れの事をば指し給へることぞや、曰、 東照宮恭倹の徳まし〱て、富四海の内を保ち給へども勢を恃給はず、屡京師に朝して君臣の義を正しうし給ふ、兵乱の世にして、 至尊より公卿太夫に至るまで万事匱乏に困しみ給ひしに、禁城の狭隘なりしをも、增擴ありて脩理し給ひしより、供御の田を增れて供給闕るとなく、秘籍宝器の亡失せるを御座に返し納め、伶官の職を失ひしも先職に復せしめ、 朝廷の法制を撰述せられ、伊勢皇太神宮二十年改定の期、古法をうしなひしも永制を立給ひ、又乱世には 朝廷財用とぼしく、御即位大嘗会等の礼も行はれず、僅に大内氏毛利氏などの其料を調進せし事ありしのみなり、織田氏豊臣公の時にいたりて、其料かくる事なくなりしかども、
書き下し
問、 東照宮亂を撥し正しきに反し給ふことは、兒童走卒の知る所なれば、論ずるに及ばず、尊王攘夷とは何れの事をば指し給へることぞや、曰、 東照宮恭儉の德まし〱て、富四海の內を保ち給へども勢を恃給はず、屢京師に朝して君臣の義を正しうし給ふ、兵亂の世にして、 至尊より公卿太夫に至るまで萬事匱乏に困しみ給ひしに、禁城の狹隘なりしをも、增擴ありて脩理し給ひしより、供御の田を增れて供給闕るとなく、秘籍寶器の亡失せるを御座に返し納め、伶官の職を失ひしも先職に復せしめ、 朝廷の法制を撰述せられ、伊勢皇太神宮二十年改定の期、古法をうしなひしも永制を立給ひ、又亂世には 朝廷財用とぼしく、御即位大嘗會等の禮も行はれず、僅に大內氏毛利氏などの其料を調進せし事ありしのみなり、織田氏豐臣公の時にいたりて、其料かくる事なくなりしかども、
現代語訳
問い。東照宮が乱を治めて正に返されたことは、子どもや下男でも知っていることなので論じるには及びません。「尊王攘夷」とは何を指すのですか。答え。東照宮は恭倹の徳があり、富は四海の内を保たれながら、勢いを頼まれず、しばしば京都に朝して君臣の義を正されました。兵乱の世で、至尊から公卿・太夫に至るまで万事の欠乏に苦しまれていたとき、禁城の狭いのを増築して修理され、供御の田を増したので供給が欠けることがなく、散逸した秘籍・宝器を御座に返し納め、職を失った楽人も元の職に復させ、朝廷の法制を撰述され、伊勢皇太神宮の二十年ごとの改定の期に、失われた古法を恒久の制として立てられました。また乱世には朝廷の財用が乏しく、即位・大嘗会などの礼も行われず、わずかに大内氏・毛利氏などがその費用を調進したことがあっただけでした。織田氏・豊臣公の時に至って、その費用が欠けることはなくなりましたが、
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『退食閑話』・武備を忘れぬ攘夷東照宮に至つては益朝廷を尊び、永世にても大禮行はれ、其後義公の撰述せられし禮義類典を進獻ありしより、禮義全備して 幕府よりも其料を調進ありしかば、曠代の廢典全く再興して、御代ごとに行はるゝ事とはなりしよし承る、是等の事皆尊 王の義と申奉るべきなり、又治世に亂を忘れ給はず、常に子弟に訓戒し給ふにも、日本太平にして武道怠る時は、異國より日本を伺ふ故、異國亂るゝと聞ば、武道の達人を撰むて是を押へさせよ、日本の中の軍は勝負ともに其一家計りの盛衰なり、外國の爭は負たる時は、日本國の恥辱なりと、深く戒め給ふに依りて、西洋の邪徒、 神州を伺ふ事も深く察し給ひしうへ、其禁を甚嚴になし給ふ、 台德大猷二公も御志を繼せられ、寛永の年までに盡く誅戮ありて、永世の禍根を絶給ふて、 國家の武威の外國に震ひしは、是皆攘夷の義と稱し奉るべきなり、
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『弘道館記述義』・尊王攘夷・朝廷を支えた織田・豊臣・東照宮尊王攘夷。臣彪謹んで案ずるに、堂堂たる神州、天日の嗣、世々神器を奉じ、万方に君臨す。上下内外の分は、猶ほ天地の易ふべからざるがごとし。然らば則ち尊王攘夷とは、実に志士仁人の忠を尽くし国に報ゆる大義なり。臣嘗て史を読み、大永年間の天皇即位に、本願寺の僧資を献じて以て礼を成すに至りて、唶然として大息して曰く、足利氏衰ふと雖も猶ほ将軍に任じ、輦轂の下に居る。片金匹帛を献じて以て大礼を助くること能はず、乃ち諸を方外の徒に委ぬ。上は皇家の大体を辱め、下は異端の邪焰を長ず。宜なるかな室町の覇業の振るはざること、と。又永禄・天正の間に至り、織田氏屢々入朝し、皇居を営み神廟を脩め、驕僧を戮す。豊臣氏も又頗る其の緒を続ぐ。蹶然として曰く、当時の人牧は唯だ土地を率ゐて人を食ふを知るのみ。独り二氏のみ卓然として能く斯の挙有り。其の群雄を駕馭し一世を籠絡せしは僥倖に非ざるなり、と。夫れ二氏の政を為すは、固より忠愛惻怛の人に入ること深き有るに非ざるも、其の挙動或いは一二大義に合する有れば、猶ほ以て人心を風動するに足る。況んや仁厚勇武の姿を以て、尊攘に従事する者をや。其の豊功偉烈、豈に勝げて讃ふべけんや。我が東照宮既に関原に捷つや、上は供御の地を奏奉し、亦廷臣の食邑を増す。其の大将軍たるや、天顔に咫尺し聖旨に服膺し、蹇蹇として力を竭くし唯だ其の任に堪へざるを恐る。後水尾帝の即位や、(初め豊臣秀吉、皇庶子□仁を奏立して皇太子と為す。天皇の意に非ざるなり。秀吉薨ずるに及び、天皇皇適子を立てんことを東照宮に謀る。対へて曰く、唯だ聖断に在るのみ、臣何ぞ敢へて議せんやと。是に於て皇適子を立てて皇太子と為す。是れ後水尾帝なり。)東照公諸侯に命じて上皇宮を営ましめ、多く供御の地を置く。
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『弘道館記述義』・尊王攘夷・外患を防ぎ、名分を正す徳川の遺訓既にして又大いに皇居を脩め規制を増広す。又嘗て伶官を招聚して以て雅楽を復す。朝廷其の功を嘉し、嘗て擬するに相国を以てするも敢へて当らず。賜ふに菊桐の御章を以てするも敢へて受けず。其の恭敬抑損、皇室を翼戴する者、蓋し此くの如し。戦国搶擾の間、外夷覬覦し、我が政教の廃弛に乗じ、乃ち敢へて其の妖教を布く。豊臣氏嘗て之を禁ず。東照宮に至りて、更に大いに憲令を設け、悉く天下を捜索し、悉く其の寺を毀ち、其の徒を戮す。後嗣継述して懈らず。是に於て外夷の防ぎ、妖教の禁は、永く憲法第一義と為る。其の果決明断、夷狄を攘除する者、蓋し又此くの如し。今恭しく其の遺訓を観るに、仁政武備の要に於て、尤も深く戒めを垂る。其の内憂を慮り外患を防ぐ所以の者、一にして足らず。詩に曰く、戎狄は是れ膺ち、荊舒は是れ懲らすと。孟軻之を広げて曰く、父なく君なきは周公の膺つ所なりと。春秋に曰く、元年春王の正月と。左丘明伝して曰く、元年春王の周の正月と。今皇朝衰ふと雖も、其の尊厳は固より東周の比に非ず。然れども履霜の漸、聖人之を戒む。則ち春秋の義は講ぜざるべからず。外夷妖教の毒は、啻だに戎狄荊舒のみならず。則ち膺懲の典尤も明らかにせざるべからず。而るに無識の徒、或いは幕府を指して朝廷と曰ひ、甚だしきは則ち王と称す。近時又蘭学者流有り。(世の西洋学を脩むるは、天文医術の徒に非ざれば則ち訳者舌人の流なり。大抵皆無識にして国体に達せず、此を舎てて彼に従ひ、天を襃めて神を慢る。其の害言ふに勝ふべからず。臣別に論著する所有らんと欲す。故に具さには論ぜず。)或いは唱説して曰く、西洋の教法は其の流一に非ず、今彼の奉ずる所は国家の禁ずる所と同じからず、と。嗚呼是れ惟に皇家の罪人のみならず、亦幕府の罪人なり。抑も亦周孔の罪人なり。
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『退食閑話』・安寧と大乱の歴史かゝるめでたきためしも、其本は天地の始よりして、君臣父子の大倫正しくして、人情風氣厚きによりて、かくのごとく萬國に勝れたるなれば、國體も是によりて尊さに非ずや、且蒼生の安寧なるも、古は異端邪說といふ事もなし、古言に、唯神とは前にいへるが如く、神明の敎のまゝにして、君臣父子の大倫亂れざりしかば、異域に、五胡十六國などいへるが如き大亂は曾てなかりしなり、されども、一治一亂は天下の常なれば、太平久しくして縉紳宴安に溺れ、神聖の敎衰へて君臣父子の道正しからず、保元平治の亂ありて、 朝威衰へ、壽永、承久、元弘、建武等の亂ありて、四海鼎沸す、是によりて戰鬪暫くも止ず、 東照宮禍亂を平げ給ひしより民始て干戈を免れ、其父母妻子を養ひ、安穩に身を終る事を得たり、 神明の敎正しく、君臣父子の大倫斷滅せざるによりて、天下の亂も遂に正しきになりて、蒼生も安寧なるに非ずや、夷狄の卒服する事も、
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『弘道館記述義』・東照宮・東照宮が乱を治めた至誠と義勇我が東照宮、乱を撥めて正に反す。臣彪謹んで案ずるに、建武の中興終らずして、天下の権竟に足利に帰す。当時身を以て芳野に徇ふ者は、皆忠義の士なり。覥然たる面目にて足利の鼻息を仰ぐ者は、皆貪婪無恥の徒なり。既に忠義の士を殲して以て皇家を孤にし、又貪婪無恥の徒を聚めて以て其の私を成す。甚しきかな。足利の無道なること、而して天の不仁に与するも其れ亦此に至るか。足利既に不仁を以て之を得、親戚之に倣ひ、陪臣之に倣ひ、天下靡然として唯だ利を是れ求め、復た忠孝仁義の何物たるかを知らず。終に将軍管領は有名無実となり、群雄并び起こりて争ひて州郡に跨がり、西滅び東起こりて互ひに呑噬す。生民の禍も亦惨なり。昔者源平二氏は、派別れて天潢より出づ。然れども降りて人臣と為り、久しく武士に混ずれば、則ち公卿視ること奴隷の如し。足利の衰ふるに至りては、則ち織田は陪臣より起こり、而して豊臣は又織田の臣より起こる。三台の座は則ち之を官に闕き、一蹴超遷すること地の芥を拾ふが如し。天下の変も亦甚だし。然れども織田の権数智謀は、固より当時の群雄の比に非ず。豊臣の雄才大略は、又海内外を圧倒す。乃ち其の一世を鞭撻し、八洲を盪滌する所以は則ち可なり。扶桑の根抵を培養し、天下を富嶽の安きに措く所以に至りては、則ち未だ可ならざるなり。我が東照宮は則ち然らず。蓋し彼は詐術を以てし、我は至誠を以てす。彼は威強を以てし、我は義勇を以てす。彼は土地財利を以て人心を籠絡し、我は礼義廉恥を以て士気を磨礪す。彼の功を奏すること甚だ速やかなるも、其の敗るるや土崩瓦解す。我が基を搆ふること迂なるが若きも、其の成るや牢固として抜けず。凡そ其の言行は必ず忠孝仁義に本づき、其の政教施設は暗に聖賢の道に合す。以て神州の元気を養ふに足る者、往往にして有り。此れ其の覇業の隆んなること前人に卓越する所以にして、所謂撥乱反正とは、其れ然らずや。古人言へる有り、曰く、人衆ければ天に勝つ、天定まれば亦能く人に勝つと。足利既に貪婪無恥を以て一世を風靡す。貪婪無恥の俗極まりて、室町の業忽ち諸む。既に忠義の士を殲すも、忠義の種は滅泯すべからず。維れ天、新田の族を陰隲し、流離間関して幾んど絶えて僅かに存す。累世の徳を積み、東照宮に至りて大いに其の光を発す。而して池田・井伊・奥平・大久保・鳥居・天野・栗生の諸氏は、蓋し亦皆忠義の遺孽を以て、芳野の餘馨を伝へ、風雲に際会して禍乱を裁定し、以て今日の盛を致す。則ち天の終に不仁に勝つや、亦明らかなり。嗚呼亦畏るべきかな。
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『退食閑話』・実事に施す儒学と修史依て聖人の敎を尊崇し給へるも、修己治人の道を事業に施し、士民を敎導し給ふ條目に載られしに、五倫を以て本となし、史を脩給ひしには、神功皇后を妃に列し、天皇大友を本紀にたて、壽永建元の 天子を正統とし給へるの類は、天下後世の人臣をして、大義を誤らざらしむるには、人倫を明らかにするの實にして、筆端の空論にあらず、如此にして、國家の藩屏とならせられ、天下に大益あるは、是皆其實事にして、威公の御志を繼給ふ所なりしかば、神道をも學び、神宮寺本地佛などいへる陋習を除し、唯一の神道とし給ひ、吉田神祉をも再典ありて、日本武尊を慕せられし遺志を成就し、武備をば繕めらるゝにも、大義を明らかにし、名節を磨勵して、心膽を練り給ふ、一つとして威公の志を繼ぎ述給ふにあらざるはなし、かくのごとく卓見ましませしゆへ、國中を風化し給はんとて、其頃までもいまだ學校といふ事も世に希なりしに、學校を立て敎を施んと志し、舜水先生に就て闕里の聖廟の制度を問ひ、小形をも製し給ひ、

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