退食閑話 / 伯夷伝に感じた義公
問、義公十八歲にして伯夷傳を讀給ひ感發せられ、是より學を好み脩史の御志も立て、讓國の義をも成し給ひし事は人々の知る所にして、是に依りて更に儒敎を學び、人倫を明にして名分を正し、國家の藩屏とならせられしは、 さもあるべき事にて候へども、威公は日本武尊を慕ひ給はせられ、義公は伯夷傳に感發せられ、孝は志を繼と申候へども、日本武尊と伯夷と氣類も同じからず存候へば、威公の御志とは異なる所あるにて候や、曰、日本武尊と伯夷とは同じからざるやうに候へども、其時にあたりて、其實事につれて感じ給ふは一徹なり、義公は御兄にこえて世子に立給へば、夷齊讓國の義に感ぜられしも、其實事によりて感發し給ひしなり、是によりて學を好み給ひしも、聖賢の道を學び得て實事に施し給はんがためなれば、此道を深く尊信し、明の義士舜水先生に師とし事へて弟子の禮を執り給ふ、脩史の事も、其本は大義を天下に明らかにして、天下後世まで人倫を明らかにせむとの大志より發し給ふ、いづれも儒生などの紙上に空論せる如きの類にはあらず、
新字:問、義公十八歳にして伯夷伝を読給ひ感発せられ、是より学を好み脩史の御志も立て、譲国の義をも成し給ひし事は人々の知る所にして、是に依りて更に儒教を学び、人倫を明にして名分を正し、国家の藩屏とならせられしは、 さもあるべき事にて候へども、威公は日本武尊を慕ひ給はせられ、義公は伯夷伝に感発せられ、孝は志を継と申候へども、日本武尊と伯夷と気類も同じからず存候へば、威公の御志とは異なる所あるにて候や、曰、日本武尊と伯夷とは同じからざるやうに候へども、其時にあたりて、其実事につれて感じ給ふは一徹なり、義公は御兄にこえて世子に立給へば、夷斉譲国の義に感ぜられしも、其実事によりて感発し給ひしなり、是によりて学を好み給ひしも、聖賢の道を学び得て実事に施し給はんがためなれば、此道を深く尊信し、明の義士舜水先生に師とし事へて弟子の礼を執り給ふ、脩史の事も、其本は大義を天下に明らかにして、天下後世まで人倫を明らかにせむとの大志より発し給ふ、いづれも儒生などの紙上に空論せる如きの類にはあらず、
書き下し
問、義公十八歲にして伯夷傳を讀給ひ感發せられ、是より學を好み脩史の御志も立て、讓國の義をも成し給ひし事は人々の知る所にして、是に依りて更に儒敎を學び、人倫を明にして名分を正し、國家の藩屏とならせられしは、 さもあるべき事にて候へども、威公は日本武尊を慕ひ給はせられ、義公は伯夷傳に感發せられ、孝は志を繼と申候へども、日本武尊と伯夷と氣類も同じからず存候へば、威公の御志とは異なる所あるにて候や、曰、日本武尊と伯夷とは同じからざるやうに候へども、其時にあたりて、其實事につれて感じ給ふは一徹なり、義公は御兄にこえて世子に立給へば、夷齊讓國の義に感ぜられしも、其實事によりて感發し給ひしなり、是によりて學を好み給ひしも、聖賢の道を學び得て實事に施し給はんがためなれば、此道を深く尊信し、明の義士舜水先生に師とし事へて弟子の禮を執り給ふ、脩史の事も、其本は大義を天下に明らかにして、天下後世まで人倫を明らかにせむとの大志より發し給ふ、いづれも儒生などの紙上に空論せる如きの類にはあらず、
現代語訳
問い。義公が十八歳で伯夷伝を読んで感発され、それから学を好み、修史の志も立てられ、国を譲る義をも成し遂げられたことは人々の知るところで、これによってさらに儒教を学び、人倫を明らかにし名分を正して、国家の藩屏となられたのは、さもあるべきことですが、威公は日本武尊を慕われ、義公は伯夷伝に感発されました。孝は志を継ぐといいますが、日本武尊と伯夷とは類も同じでないと存じますので、威公の志とは異なるところがあるのでしょうか。答え。日本武尊と伯夷は同じではないようですが、そのときにあたって、実際の事柄に触れて感じられたのは一徹です。義公は兄を越えて世子に立たれたので、伯夷・叔斉の国を譲る義に感じられたのも、その実際の事柄によって感発されたのです。これによって学を好まれたのも、聖賢の道を学び得て実際に施されるためですから、この道を深く尊信し、明の義士・朱舜水先生に師事して弟子の礼をとられました。修史のことも、その本は大義を天下に明らかにし、天下後世まで人倫を明らかにしようという大志から発せられたのです。いずれも儒者などが紙の上で空論するような類ではありません。
解説
この章句が説くこと
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『退食閑話』・実事に施す儒学と修史依て聖人の敎を尊崇し給へるも、修己治人の道を事業に施し、士民を敎導し給ふ條目に載られしに、五倫を以て本となし、史を脩給ひしには、神功皇后を妃に列し、天皇大友を本紀にたて、壽永建元の 天子を正統とし給へるの類は、天下後世の人臣をして、大義を誤らざらしむるには、人倫を明らかにするの實にして、筆端の空論にあらず、如此にして、國家の藩屏とならせられ、天下に大益あるは、是皆其實事にして、威公の御志を繼給ふ所なりしかば、神道をも學び、神宮寺本地佛などいへる陋習を除し、唯一の神道とし給ひ、吉田神祉をも再典ありて、日本武尊を慕せられし遺志を成就し、武備をば繕めらるゝにも、大義を明らかにし、名節を磨勵して、心膽を練り給ふ、一つとして威公の志を繼ぎ述給ふにあらざるはなし、かくのごとく卓見ましませしゆへ、國中を風化し給はんとて、其頃までもいまだ學校といふ事も世に希なりしに、學校を立て敎を施んと志し、舜水先生に就て闕里の聖廟の制度を問ひ、小形をも製し給ひ、
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『退食閑話』・威公が日本武尊を慕う訳問、古來賢哲多き中に、威公は獨り日本武尊を欽慕し給ふ事は、いかなる故にて候へるや、曰、威公の欽慕し給ひし御主意書傳へしものなければ、何の故なる事を存し奉らず、然れども、愚意を以て窃に推考するに、蠻夷、夏を滑すと云は虞帝の患る所なり、古海內の戎狄民の害をなせし熊襲隼人の類もあれども、其勢の强大なること蝦夷にしくものはなし、常奧二野越羽の地に充滿して、良民一日も生を安むぜず、日本武尊は 景行天皇の皇子にして、英武絕倫なり、草薙の寶劍の神威に仗て、常奧の蝦夷を征討ありて 皇威を奮はれしよりして、世々夷狄を攘斥せられて、つゐに蝦夷の禍永く息しなり、威公も 東照宮の御子にして、英武超絕して、常陸の地を領して東地を鎭撫し給ふ、
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『退食閑話』・吉田神社と実事の志然れば、日本武尊の功烈あるが如く、永世まで 天朝の藩屏として、夷狄を鎭撫し給んとの雄志を奮ひ給ひしより、發せられしやと、察し奉るなり、況や吉田神祉は、日本武尊を神と祭り、名神の大祉にして、大城に密邇す、遠く日本武尊の德を慕ひ給ひて、遺志を奉承し給んと追ひ思ひ給ひて、宗祉の鎭護とす、生民の大幸なるべし、されば、公の欽慕し給ふは實事において感じ給ふ所あらんか、是によりて神道を尊み、蠻夷の左道を排し、武威の衰へざるやうにし、兵備を繕めて戎狄を攘斥すべきの手當ともなれり、何れも實事に施し給ふの御志より發せらるゝ事どもなれば、學生書生の徒の、其氣象言語等のみを稱するが如きに非ざらんかと存じ奉るなり、
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『弘道館記述義』・夷齊・儒者の矜持と、位山の歌に託した志幕府嘗て新令を布かんと欲し、三藩の君に詢ふ。公読みて「儒者医師は輿に乗るを許す」と云ふに至り、乃ち曰く、儒は瞽の冊を挟みて書を読むの称に非ず。凡そ聖人の道を学ぶ者之を儒と謂ふ。某も亦儒なり。今方伎の流と並称す。恐らくは笑ひを後世に貽さん、と。幕府乃ち改めて医陰二道と為す。儒者古に復す。公の力多しと為す。公の官は参議に過ぎず。年六十三にして致仕し、翌日中納言を拝す。位山の歌を作りて其の志を言ふ。(「久羅韋也麻能煩流毛玖流志於比乃美波布母登乃左土曾須微與加理氣留」。)又一詩を留めて嗣君を戒む。曰く、「嗚呼汝欽めよ、国を治むるは必ず仁に依れ、禍は閨門より始まる、慎みて五倫を乱す勿れ」と。国に帰り諸臣を召して親しく諭して曰く、吾弟を以て封を紹ぎ、久しく忸怩を抱く。今之を少将に譲る。吾が志願畢はれり。卿等能く我に事ふる所以を以て少将に事へよ。吾復た何をか患へん。君は舟、臣は水。水は能く舟を浮かべ、水は能く舟を覆す。慎め、と。又国中の子弟を諭して曰く、汝輩年少く、意は当に奮勇して首を殞すを思ふべし。然れども危ふきに臨みて命を授くるは士の常分なり。血気の勇は盗賊も尚ほ能くす。死するは難きに非ず、死に処するは難しと為す。然れば則ち何を以て之に処せん。聖賢の道を学ぶに在るのみ。夙夜孜孜として、倫理を明らかにし、実行を励む。此れ汝輩に望む所なり。然らずんば則ち乱を思ひ禍を楽しむ者なり。戒めざるべけんや、と。遂に菟裘を久慈郡太田郷の西山に営む。(相伝ふ、公地を相して此の郡に至り、一区の山水極めて佳なる者を見る。名を里人に問ふ。対へて逃山と称すと。公眉を蹙めて曰く、遁逃は武家の尤も忌む所。風景美なりと雖も、吾居るを欲せずと。又林泉幽邃にして愛すべき者に遇ひ、名を問ふ。西山と曰ふ。公喜びて曰く、唯だ其の名有るのみにて以て居るべし。況んや兼ねて山水の勝有るをや、と。遂に之に居る。)衡門茅屋、僅かに風日を蔽ふ。懐を詩酒に放ち、澹然として自ら楽しむ。西山隠士と称し、又梅里先生と曰ふ。蓋し皆泰伯・伯夷の風に取ると云ふ。
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『退食閑話』・結び・公の深意其人の好む所に任すべきなり、但其本とする所は神を敬し聖を崇び、神道は即ち聖道なり、聖道は即ち神道なりと心得て、大道の本意を失はず、文武の道を學びて熟練し、衆思を集め群力を宣べ、忠孝を盡して國恩に報ひ、神聖の靈も降臨ましますに至らん事を片時も忘るべからず、されども、人材を實事に用ゆべきよふに養ひ成さんは容易の事にあらず、我濟淺陋の學にして其任に堪ゆべきにあらず、且又、敎と治と並び行れて輕重なく、二つのものゝ本を執り、天下を卒ひ申さんは臣下の專にすべきにあらず、其治敎は御名を記させられしなり、是即ち義公の士臣を喩し給ひしにも、聖賢の道をば學びし者は、我も亦儒者なりとのたまひし遺意ならんかとおしはかり奉る、されば、記文の深意は、國君の自からさとし給ふ所なれば、結語にも斯の舘を設け其の治敎を統ぶる者は誰ぞとありて、我輩の口舌を以て論說せんは憚かるべき事なれども、默して答へざらむも職分を疏畧するに近ければ、聊か吾子が問に答ゆるなり、無稽の臆說も多からん、恐懼の念少からず、吾子また更に明識の人に就て正されんことを希がふなり、
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『弘道館記述義』・夷齊・伯夷伝に感じ、兄に家督を譲る決意嘗て夷斉に感を発し、更に儒教を崇ぶ。臣彪謹んで案ずるに、義公に二兄有り。伯は諱は頼重、諡は英侯、是れ高松侯の祖たり。仲は亀丸と曰ひ早夭す。公伯兄を超えて世子と為る。当時尚ほ幼し。年十八に及び、始めて伯夷伝を読み、慨然として感を発し、遂に後を英侯の子に譲らんと欲す。又載籍の已むべからざるを知り、乃ち修史の志有り。寛文辛丑、威公薨ず。厳有公、公をして封を紹がしむ。前一日、公英侯及び諸弟を威公の神位の前に会し、英侯に謂ひて曰く、某は弟を以て兄を踰ゆ、心に負くこと久し。隠忍して今に至るは、先君の在せしを以てなり。明日台使の来たるは、意某をして封を紹がしむるなり。願はくは松千代を得て某の嗣と為さん。然らずんば則ち明日の事、敢へて命を奉ぜずと。侯固辞す。諸弟事の将に測られざらんとするを慮り、力めて侯に勧む、然る後に可す。松千代は靖伯の小字なり。遂に立てて世子と為す。公又侯の次子を請ひて之を養ふ。靖伯蚤く卒するに及び、立てて世子と為す。人公の志の確にして慮の遠きに服す。公又幕府に請ひて、封内の墾田を割き、弟頼元・頼隆に各二万石を頒つ。是れ守山・長沼二侯の祖たり。其の余の諸弟は皆食邑を給す。(諸弟は頼雄と曰ひ、頼泰と曰ひ、頼以と曰ひ、房時と曰ふ。皆采地三千石を給す。天和中に至り、頼雄別に宍戸に封ぜらる。今の宍戸侯の祖なり。)癸卯の歳、公国に就き、太夫士二十七人の職掌を定む。威公薨じて、是に至り三年。公嘗て曰く、三年父の道を改むる無きは、惟に孝子の忍びざるのみならず、三十一年の久しきに至りては、賢否得失既に能く熟知す。挙錯黜陟、以て大過無かるべし。大抵老成事に諳錬し、後輩之を軽々しく変革せんと欲す。其の害甚だし、と。公既に修史に鋭志し、乃ち彰考館を開き、広く才俊を聘す。初め藤原粛の徒は儒を以て業と為し、幕府に聘せらる。然れども皆剃髪髡首し、法印の官を受け、習ひて以て風と為す。公深く之を非とし、儒臣をして皆髪を蓄へしむ。是より復た儒員を置かず。其の修史及び侍講は、皆武士を以て之を兼ね、以て永制と為す。

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