退食閑話 / 武備を忘れぬ攘夷
東照宮に至つては益朝廷を尊び、永世にても大禮行はれ、其後義公の撰述せられし禮義類典を進獻ありしより、禮義全備して 幕府よりも其料を調進ありしかば、曠代の廢典全く再興して、御代ごとに行はるゝ事とはなりしよし承る、是等の事皆尊 王の義と申奉るべきなり、又治世に亂を忘れ給はず、常に子弟に訓戒し給ふにも、日本太平にして武道怠る時は、異國より日本を伺ふ故、異國亂るゝと聞ば、武道の達人を撰むて是を押へさせよ、日本の中の軍は勝負ともに其一家計りの盛衰なり、外國の爭は負たる時は、日本國の恥辱なりと、深く戒め給ふに依りて、西洋の邪徒、 神州を伺ふ事も深く察し給ひしうへ、其禁を甚嚴になし給ふ、 台德大猷二公も御志を繼せられ、寛永の年までに盡く誅戮ありて、永世の禍根を絶給ふて、 國家の武威の外國に震ひしは、是皆攘夷の義と稱し奉るべきなり、
新字:東照宮に至つては益朝廷を尊び、永世にても大礼行はれ、其後義公の撰述せられし礼義類典を進献ありしより、礼義全備して 幕府よりも其料を調進ありしかば、曠代の廃典全く再興して、御代ごとに行はるゝ事とはなりしよし承る、是等の事皆尊 王の義と申奉るべきなり、又治世に乱を忘れ給はず、常に子弟に訓戒し給ふにも、日本太平にして武道怠る時は、異国より日本を伺ふ故、異国乱るゝと聞ば、武道の達人を撰むて是を押へさせよ、日本の中の軍は勝負ともに其一家計りの盛衰なり、外国の争は負たる時は、日本国の恥辱なりと、深く戒め給ふに依りて、西洋の邪徒、 神州を伺ふ事も深く察し給ひしうへ、其禁を甚厳になし給ふ、 台徳大猷二公も御志を継せられ、寛永の年までに尽く誅戮ありて、永世の禍根を絶給ふて、 国家の武威の外国に震ひしは、是皆攘夷の義と称し奉るべきなり、
書き下し
東照宮に至つては益朝廷を尊び、永世にても大禮行はれ、其後義公の撰述せられし禮義類典を進獻ありしより、禮義全備して 幕府よりも其料を調進ありしかば、曠代の廢典全く再興して、御代ごとに行はるゝ事とはなりしよし承る、是等の事皆尊 王の義と申奉るべきなり、又治世に亂を忘れ給はず、常に子弟に訓戒し給ふにも、日本太平にして武道怠る時は、異國より日本を伺ふ故、異國亂るゝと聞ば、武道の達人を撰むて是を押へさせよ、日本の中の軍は勝負ともに其一家計りの盛衰なり、外國の爭は負たる時は、日本國の恥辱なりと、深く戒め給ふに依りて、西洋の邪徒、 神州を伺ふ事も深く察し給ひしうへ、其禁を甚嚴になし給ふ、 台德大猷二公も御志を繼せられ、寛永の年までに盡く誅戮ありて、永世の禍根を絶給ふて、 國家の武威の外國に震ひしは、是皆攘夷の義と稱し奉るべきなり、
現代語訳
東照宮に至っては、ますます朝廷を尊ばれ、永世の大礼も行われ、その後義公が撰述された礼儀類典を進献されてから、礼儀が全備して、幕府からもその費用を調進されたので、長く廃れていた典礼が完全に再興され、代ごとに行われることになったと承っています。これらはみな尊王の義と申し上げるべきです。また治世にあっても乱を忘れず、常に子弟に訓戒されるにも、日本が太平で武道を怠るとき、異国が日本をうかがう。異国が乱れると聞いたなら、武道の達人を選んでこれを押さえさせよ。日本の中の戦は勝負ともにその一家だけの盛衰である。外国との争いは負けたとき日本国の恥辱である、と深く戒められたことから、西洋の邪徒が神州をうかがうことも深く察せられたうえ、その禁を非常に厳しくされました。台徳・大猷の二公も志を継がれ、寛永の年までにことごとく誅戮して、永世の禍根を絶たれ、国家の武威が外国に震ったのは、これらみな攘夷の義と称すべきです。
解説
この章句が説くこと
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『退食閑話』・尊王攘夷の実際問、 東照宮亂を撥し正しきに反し給ふことは、兒童走卒の知る所なれば、論ずるに及ばず、尊王攘夷とは何れの事をば指し給へることぞや、曰、 東照宮恭儉の德まし〱て、富四海の內を保ち給へども勢を恃給はず、屢京師に朝して君臣の義を正しうし給ふ、兵亂の世にして、 至尊より公卿太夫に至るまで萬事匱乏に困しみ給ひしに、禁城の狹隘なりしをも、增擴ありて脩理し給ひしより、供御の田を增れて供給闕るとなく、秘籍寶器の亡失せるを御座に返し納め、伶官の職を失ひしも先職に復せしめ、 朝廷の法制を撰述せられ、伊勢皇太神宮二十年改定の期、古法をうしなひしも永制を立給ひ、又亂世には 朝廷財用とぼしく、御即位大嘗會等の禮も行はれず、僅に大內氏毛利氏などの其料を調進せし事ありしのみなり、織田氏豐臣公の時にいたりて、其料かくる事なくなりしかども、
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『弘道館記述義』・尊王攘夷・外患を防ぎ、名分を正す徳川の遺訓既にして又大いに皇居を脩め規制を増広す。又嘗て伶官を招聚して以て雅楽を復す。朝廷其の功を嘉し、嘗て擬するに相国を以てするも敢へて当らず。賜ふに菊桐の御章を以てするも敢へて受けず。其の恭敬抑損、皇室を翼戴する者、蓋し此くの如し。戦国搶擾の間、外夷覬覦し、我が政教の廃弛に乗じ、乃ち敢へて其の妖教を布く。豊臣氏嘗て之を禁ず。東照宮に至りて、更に大いに憲令を設け、悉く天下を捜索し、悉く其の寺を毀ち、其の徒を戮す。後嗣継述して懈らず。是に於て外夷の防ぎ、妖教の禁は、永く憲法第一義と為る。其の果決明断、夷狄を攘除する者、蓋し又此くの如し。今恭しく其の遺訓を観るに、仁政武備の要に於て、尤も深く戒めを垂る。其の内憂を慮り外患を防ぐ所以の者、一にして足らず。詩に曰く、戎狄は是れ膺ち、荊舒は是れ懲らすと。孟軻之を広げて曰く、父なく君なきは周公の膺つ所なりと。春秋に曰く、元年春王の正月と。左丘明伝して曰く、元年春王の周の正月と。今皇朝衰ふと雖も、其の尊厳は固より東周の比に非ず。然れども履霜の漸、聖人之を戒む。則ち春秋の義は講ぜざるべからず。外夷妖教の毒は、啻だに戎狄荊舒のみならず。則ち膺懲の典尤も明らかにせざるべからず。而るに無識の徒、或いは幕府を指して朝廷と曰ひ、甚だしきは則ち王と称す。近時又蘭学者流有り。(世の西洋学を脩むるは、天文医術の徒に非ざれば則ち訳者舌人の流なり。大抵皆無識にして国体に達せず、此を舎てて彼に従ひ、天を襃めて神を慢る。其の害言ふに勝ふべからず。臣別に論著する所有らんと欲す。故に具さには論ぜず。)或いは唱説して曰く、西洋の教法は其の流一に非ず、今彼の奉ずる所は国家の禁ずる所と同じからず、と。嗚呼是れ惟に皇家の罪人のみならず、亦幕府の罪人なり。抑も亦周孔の罪人なり。
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『弘道館記述義』・尊王攘夷・朝廷を支えた織田・豊臣・東照宮尊王攘夷。臣彪謹んで案ずるに、堂堂たる神州、天日の嗣、世々神器を奉じ、万方に君臨す。上下内外の分は、猶ほ天地の易ふべからざるがごとし。然らば則ち尊王攘夷とは、実に志士仁人の忠を尽くし国に報ゆる大義なり。臣嘗て史を読み、大永年間の天皇即位に、本願寺の僧資を献じて以て礼を成すに至りて、唶然として大息して曰く、足利氏衰ふと雖も猶ほ将軍に任じ、輦轂の下に居る。片金匹帛を献じて以て大礼を助くること能はず、乃ち諸を方外の徒に委ぬ。上は皇家の大体を辱め、下は異端の邪焰を長ず。宜なるかな室町の覇業の振るはざること、と。又永禄・天正の間に至り、織田氏屢々入朝し、皇居を営み神廟を脩め、驕僧を戮す。豊臣氏も又頗る其の緒を続ぐ。蹶然として曰く、当時の人牧は唯だ土地を率ゐて人を食ふを知るのみ。独り二氏のみ卓然として能く斯の挙有り。其の群雄を駕馭し一世を籠絡せしは僥倖に非ざるなり、と。夫れ二氏の政を為すは、固より忠愛惻怛の人に入ること深き有るに非ざるも、其の挙動或いは一二大義に合する有れば、猶ほ以て人心を風動するに足る。況んや仁厚勇武の姿を以て、尊攘に従事する者をや。其の豊功偉烈、豈に勝げて讃ふべけんや。我が東照宮既に関原に捷つや、上は供御の地を奏奉し、亦廷臣の食邑を増す。其の大将軍たるや、天顔に咫尺し聖旨に服膺し、蹇蹇として力を竭くし唯だ其の任に堪へざるを恐る。後水尾帝の即位や、(初め豊臣秀吉、皇庶子□仁を奏立して皇太子と為す。天皇の意に非ざるなり。秀吉薨ずるに及び、天皇皇適子を立てんことを東照宮に謀る。対へて曰く、唯だ聖断に在るのみ、臣何ぞ敢へて議せんやと。是に於て皇適子を立てて皇太子と為す。是れ後水尾帝なり。)東照公諸侯に命じて上皇宮を営ましめ、多く供御の地を置く。
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『明訓一班抄抄録』・治に亂を忘るべからざる事・平時にこそ軍法を忘れない家康の教え東照宮の仰に、武家大將軍の三の寶と言は農工商なり、王法軍法に此寶を合て、五つの物は天下國家治亂の基なり、王法は則王道にて、聖敎の道をしたはるゝにて、我が神國の古き政を改めず、九重の內にまし〱玉坐を動かさずとも民の艱苦を知しめさるゝをいふ、軍法とは武將の業にして、(將軍家は勿論大將分の人也)治に亂を忘れざることを云也、仝上意に、亂世に武を嗜、珍しからず、譬へば鼠の人に捕はるゝを苦みて人に喰付が如く、治世に武道を嗜を、眞の武道を好む人と言べし、仝上意に、治國には武家の風公家の如く柔弱になり、武道を忘れ、ひとへに詩歌を專とし、我家業を廢る時は、家を亡す者なり、此理をしらずして、近代にも西國に大內、東國に上杉今川抔、武を失ひ、公家の如く成て亡しなり、云々、仝上意に、大將は文武一致を知り、軍法の二字に本付て、政道を立、各家職を勤め候者を用ゆべし、仝上意に、(台德公御いましめの上意なり)第一の肝要は武道怠らざる事ぞ、されば人の身命は生死をはかるに脈を取て手首一寸の中にて知るが如く、武家武道に怠るは身命の死脈と知れ、云々、同上意に、國家衰ん時は、主君柔弱美麗を好み、公家風の男、國の權柄を取て、終に家を破るものぞ、武家にて武道を好まざる者は本臆病なる者也、臆病なる者はもとがさつにして奢に強き者なり、侈り強き者は主よりも我威を振ふ物ぞ、同上意に、治世に武道を達するを眞の武士といへり、亂世に武道をかせぐは冬は寒をふせぎ夏は風を求るに同じ、然れども武道不案內の者は、咎なき他國を討取猥に戰をなす事をも武道と言と覺へたり、是武道に無用の事ぞ、云々、同上意に、將軍に仕へ武家の流をくむ者、武道を忘れざるが肝要也、云々、同上意に、武道は靜謐の世に亂を忘れず、我身の奢を絕て、慈悲を萬の根元として、我等家職を勤め、其家を無事に治るが、善人にて、忠信深き人也、云々、
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・木刀をさす武士と外への備えの先手東照宮上意に、武家は武道を忘れざるが能ぞ、仔細は、太平なりとて、武家公家の如くに成て柔弱美麗を好むは、たとへば眞劔は用なしとて木刀をさすに似たり、又將軍を始め國主領主勇を好み軍法を不用は木刀を使ふに刀をさすに同じ、武道を好まずして柔弱を事とするは木刀に木小刀をさすに同じ、如斯の武士は、大身程味方にして災と成り、敵にして味方に大利あり、又小身たりとも武道の達人は、敵にして慢られず、味方にして頼みあり、少人數にて大高の先手に用ひてもおしからず、大勢なりとて武道不案內の大將を先手に用る事なかれ、先手の大軍の崩れかゝりたるが味方の禍と成ば、自然の事有る時は先手を能ゝ詮議せよ、昔し異國より日本を攻んとはかる時は、武內大臣九州に有て夷國を押へられたるも、是則劔の利をかたどりての事なり、劔は切先のかねを第一に吟味するぞ、仔細は、切先は先早く逢て或は切り或は突き肝要の處なり、此故に日本の大先手に、神代には住吉大明神、人代に武內大臣を置れたるぞ、今以此心を失ふべからず、右にも云ひ聞せるが如く、異國亂るゝと聞ば、九州に能武將を撰み、異國を押させよ、日本中の軍は勝負ともに其一家ばかりの盛衰ぞ、和漢のあらそひは、負たる時は日本國の恥、勝てば日本の譽れぞ、異國の取あひ程大事なることなし、若し異國亂れば此心得にて押へを撰び給へといふとぞ、文永弘安に異國人渡りしも、日本數代治平の事を元の世祖聞、蒙古武勇に誇りての事ぞ、文錄の朝鮮征伐の事も、朝鮮數代治平成る故柔弱にして武道の事を忘れしと、秀吉武勇に誇られての事ぞ、然るに武道不案內のものは太平には武道を取失ひ彼の木刀を用ゆるに似たり、木刀も形は刀に似たれども眞の用には立ず、武道不案內の武士は形は武士にして用は百姓町人に劣れり、此故に武家武道に達するを家職を知るといふ、天下の大寶也、云々、」
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『退食閑話』・邪教の禁と実の事他國には一向專念の徒横行して、加越歴世の邦君も是が爲に滅亡す、長島石山等の一揆には、織田殿の英明なるすら大に手を摧き、土呂針崎の亂には、參河武士の忠義の名を天下に得るすら、君父に對して弓矢を執り、西洋の邪徒來りしに及むてば、詭術を以て民心を迷し、 神明の邦を變じて狄夷の屬とせんことを謀る、然るに、織田殿山門以下諸國の惡僧を討ち平げ、西洋の姦謀を覺り、邪徒をも卻げんとす、豐臣家邪徒を海外に逐ひ退け、 東照宮に至りては邪徒の禁いよ〱嚴にして、其後寛永の時に至りて盡く是を殄滅して、遂に其根柢を絶給ふ、此段外夷も傳聞て曰、日本人は三眼有りとて、震ひ恐れしとなり、是又神明の敎正しく、人倫の道は天地の間に廢すべからざる自然の大道なるによりて、再び正しき道に反り、夷狄も卒服すべき道理にあらずや、然れば、 寳祚の無窮、國體の尊嚴、蒼生の安寧、戎狄の卒服、何れも空言にあらず、其實事これありしなり、

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