弘道館記述義 / 尊王攘夷・外患を防ぎ、名分を正す徳川の遺訓
旣而又大脩皇居增廣規制。又嘗招聚伶官以復雅樂。朝廷嘉其功。嘗擬以相國而不敢當也。賜以菊桐御章而不敢受也。其恭敬抑損。翼戴皇室者蓋如此。戰國搶擾之間外夷覬覦。乘我政敎廢弛。乃敢布其妖敎。豐臣氏嘗禁之。至於東照宮。更大設憲令。悉搜索天下。悉毀其寺。戮其徒。後嗣繼述不懈。於是外夷之防。妖敎之禁。永爲憲法第一義。其果決明斷。攘除夷狄者。蓋又如此。今恭觀其遺訓於仁政武備之要。尤深垂戒。其所以慮內憂防外患者不一而足。詩曰戎狄是膺荊舒是懲。孟軻廣之曰。無父無君周公所膺也。春秋曰。元年春王正月。左丘明傳之曰。元年春王周正月。今皇朝雖衰。其尊嚴固非東周之比。然履霜之漸。聖人戒之。則春秋之義不可不講。外夷妖敎之毒。不啻戎狄荊舒。則膺懲之典尤不可不明。而無識之徒。或指幕府曰朝廷。甚則以王稱之。近時又有蘭學者流。(世之脩西洋學。非天文醫術之徒則譯者舌人之流。大抵皆無識不達國體。舍此從彼襃天慢神。其爲害不可勝言。臣欲別有所論著。故不具論。)或唱說曰。西洋敎法其流非一。今彼所奉。與國家所禁不同。嗚呼是不惟皇家之罪人亦幕府之罪人也。抑亦周孔之罪人也。
新字:既而又大脩皇居增広規制。又嘗招聚伶官以復雅楽。朝廷嘉其功。嘗擬以相国而不敢当也。賜以菊桐御章而不敢受也。其恭敬抑損。翼戴皇室者蓋如此。戦国搶擾之間外夷覬覦。乗我政教廃弛。乃敢布其妖教。豊臣氏嘗禁之。至於東照宮。更大設憲令。悉捜索天下。悉毀其寺。戮其徒。後嗣継述不懈。於是外夷之防。妖教之禁。永為憲法第一義。其果決明断。攘除夷狄者。蓋又如此。今恭観其遺訓於仁政武備之要。尤深垂戒。其所以慮内憂防外患者不一而足。詩曰戎狄是膺荊舒是懲。孟軻広之曰。無父無君周公所膺也。春秋曰。元年春王正月。左丘明伝之曰。元年春王周正月。今皇朝雖衰。其尊厳固非東周之比。然履霜之漸。聖人戒之。則春秋之義不可不講。外夷妖教之毒。不啻戎狄荊舒。則膺懲之典尤不可不明。而無識之徒。或指幕府曰朝廷。甚則以王称之。近時又有蘭学者流。(世之脩西洋学。非天文医術之徒則訳者舌人之流。大抵皆無識不達国体。舎此従彼褒天慢神。其為害不可勝言。臣欲別有所論著。故不具論。)或唱説曰。西洋教法其流非一。今彼所奉。与国家所禁不同。嗚呼是不惟皇家之罪人亦幕府之罪人也。抑亦周孔之罪人也。
書き下し
既にして又大いに皇居を脩め規制を増広す。又嘗て伶官を招聚して以て雅楽を復す。朝廷其の功を嘉し、嘗て擬するに相国を以てするも敢へて当らず。賜ふに菊桐の御章を以てするも敢へて受けず。其の恭敬抑損、皇室を翼戴する者、蓋し此くの如し。戦国搶擾の間、外夷覬覦し、我が政教の廃弛に乗じ、乃ち敢へて其の妖教を布く。豊臣氏嘗て之を禁ず。東照宮に至りて、更に大いに憲令を設け、悉く天下を捜索し、悉く其の寺を毀ち、其の徒を戮す。後嗣継述して懈らず。是に於て外夷の防ぎ、妖教の禁は、永く憲法第一義と為る。其の果決明断、夷狄を攘除する者、蓋し又此くの如し。今恭しく其の遺訓を観るに、仁政武備の要に於て、尤も深く戒めを垂る。其の内憂を慮り外患を防ぐ所以の者、一にして足らず。詩に曰く、戎狄は是れ膺ち、荊舒は是れ懲らすと。孟軻之を広げて曰く、父なく君なきは周公の膺つ所なりと。春秋に曰く、元年春王の正月と。左丘明伝して曰く、元年春王の周の正月と。今皇朝衰ふと雖も、其の尊厳は固より東周の比に非ず。然れども履霜の漸、聖人之を戒む。則ち春秋の義は講ぜざるべからず。外夷妖教の毒は、啻だに戎狄荊舒のみならず。則ち膺懲の典尤も明らかにせざるべからず。而るに無識の徒、或いは幕府を指して朝廷と曰ひ、甚だしきは則ち王と称す。近時又蘭学者流有り。(世の西洋学を脩むるは、天文医術の徒に非ざれば則ち訳者舌人の流なり。大抵皆無識にして国体に達せず、此を舎てて彼に従ひ、天を襃めて神を慢る。其の害言ふに勝ふべからず。臣別に論著する所有らんと欲す。故に具さには論ぜず。)或いは唱説して曰く、西洋の教法は其の流一に非ず、今彼の奉ずる所は国家の禁ずる所と同じからず、と。嗚呼是れ惟に皇家の罪人のみならず、亦幕府の罪人なり。抑も亦周孔の罪人なり。
現代語訳
その後さらに、皇居を大いに修理して規模を広げました。また雅楽の楽人を招き集めて雅楽を復興しました。朝廷はその功績を喜び、かつて相国に擬しましたが、東照宮は受けませんでした。菊と桐の御紋章を賜りましたが、これも受けませんでした。その恭敬と謙遜で皇室を支え戴いたことは、このようでした。戦国の騒乱の間、外国の者がうかがい、わが国の政治と教化が緩んだのに乗じて、あえてその妖しい教えを広めました。豊臣氏はかつてこれを禁じました。東照宮に至って、さらに大いに法令を設け、天下をことごとく捜索し、その寺をことごとく壊し、その信徒を処刑しました。後継者たちも受け継いで怠りませんでした。こうして外国への防備と妖教の禁止は、永く憲法の第一義となりました。その果断で明晰な判断で、夷狄を払い除いたことは、このようでした。いま、つつしんでその遺訓を拝見すると、仁政と武備の要点について、特に深く戒めを示しています。内の憂いを慮り外の患いを防ぐ方策は、一つではありません。詩経に、「戎狄はこれを討ち、荊舒はこれを懲らす」とあります。孟子はこれを広げて、「父もなく君もない(者)は、周公が討つところである」と言いました。春秋に「元年春王の正月」とあり、左丘明は注して「元年春、王の周の正月」と言いました。いま皇朝は衰えたとはいえ、その尊厳はもとより東周の比ではありません。それでも、霜を踏む(わずかな兆しから大事に至る)ことを聖人は戒めました。そうであれば、春秋の義は講じないわけにはいきません。外国の妖教の毒は、戎狄・荊舒のみにとどまりません。そうであれば、討ち懲らす規範はいっそう明らかにしなければなりません。それなのに、無識の者は、幕府を指して朝廷といい、甚だしくは王と称します。近ごろはまた蘭学者の類がいます。(世の西洋学を修める者は、天文・医術の徒でなければ、通訳の類です。たいてい無識で国体に通じず、これを捨てて彼に従い、天(西洋の天主)をほめて神(日本の神)をあなどります。その害は言い尽くせません。私は別に論著したいと思うので、ここでは詳しく論じません。)ある者は、西洋の教法の流れは一つではなく、今、彼らが奉じているものは国家が禁じているものと同じではない、と唱えています。ああ、これは皇室への罪人であるばかりでなく、幕府への罪人でもあり、さらには周公・孔子への罪人でもあります。
解説
この章句が説くこと
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