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駿台雑話 / 不忘向君一

後數日ありて諸客來會せしが、前日兵の拙速を貴ぶ事を承候てより、自分にも考へ見候に、兵に限らず大かたは何事も不調法にして速なるがよく候、然るをあまり思案過候て仕方のよきやうにとこしらへ候へば、多くは文に拘り實を失ひ候故、やゝもすれば機會におくれ候て、後悔する事も出來候、是巧にして久しきの害にて候といへば、翁きゝて、さにてこそ候へ、但其速なるに本源あり、たゞ常に心ゆるまず、氣たるまざるを本源とす、心ゆるまず氣たるまざれば、事物に奪はれぬ程に、おのづから落着候て緩やかなる物にて候、さればすみやかなるは緩やかなるより生ずると思ひ給ふべし、もし速なるがよしとて俄にすみやかにすれば、心せき氣さはがしく候程に、事に當て狼狽して、たゞおそきのみならず、却て不慮の害をも招ぞかし、近代諸侯の家にある宿老の武臣を見るに、そのかみ兵戰の世を經て、おのづから心ゆるまず氣たるまぬ故に、緩急の場に臨て其速なる事他人の及ぶべき所にあらず、翁加賀にありし時、其先祖越後の堀の家に仕へし者ありて語りしは、越後守の家老に堀監物とて名ある者あり(監物二代あり、

新字:後数日ありて諸客来会せしが、前日兵の拙速を貴ぶ事を承候てより、自分にも考へ見候に、兵に限らず大かたは何事も不調法にして速なるがよく候、然るをあまり思案過候て仕方のよきやうにとこしらへ候へば、多くは文に拘り実を失ひ候故、やゝもすれば機会におくれ候て、後悔する事も出来候、是巧にして久しきの害にて候といへば、翁きゝて、さにてこそ候へ、但其速なるに本源あり、たゞ常に心ゆるまず、気たるまざるを本源とす、心ゆるまず気たるまざれば、事物に奪はれぬ程に、おのづから落着候て緩やかなる物にて候、さればすみやかなるは緩やかなるより生ずると思ひ給ふべし、もし速なるがよしとて俄にすみやかにすれば、心せき気さはがしく候程に、事に当て狼狽して、たゞおそきのみならず、却て不慮の害をも招ぞかし、近代諸侯の家にある宿老の武臣を見るに、そのかみ兵戦の世を経て、おのづから心ゆるまず気たるまぬ故に、緩急の場に臨て其速なる事他人の及ぶべき所にあらず、翁加賀にありし時、其先祖越後の堀の家に仕へし者ありて語りしは、越後守の家老に堀監物とて名ある者あり(監物二代あり、

書き下し

後數日ありて諸客來會せしが、前日兵の拙速を貴ぶ事を承候てより、自分にも考へ見候に、兵に限らず大かたは何事も不調法にして速なるがよく候、然るをあまり思案過候て仕方のよきやうにとこしらへ候へば、多くは文に拘り實を失ひ候故、やゝもすれば機會におくれ候て、後悔する事も出來候、是巧にして久しきの害にて候といへば、翁きゝて、さにてこそ候へ、但其速なるに本源あり、たゞ常に心ゆるまず、氣たるまざるを本源とす、心ゆるまず氣たるまざれば、事物に奪はれぬ程に、おのづから落着候て緩やかなる物にて候、さればすみやかなるは緩やかなるより生ずると思ひ給ふべし、もし速なるがよしとて俄にすみやかにすれば、心せき氣さはがしく候程に、事に當て狼狽して、たゞおそきのみならず、却て不慮の害をも招ぞかし、近代諸侯の家にある宿老の武臣を見るに、そのかみ兵戰の世を經て、おのづから心ゆるまず氣たるまぬ故に、緩急の場に臨て其速なる事他人の及ぶべき所にあらず、翁加賀にありし時、其先祖越後の堀の家に仕へし者ありて語りしは、越後守の家老に堀監物とて名ある者あり(監物二代あり、

現代語訳

後日、また諸客が集まり、こう言いました。「先日、兵は拙速を貴ぶと承ってから、自分でも考えてみましたが、兵に限らず、おおかたのことは不調法でも速いのがよいのです。それをあまり思案を重ねて、やり方がよくなるようにと作り込めば、多くは形式にとらわれて実を失い、ともすれば機会に遅れて後悔することも出てきます。これが巧にして久しいことの害です」。翁は聞いて、こう答えました。そのとおりです。ただしその速さには本源があります。ただ常に心がゆるまず、気がたるまないことを本源とします。心がゆるまず気がたるまなければ、物事に心を奪われないので、おのずと落ち着いて、ゆったりしたものです。ですから速やかさはゆるやかさから生まれると思いなさい。もし速いのがよいからとにわかに速くすれば、心はせき気は騒がしくなるので、事に当たって狼狽し、遅くなるだけでなく、かえって思わぬ害を招きます。近年、諸侯の家にいる宿老の武臣を見ると、昔の戦乱の世を経て、おのずと心がゆるまず気がたるまないので、緩急の場に臨んでその速さは他人の及ぶところではありません。私が加賀にいた時、その先祖が越後の堀家に仕えていたという者が語ったのは、越後守の家老に堀監物という名のある者がいたということです(監物には二代あり、

解説

「不忘向君」の初段です。客が、兵の拙速を貴ぶ話を何事にも広げて、不調法でも速いのがよいと述べます。翁はこれに同意しつつ、その速さには本源があると答えます。それは常に心がゆるまず、気がたるまないことで、そこから落ち着きが生まれ、速やかさはゆるやかさから生じる、と言います。急ごうとして心がせくと、かえって狼狽して遅くなり、思わぬ害を招くとも戒めます。戦乱の世を経た宿老の武臣が緩急の場で速いと述べ、加賀で聞いた堀家の家老、堀監物の話の入口に入ります。段は括弧書きの途中で切れ、次段に続きます。現代の仕事でも、速さを求めて慌てるほど、品質も機会も逃す人は多くいます。落ち着いた平常心が迅速な判断の土台になる、という指摘です。

この章句が説くこと

落ち着き速やかさ緩急平常心堀監物駿台雑話

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