駿台雑話 / 歲寒知松柏五
御史鞫問の上に、其僧は詐罔をもて論死せし程に、帝はさてやむべかりしを、帝南歸の思ひあるによりて、自から其實を白狀せられければ、朝廷舊宮人に命じて探り求めしむるに、建文帝たること無疑に決定せしかば、詔ありて帝をむかへて西門にいれしむ、程濟これを聞て、今日始て臣が職を終ぬとて、終に迹をくらましてのがれさりぬ、その帝に從て出亡してより、こゝに至て三十九年の間、艱楚をなめて、始終つきまとひ、ふたゝび帝を宮中にいれし事、其貞節の堅さをいふに、古今いまだきかざるところなり、狐趙が文公にしたがひ、甯俞が成公に從ひしには、はるかにまさりぬべし、是をもていはゞ、一時殉難はやすく、程濟たることは難し、孔子のいはゆる其知には及ぶべく、其愚には及ぶべからずとは、是等の事を申べき、帝すでに宮中に入しかば、宮中の人老佛といひける、つひに壽をもて終られけるとぞ、これも古今にためしなくいとめづらしき事なり、
新字:御史鞫問の上に、其僧は詐罔をもて論死せし程に、帝はさてやむべかりしを、帝南帰の思ひあるによりて、自から其実を白状せられければ、朝廷旧宮人に命じて探り求めしむるに、建文帝たること無疑に決定せしかば、詔ありて帝をむかへて西門にいれしむ、程済これを聞て、今日始て臣が職を終ぬとて、終に迹をくらましてのがれさりぬ、その帝に従て出亡してより、こゝに至て三十九年の間、艱楚をなめて、始終つきまとひ、ふたゝび帝を宮中にいれし事、其貞節の堅さをいふに、古今いまだきかざるところなり、狐趙が文公にしたがひ、甯兪が成公に従ひしには、はるかにまさりぬべし、是をもていはゞ、一時殉難はやすく、程済たることは難し、孔子のいはゆる其知には及ぶべく、其愚には及ぶべからずとは、是等の事を申べき、帝すでに宮中に入しかば、宮中の人老仏といひける、つひに寿をもて終られけるとぞ、これも古今にためしなくいとめづらしき事なり、
書き下し
御史鞫問の上に、其僧は詐罔をもて論死せし程に、帝はさてやむべかりしを、帝南歸の思ひあるによりて、自から其實を白狀せられければ、朝廷舊宮人に命じて探り求めしむるに、建文帝たること無疑に決定せしかば、詔ありて帝をむかへて西門にいれしむ、程濟これを聞て、今日始て臣が職を終ぬとて、終に迹をくらましてのがれさりぬ、その帝に從て出亡してより、こゝに至て三十九年の間、艱楚をなめて、始終つきまとひ、ふたゝび帝を宮中にいれし事、其貞節の堅さをいふに、古今いまだきかざるところなり、狐趙が文公にしたがひ、甯俞が成公に從ひしには、はるかにまさりぬべし、是をもていはゞ、一時殉難はやすく、程濟たることは難し、孔子のいはゆる其知には及ぶべく、其愚には及ぶべからずとは、是等の事を申べき、帝すでに宮中に入しかば、宮中の人老佛といひける、つひに壽をもて終られけるとぞ、これも古今にためしなくいとめづらしき事なり、
現代語訳
御史の取り調べの結果、その僧は偽りを言ったという罪で死罪と決まり、帝はそのままで済むはずでしたが、帝が故郷へ帰りたいと思う気持ちがあったので、自ら本当のことを白状されました。朝廷が昔の宮人に命じて探らせたところ、建文帝であることは疑いないと決まったので、詔があって帝を迎え、西門から入れさせました。程済はこれを聞いて、今日はじめて臣下としての務めを終えたと言い、そのまま行方をくらまして去りました。帝に従って都を出てからここに至るまで三十九年の間、苦難をなめ、始めから終わりまでつき従い、ふたたび帝を宮中に入れたこと、その貞節の堅さは、古今かつて聞いたことがありません。狐と趙が文公に従い、甯俞が成公に従ったことよりも、はるかにまさっているでしょう。これによって言えば、一時の殉難はたやすく、程済のようにあることは難しいのです。孔子のいう「その知には及ぶべくも、その愚には及ぶべからず」とは、こうした事を申すのでしょう。帝はすでに宮中に入ったので、宮中の人は「老仏」と呼びました。ついに天寿を全うされたということです。これも古今に例のない、まことに珍しいことです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『駿台雑話』歲寒知松柏(四)此三人は左右をはなれず、外の十九人は東西に聚散し、道路に往來して、衣食を給し、應援をなし、相與に壹心戮力て、始終一のごとし、京城陷りし時、成祖宮人に帝のあり所を詰問れしに、馬后の屍をさししめしければ、さては自から焚死しけるとて、其屍を煨爐の中よりとり出て、禮葬せられしが、其後世に建文帝いまだ死せずと沙汰しけるを聞て、ひそかに天下を搜してやまず、胡濙に命じて仙人張三丰を訪求めさせられしも、實は帝の蹤迹をたづねんがためと聞えし、よりて人に物色せられん事をおそれて、一所に留居するもかなはねは、君臣ともに影をかくし、迹をたちて、四方に漂泊す其後從亡の人皆うせはてて、兩比丘も相繼て身まかりければ、程濟一人ばかりのこりて、帝を奉護しけるが、或は屢々空にして出て糧を募り、或は侍病て出て藥を乞、その崎嶇艱難思ひやるべし、帝詩をよくす、名勝を遊歷して、多くは詩を賦して、懷舊の情をいへり、其中一首覺へ侍る、牢落西南四十秋、蕭々白髮已盈頭、乾坤有恨家何在、江漢無情水自流、長樂宮中雲氣散、朝元閣上雨聲收、新蒲細柳年々錄、野老呑聲哭未休、是を吟ずるに人をして千載の恨あらしむ、帝長命にて、成祖仁宗の兩朝を歷て、英宗正統五年に至て、奧西におはせしに、帝と同宿の僧ありしが、今において帝いでば、朝廷にあはれまれん事をはかりて、帝の詩を竊みて、自から建文帝と稱して出けれは、藩司其僧並に帝を械繫して、京師に送りしに、程濟徒跣してしたがひけり、
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『駿台雑話』歲寒知松柏(二)此時先朝の文武名を知らるゝ程の者、燕王を迎奉せしかど、此諸臣ばかり國難に殉ひし事は、誠に歲寒して松柏をしるとも申べし、孝孺が弟孝友が就戮しを孝孺みて、それまでは九族門生ころされて、尸を前に積を見ても、一たび顧る事なかりしが、さすが兄弟の愛忍びがたくやありけん、おぼえず落涙しければ、孝友詩を口づから占て、兄の孝孺に訣れける、其詩に、¶阿兄何必涙潛々、取義成仁在此間、華表柱頭千歲後、旅魂依舊到家山、いとあはれなりし事なり、百世の下までもきく人袂をしぼるべし、されど殉難の諸臣は、世に赫着する事にて侍れば、今更申にも及ばず、こゝに其列にはあらで、殉死よりもまさりて覺ゆるは、建文帝に從て出亡せし二十二人にて候、中にも翰林脩選程濟が貞節は古今比類なき事といふべし、それにつきて建文帝の始末を、各はくはしく考へ置給へるや、翁たゞ今は記憶うせて、たしかに覺しと思ふ事もおほくはたがひぬれば、只あらましを物語し侍るべし、太祖の時懿文太子薨じて、建文帝嫡孫をもて皇統を繼れしが、帝年わかく材弱くおはせしに、叔父の燕王雄才ありて、偏强難制見へし程に、百歲の後國家の變あらむ事を太祖かねて慮り給るにや、其時誠意伯劉基博學にて讖緯の事をも奏進せしと聞へしが、劉基などが所爲にもあるにや、ひとつの紅篋を密織して殘しおかれけり、
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『駿台雑話』歲寒知松柏(三)大難に臨みて是を開けといふことにぞありける、然るに燕兵すでに大内に迫て京城守らず、今はかうよと見へし時、命じて大内に火をかけさせ、帝自から焚死するやうに物して、其紛れに程濟かの紅篋を打碎て見れば、度牒三張、三人の名にそへて、袈裟帽子剃刀の類まで内に備りてあり、又篋内に朱書して、應文は鬼門よりいで、其餘は水關の御溝よりいで、ゝ、薄暮に神樂觀に會すとあり、三人の名ひとりは應文、是は建文帝たるべし、ひとりは應能、是は揚應能應じ、ひとりは應賢、是は葉希賢應ず、程濟急に帝の髮を祝しければ、兩人も同じく髮をおろし、衣を易て袈裟を着しぬ、帝は殿中にありあひける士九人をしたがへて、丑寅の門よりいでけるに、神樂觀の道士王昇舟を艤して待うけつゝ、帝を導て觀に到りしが、程なく應能希賢を始として、すべて二十二人來會する時は、すでに薄暮になりにき、かの紅篋の識すこしもたがふ事なきはいとあやしといふべし、それより二十二人のもの、妻子をふり捨て、帝にしたがひいづくともなく出亡しけり、應能希賢は比丘となり、程濟は道人と號し、
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『駿台雑話』歲寒知松柏(一)座中ひとり、宋の文天祥、謝枋得が事をいひて嘆美するに、又ひとり明の方孝孺が事をいひ出て、孝孺成祖に對して始終少しも屈せず、あくまで成祖を罵て口をさかれ、まのあたり赤族せらるゝを見て悔ざりし、古今義烈の士といふべしといふを、翁聞て、文山が衣帶にのこれる贊、疊山が却聘の書を見給へ、二子の心事明白なる事を知るべし、文山が元の搏羅と問答するを見るに、其氣象凛々として犯すべからず、しかも其從容たる事は、方孝孺等が忼慨して就死にもまさりて殊勝とぞ覺へ侍る、但文山は宋の亟相にて、もとより國と休戚を同うする身なり、疊山は宗の臣たりといへど、顯仕にも登らず國事に預る程の身にもあらねば、宋亡びて、元に仕へずして、隱れ居ても、さてやみなん、然るに八十歲におよべる老母ある故に、しばらくながらへてありしが、後に元人の聘を却けて、つひに食を絶て死しけり、其淸節文山と抗衡すべし、趙子昂留夢炎等之を以て、恬然として元に仕へしこそ、いかで羞惡の心を失ひけるにや、無恥の甚しきものなり、さて明朝靖難の亂に、殉國の諸臣、その勇壯義烈いづれも孝孺におとるべからず、古今義氣の集るところとや申べき、
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『駿台雑話』忠厚のこゝろ(二)又衆中にて嘲て、麈糟陂裏の叔孫通などといひしが、伊川遂に東坡が是非を一言の給ひし事をきかず、是にて知べし、洛蜀の二黨いづれか正なるいづれか邪なる、いはずして明かなり、又邢恕初は伊川に從ひて學びしが、後に小人に黨し、伊川を讒して陪陵に謫せしむ、門人聞て伊川に告しに、伊川の給ひけるは、故人かねて情厚し、われ少しも疑ふの心なしとて、いささか不平の辭色なかりし、是等の事誠に吾徒の師法とすべし、忠臣去國不潔其名といふも、忠厚の事なり、是は人臣たるもの、君と義絕て其國をさらんに、あながちに君の非をいふにもあらねど、己があやまらぬ事をいふて一分の上を潔うせんとすれば君のあしきになるゆへ、わが名をにごらし自からわがあしきやうにしておるとなり、是忠臣の心なり、翁加賀にありし時、ひとりの老人あり、其父太陽寺左平次といひし者、長湫の戰に池田勝久の手にて戰功あり、其後天下泰平になりて、大坂籠城の輩をさへ、御仁政にて諸候の國につかふる事を御ゆるしありし程に、戰功ありし士ども、己が手にあひし事をいひたてゝ仕へをもとめしに、左平次一生己が長湫にての戰功をいはず、さて親しきものに、大將の敗亡したるに、其手に屬したるもの、己が戰功をいふべきにあらずといひしと語りし、己が戰功をいへば、惣勢の敗軍をば大將の越度にし、一分のいひわけしてのくにて侍る、左平治そこをおもふにこそ、古人忠厚の餘味あり、いとやさしき事なり、其戰功をいふははるかに劣り侍りぬべし、
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史記 趙世家趙武の冠して、成人と為るに及び、程嬰乃ち諸大夫に辞し、趙武に謂ひて曰く、「昔下宮の難、皆能く死せり。我死する能はざるに非ず、我趙氏の後を立てんことを思へばなり。今趙武既に立ち、成人と為り、故位に復す。我将に下りて趙宣孟と公孫杵臼とに報ぜんとす」と。趙武啼泣頓首して固く請ふ。程嬰曰く、「不可なり。彼我を以て能く事を成すと為す、故に我に先んじて死せり。今我報ぜずんば、是れ我が事を以て成らずと為すなり」と。遂に自殺す。
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