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退食閑話 / 蘭学の害と小道

人をして聖賢の書をば席上の翫物となさしむるにいたる、又近世蘭學といふもの世に行はる、其本は譯官の和蘭談を翻譯するのみにして、世の害とならず、是によりて海外の事情をも審にして、或は其藝を取て國家の用を助くる事もあるべけれども、 聖賢の大道を知らざるもの胸中に定見もなく、徒に蘭書を見て新奇の巧辨を悅びしより、窮理と稱して一草一木禽獸蟲魚等の空理を穿鑿し、人の支體を屠り、天地に陰陽動靜の活意ある事を論じて、器玩に均しく死物とす、其甚しきは國家に嚴禁せらるゝ西洋の邪敎をも窃に信じて、其敎實は邪說にあらずなど憚らずして口舌を振ひ、愚民を迷はす、兵書にも人をして敵の美を說かしむる事なかれといへども、國家かねても外虜の防御を嚴にせらるゝ深意をも憚らず、民心を移動して陰に外虜を尊信せしむる術をなすは、國家の姦民とも稱すべきなり、かくのごとく學士書生の論ずる所さま〱に異同の說ありて、各其長ずる所はあれども、其本を失ふて、神聖の大道に明らかならざれば、捨此從彼といふに至るもの又多し、經語に雖小道必有可觀者、致遠恐泥。

新字:人をして聖賢の書をば席上の翫物となさしむるにいたる、又近世蘭学といふもの世に行はる、其本は訳官の和蘭談を翻訳するのみにして、世の害とならず、是によりて海外の事情をも審にして、或は其芸を取て国家の用を助くる事もあるべけれども、 聖賢の大道を知らざるもの胸中に定見もなく、徒に蘭書を見て新奇の巧弁を悦びしより、窮理と称して一草一木禽獣虫魚等の空理を穿鑿し、人の支体を屠り、天地に陰陽動静の活意ある事を論じて、器玩に均しく死物とす、其甚しきは国家に厳禁せらるゝ西洋の邪教をも窃に信じて、其教実は邪説にあらずなど憚らずして口舌を振ひ、愚民を迷はす、兵書にも人をして敵の美を説かしむる事なかれといへども、国家かねても外虜の防御を厳にせらるゝ深意をも憚らず、民心を移動して陰に外虜を尊信せしむる術をなすは、国家の姦民とも称すべきなり、かくのごとく学士書生の論ずる所さま〱に異同の説ありて、各其長ずる所はあれども、其本を失ふて、神聖の大道に明らかならざれば、捨此従彼といふに至るもの又多し、経語に雖小道必有可観者、致遠恐泥。

書き下し

人をして聖賢の書をば席上の翫物となさしむるにいたる、又近世蘭學といふもの世に行はる、其本は譯官の和蘭談を翻譯するのみにして、世の害とならず、是によりて海外の事情をも審にして、或は其藝を取て國家の用を助くる事もあるべけれども、 聖賢の大道を知らざるもの胸中に定見もなく、徒に蘭書を見て新奇の巧辨を悅びしより、窮理と稱して一草一木禽獸蟲魚等の空理を穿鑿し、人の支體を屠り、天地に陰陽動靜の活意ある事を論じて、器玩に均しく死物とす、其甚しきは國家に嚴禁せらるゝ西洋の邪敎をも窃に信じて、其敎實は邪說にあらずなど憚らずして口舌を振ひ、愚民を迷はす、兵書にも人をして敵の美を說かしむる事なかれといへども、國家かねても外虜の防御を嚴にせらるゝ深意をも憚らず、民心を移動して陰に外虜を尊信せしむる術をなすは、國家の姦民とも稱すべきなり、かくのごとく學士書生の論ずる所さま〱に異同の說ありて、各其長ずる所はあれども、其本を失ふて、神聖の大道に明らかならざれば、此を捨てて彼に從ふといふに至るもの又多し、經語に小道と雖も必ず觀るべき者有り、遠きを致さば泥まんことを恐る。

現代語訳

人に聖賢の書を座席の上の玩具のようにさせるに至ります。また近世は蘭学というものが世に行われています。その本は通訳官のオランダ話を翻訳するだけで、世の害にはなりません。これによって海外の事情を詳しく知り、あるいはその技芸を取って国家の用を助けることもあるでしょう。しかし、聖賢の大道を知らない者が胸中に定見もなく、いたずらに蘭書を見て新奇な巧みな弁を喜んでから、窮理と称して一草一木・禽獣虫魚などの空理を穿鑿し、人の体を切り刻み、天地に陰陽動静の活きた意があることを論じて、器物や玩具と同じく死物としてしまいます。そのはなはだしきは、国家が厳禁している西洋の邪教をひそかに信じ、その教えは実は邪説ではないなどと憚らずに口舌を振るい、愚民を惑わします。兵書にも「人に敵の長所を説かせてはならない」とありますが、国家がかねて外夷の防御を厳しくされている深い意図をも憚らず、民心を動かして陰で外夷を尊信させる術をなすのは、国家の姦民というべきです。このように学士・書生の論じるところはさまざまに異同があり、それぞれ得意とするところはあっても、その本を失い、神聖の大道に明らかでなければ、此を捨てて彼に従うに至る者がまた多いのです。経典に「小道と雖も必ず観るべき者有り、遠きを致さば泥まんことを恐る。

解説

著者は、蘭学そのものは翻訳にとどまり害はないが、大道を知らぬ者が新奇な理屈に走り、西洋の邪教を信じて民心を動かすのは国家の姦民だと警戒します。末尾は、小道にも観るべきものはあるが遠くへ行くには行き詰まる、という論語の語につなぎます。当時の海防の緊張感が背景にあります。現代の組織でも、新しい技術や手法を取り入れる際、核になる判断軸がなければ流行に振り回されます。上に立つ者は、導入の目的と軸を明確にして吟味し、手法に呑まれないことが肝要です。

この章句が説くこと

蘭学窮理西洋邪教海防小道論語

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