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弘道館記述義 / 尊王攘夷・朝廷を支えた織田・豊臣・東照宮

尊王攘夷。臣彪謹案。堂堂神州天日之嗣。世奉神器。君臨萬方。上下內外之分。猶天地之不可易焉。然則尊王攘夷者。實志士仁人盡忠報國之大義也。臣嘗讀史。至於大永年間天皇即位。本願寺僧獻資以成禮。唶然大息曰。足利氏雖衰而猶任將軍。居輦轂之下。不能獻片金匹帛以助大禮。乃委諸方外之徒。上辱皇家之大體。下長異端之邪焰。宜哉室町霸業之不振也。又至於永祿天正間。織田氏屢入朝。營皇居脩神廟。戮驕僧。豐臣氏又頗續其緒。蹶然曰。當時人牧唯知率土地而食人。獨二氏卓然能有斯擧。其駕馭群雄籠絡一世非僥倖也。夫二氏之爲政。固非有忠愛惻怛入民之深。而其擧動或有一二合於大義者。猶足以風動人心。况以仁厚勇武之姿。從事於尊攘者。其豐功偉烈豈可勝讚乎。我東照宮。旣捷於關原也。上奏奉供御之地。亦增廷臣食邑。其爲大將軍也。咫尺天顏服膺聖旨。蹇蹇竭力唯恐不堪其任。後水尾帝之即位也。(初豐臣秀吉。奏立皇庶子□仁爲皇太子。非天皇之意也。及秀吉薨。天皇謀立皇適子於東照宮。對曰唯在聖斷耳。臣何敢議焉。於是立皇適子爲皇太子。是爲後水尾帝。)東照公命諸侯營上皇宮。多置供御之地。

新字:尊王攘夷。臣彪謹案。堂堂神州天日之嗣。世奉神器。君臨万方。上下内外之分。猶天地之不可易焉。然則尊王攘夷者。実志士仁人尽忠報国之大義也。臣嘗読史。至於大永年間天皇即位。本願寺僧献資以成礼。唶然大息曰。足利氏雖衰而猶任将軍。居輦轂之下。不能献片金匹帛以助大礼。乃委諸方外之徒。上辱皇家之大体。下長異端之邪炎。宜哉室町覇業之不振也。又至於永禄天正間。織田氏屡入朝。営皇居脩神廟。戮驕僧。豊臣氏又頗続其緒。蹶然曰。当時人牧唯知率土地而食人。独二氏卓然能有斯挙。其駕馭群雄籠絡一世非僥倖也。夫二氏之為政。固非有忠愛惻怛入民之深。而其挙動或有一二合於大義者。猶足以風動人心。況以仁厚勇武之姿。従事於尊攘者。其豊功偉烈豈可勝讃乎。我東照宮。既捷於関原也。上奏奉供御之地。亦增廷臣食邑。其為大将軍也。咫尺天顔服膺聖旨。蹇蹇竭力唯恐不堪其任。後水尾帝之即位也。(初豊臣秀吉。奏立皇庶子□仁為皇太子。非天皇之意也。及秀吉薨。天皇謀立皇適子於東照宮。対曰唯在聖断耳。臣何敢議焉。於是立皇適子為皇太子。是為後水尾帝。)東照公命諸侯営上皇宮。多置供御之地。

書き下し

尊王攘夷。臣彪謹んで案ずるに、堂堂たる神州、天日の嗣、世々神器を奉じ、万方に君臨す。上下内外の分は、猶ほ天地の易ふべからざるがごとし。然らば則ち尊王攘夷とは、実に志士仁人の忠を尽くし国に報ゆる大義なり。臣嘗て史を読み、大永年間の天皇即位に、本願寺の僧資を献じて以て礼を成すに至りて、唶然として大息して曰く、足利氏衰ふと雖も猶ほ将軍に任じ、輦轂の下に居る。片金匹帛を献じて以て大礼を助くること能はず、乃ち諸を方外の徒に委ぬ。上は皇家の大体を辱め、下は異端の邪焰を長ず。宜なるかな室町の覇業の振るはざること、と。又永禄・天正の間に至り、織田氏屢々入朝し、皇居を営み神廟を脩め、驕僧を戮す。豊臣氏も又頗る其の緒を続ぐ。蹶然として曰く、当時の人牧は唯だ土地を率ゐて人を食ふを知るのみ。独り二氏のみ卓然として能く斯の挙有り。其の群雄を駕馭し一世を籠絡せしは僥倖に非ざるなり、と。夫れ二氏の政を為すは、固より忠愛惻怛の人に入ること深き有るに非ざるも、其の挙動或いは一二大義に合する有れば、猶ほ以て人心を風動するに足る。況んや仁厚勇武の姿を以て、尊攘に従事する者をや。其の豊功偉烈、豈に勝げて讃ふべけんや。我が東照宮既に関原に捷つや、上は供御の地を奏奉し、亦廷臣の食邑を増す。其の大将軍たるや、天顔に咫尺し聖旨に服膺し、蹇蹇として力を竭くし唯だ其の任に堪へざるを恐る。後水尾帝の即位や、(初め豊臣秀吉、皇庶子□仁を奏立して皇太子と為す。天皇の意に非ざるなり。秀吉薨ずるに及び、天皇皇適子を立てんことを東照宮に謀る。対へて曰く、唯だ聖断に在るのみ、臣何ぞ敢へて議せんやと。是に於て皇適子を立てて皇太子と為す。是れ後水尾帝なり。)東照公諸侯に命じて上皇宮を営ましめ、多く供御の地を置く。

現代語訳

「尊王攘夷。」臣の彪が謹んで考えますに、堂々たる神州(日本)は、天日の子孫が代々神器を奉じて万方に君臨しています。上下と内外の区別は、天地が易えられないのと同じです。そうであれば、尊王攘夷とは、志士・仁人が忠を尽くして国に報いる大義にほかなりません。私は以前、史書を読み、大永年間の天皇即位に、本願寺の僧が資金を献上して礼を成したことを知り、嘆息して言いました。足利氏は衰えたとはいえ将軍に任じられ、都のそばにいながら、わずかな金や布を献上して大礼を助けることができず、世俗の外の僧侶たちに任せてしまった。上は皇室の大体を辱め、下は異端の邪悪な炎を助長した。室町の覇業が振るわなかったのも当然だ、と。また永禄・天正の間になると、織田氏はたびたび参内し、皇居を造営し、神廟を修理し、驕った僧を誅殺しました。豊臣氏もまたその事業をかなり受け継ぎました。私は奮い立って言いました。当時の地方の長たちは、ただ土地を領して民から取り立てることしか知らなかった。ただこの二氏だけが際立って、このような事業をなしとげた。群雄を従え一世を取りまとめたのは、僥倖ではない、と。そもそもこの二氏の政治は、忠と愛の誠実な思いが人の心に深く入るようなものではありませんでしたが、その行動が一つ二つ大義に合うだけでも、人心を動かすには十分でした。まして、仁厚と勇武の資質をもって尊王攘夷に取り組む者ならなおさらです。その大きな功績と偉大な働きは、数え上げてほめ尽くせません。わが東照宮(徳川家康)は、関ヶ原に勝つと、上は天皇の御料地を奉り、また廷臣の領地を増やしました。大将軍となってからは、天皇のおそば近くで聖旨を心に刻み、ひたすら力を尽くし、ただその任に堪えられないことを恐れました。後水尾天皇の即位にあたっては、(初め豊臣秀吉が、皇庶子の(底本で判読できない字)仁を皇太子に奏上して立てました。これは天皇の意志ではありませんでした。秀吉が亡くなると、天皇は皇嫡子を立てることを東照宮に相談しました。東照宮は、ただ聖断にあるのみです、私がどうして議してよいでしょうか、と答えました。そこで皇嫡子を皇太子に立てました。これが後水尾天皇です。)東照公は諸侯に命じて上皇の宮を造営させ、天皇の御料地を多く置きました。

解説

織田・豊臣・徳川が朝廷の儀式や造営を支えたことを、東湖が尊王攘夷の実践として評価する一節です。国体論の色が濃い箇所ですが、歴史的な文脈として読み、大事な儀式や基本的な行事を人任せにしない姿勢を学べます。完璧ではない人の一つの良い行いも評価する視点が含まれています。現代の管理職は、組織の節目の行事や基本の役割を軽く扱っていないかを振り返り、トップや相手への敬意と自分の責任を行動で示す実践に結びつけたいものです。

この章句が説くこと

弘道館記述義藤田東湖尊王攘夷織田信長豊臣秀吉徳川家康

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