駿台雑話 / 歲寒知松柏二
此時先朝の文武名を知らるゝ程の者、燕王を迎奉せしかど、此諸臣ばかり國難に殉ひし事は、誠に歲寒して松柏をしるとも申べし、孝孺が弟孝友が就戮しを孝孺みて、それまでは九族門生ころされて、尸を前に積を見ても、一たび顧る事なかりしが、さすが兄弟の愛忍びがたくやありけん、おぼえず落涙しければ、孝友詩を口づから占て、兄の孝孺に訣れける、其詩に、¶阿兄何必涙潛々、取義成仁在此間、華表柱頭千歲後、旅魂依舊到家山、いとあはれなりし事なり、百世の下までもきく人袂をしぼるべし、されど殉難の諸臣は、世に赫着する事にて侍れば、今更申にも及ばず、こゝに其列にはあらで、殉死よりもまさりて覺ゆるは、建文帝に從て出亡せし二十二人にて候、中にも翰林脩選程濟が貞節は古今比類なき事といふべし、それにつきて建文帝の始末を、各はくはしく考へ置給へるや、翁たゞ今は記憶うせて、たしかに覺しと思ふ事もおほくはたがひぬれば、只あらましを物語し侍るべし、太祖の時懿文太子薨じて、建文帝嫡孫をもて皇統を繼れしが、帝年わかく材弱くおはせしに、叔父の燕王雄才ありて、偏强難制見へし程に、百歲の後國家の變あらむ事を太祖かねて慮り給るにや、其時誠意伯劉基博學にて讖緯の事をも奏進せしと聞へしが、劉基などが所爲にもあるにや、ひとつの紅篋を密織して殘しおかれけり、
新字:此時先朝の文武名を知らるゝ程の者、燕王を迎奉せしかど、此諸臣ばかり国難に殉ひし事は、誠に歳寒して松柏をしるとも申べし、孝孺が弟孝友が就戮しを孝孺みて、それまでは九族門生ころされて、尸を前に積を見ても、一たび顧る事なかりしが、さすが兄弟の愛忍びがたくやありけん、おぼえず落涙しければ、孝友詩を口づから占て、兄の孝孺に訣れける、其詩に、¶阿兄何必涙潜々、取義成仁在此間、華表柱頭千歳後、旅魂依旧到家山、いとあはれなりし事なり、百世の下までもきく人袂をしぼるべし、されど殉難の諸臣は、世に赫着する事にて侍れば、今更申にも及ばず、こゝに其列にはあらで、殉死よりもまさりて覚ゆるは、建文帝に従て出亡せし二十二人にて候、中にも翰林脩選程済が貞節は古今比類なき事といふべし、それにつきて建文帝の始末を、各はくはしく考へ置給へるや、翁たゞ今は記憶うせて、たしかに覚しと思ふ事もおほくはたがひぬれば、只あらましを物語し侍るべし、太祖の時懿文太子薨じて、建文帝嫡孫をもて皇統を継れしが、帝年わかく材弱くおはせしに、叔父の燕王雄才ありて、偏強難制見へし程に、百歳の後国家の変あらむ事を太祖かねて慮り給るにや、其時誠意伯劉基博学にて讖緯の事をも奏進せしと聞へしが、劉基などが所為にもあるにや、ひとつの紅篋を密織して残しおかれけり、
書き下し
此時先朝の文武名を知らるゝ程の者、燕王を迎奉せしかど、此諸臣ばかり國難に殉ひし事は、誠に歲寒して松柏をしるとも申べし、孝孺が弟孝友が就戮しを孝孺みて、それまでは九族門生ころされて、尸を前に積を見ても、一たび顧る事なかりしが、さすが兄弟の愛忍びがたくやありけん、おぼえず落涙しければ、孝友詩を口づから占て、兄の孝孺に訣れける、其詩に、¶阿兄何必涙潛々、取義成仁在此間、華表柱頭千歲後、旅魂依舊到家山、いとあはれなりし事なり、百世の下までもきく人袂をしぼるべし、されど殉難の諸臣は、世に赫着する事にて侍れば、今更申にも及ばず、こゝに其列にはあらで、殉死よりもまさりて覺ゆるは、建文帝に從て出亡せし二十二人にて候、中にも翰林脩選程濟が貞節は古今比類なき事といふべし、それにつきて建文帝の始末を、各はくはしく考へ置給へるや、翁たゞ今は記憶うせて、たしかに覺しと思ふ事もおほくはたがひぬれば、只あらましを物語し侍るべし、太祖の時懿文太子薨じて、建文帝嫡孫をもて皇統を繼れしが、帝年わかく材弱くおはせしに、叔父の燕王雄才ありて、偏强難制見へし程に、百歲の後國家の變あらむ事を太祖かねて慮り給るにや、其時誠意伯劉基博學にて讖緯の事をも奏進せしと聞へしが、劉基などが所爲にもあるにや、ひとつの紅篋を密織して殘しおかれけり、
現代語訳
このとき、先の朝廷で文武に名を知られた者たちの多くが燕王を迎え入れましたが、この諸臣だけが国難に殉じたのは、まことに「歳寒くして松柏を知る」と言うべきことです。孝孺の弟の孝友が殺されるのを孝孺が見て、それまでは九族や門人が殺され、屍が前に積まれるのを見ても一度もふり返らなかったのに、さすがに兄弟の情は耐えがたかったのか、思わず涙を落としました。すると孝友は自ら詩を口ずさんで、兄の孝孺に別れを告げました。その詩にいうには、「兄上よ、なにもひそかに涙を流すことはありません。義を取り仁を成すのは、まさにこの時です。墓の華表の柱の頭に千年の後も、旅の魂は昔のままに故郷の山へ帰るでしょう」と。まことにあわれなことで、百代の後までも聞く人は袂を絞るでしょう。しかし殉難の諸臣は世に広く知られていることですから、今さら申すまでもありません。ここで、その列ではなく、殉死よりもすぐれていると思われるのは、建文帝に従って都を出て行方をくらました二十二人です。中でも翰林修撰の程済の貞節は、古今に比べるもののないものと言うべきでしょう。それについて、建文帝の顛末を皆さんは詳しく考えておられますか。翁はいまは記憶が薄れ、確かだと思うことも多くは違っていますので、ただあらましを物語りましょう。太祖の時に懿文太子が亡くなり、建文帝が嫡孫として皇統を継ぎましたが、帝は年若く資質も弱くいらっしゃいました。叔父の燕王は雄才があり、強情で抑えがたく見えましたので、百年の後に国家の変事が起こることを太祖はあらかじめ案じられたのでしょうか。そのとき誠意伯の劉基は博学で、讖緯のことも奏上したと聞きますが、その劉基などのしわざでもあるのか、一つの紅い箱を密かに作って残しておかれました。
解説
この章句が説くこと
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『駿台雑話』歲寒知松柏(四)此三人は左右をはなれず、外の十九人は東西に聚散し、道路に往來して、衣食を給し、應援をなし、相與に壹心戮力て、始終一のごとし、京城陷りし時、成祖宮人に帝のあり所を詰問れしに、馬后の屍をさししめしければ、さては自から焚死しけるとて、其屍を煨爐の中よりとり出て、禮葬せられしが、其後世に建文帝いまだ死せずと沙汰しけるを聞て、ひそかに天下を搜してやまず、胡濙に命じて仙人張三丰を訪求めさせられしも、實は帝の蹤迹をたづねんがためと聞えし、よりて人に物色せられん事をおそれて、一所に留居するもかなはねは、君臣ともに影をかくし、迹をたちて、四方に漂泊す其後從亡の人皆うせはてて、兩比丘も相繼て身まかりければ、程濟一人ばかりのこりて、帝を奉護しけるが、或は屢々空にして出て糧を募り、或は侍病て出て藥を乞、その崎嶇艱難思ひやるべし、帝詩をよくす、名勝を遊歷して、多くは詩を賦して、懷舊の情をいへり、其中一首覺へ侍る、牢落西南四十秋、蕭々白髮已盈頭、乾坤有恨家何在、江漢無情水自流、長樂宮中雲氣散、朝元閣上雨聲收、新蒲細柳年々錄、野老呑聲哭未休、是を吟ずるに人をして千載の恨あらしむ、帝長命にて、成祖仁宗の兩朝を歷て、英宗正統五年に至て、奧西におはせしに、帝と同宿の僧ありしが、今において帝いでば、朝廷にあはれまれん事をはかりて、帝の詩を竊みて、自から建文帝と稱して出けれは、藩司其僧並に帝を械繫して、京師に送りしに、程濟徒跣してしたがひけり、
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『駿台雑話』歲寒知松柏(一)座中ひとり、宋の文天祥、謝枋得が事をいひて嘆美するに、又ひとり明の方孝孺が事をいひ出て、孝孺成祖に對して始終少しも屈せず、あくまで成祖を罵て口をさかれ、まのあたり赤族せらるゝを見て悔ざりし、古今義烈の士といふべしといふを、翁聞て、文山が衣帶にのこれる贊、疊山が却聘の書を見給へ、二子の心事明白なる事を知るべし、文山が元の搏羅と問答するを見るに、其氣象凛々として犯すべからず、しかも其從容たる事は、方孝孺等が忼慨して就死にもまさりて殊勝とぞ覺へ侍る、但文山は宋の亟相にて、もとより國と休戚を同うする身なり、疊山は宗の臣たりといへど、顯仕にも登らず國事に預る程の身にもあらねば、宋亡びて、元に仕へずして、隱れ居ても、さてやみなん、然るに八十歲におよべる老母ある故に、しばらくながらへてありしが、後に元人の聘を却けて、つひに食を絶て死しけり、其淸節文山と抗衡すべし、趙子昂留夢炎等之を以て、恬然として元に仕へしこそ、いかで羞惡の心を失ひけるにや、無恥の甚しきものなり、さて明朝靖難の亂に、殉國の諸臣、その勇壯義烈いづれも孝孺におとるべからず、古今義氣の集るところとや申べき、
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『駿台雑話』歲寒知松柏(三)大難に臨みて是を開けといふことにぞありける、然るに燕兵すでに大内に迫て京城守らず、今はかうよと見へし時、命じて大内に火をかけさせ、帝自から焚死するやうに物して、其紛れに程濟かの紅篋を打碎て見れば、度牒三張、三人の名にそへて、袈裟帽子剃刀の類まで内に備りてあり、又篋内に朱書して、應文は鬼門よりいで、其餘は水關の御溝よりいで、ゝ、薄暮に神樂觀に會すとあり、三人の名ひとりは應文、是は建文帝たるべし、ひとりは應能、是は揚應能應じ、ひとりは應賢、是は葉希賢應ず、程濟急に帝の髮を祝しければ、兩人も同じく髮をおろし、衣を易て袈裟を着しぬ、帝は殿中にありあひける士九人をしたがへて、丑寅の門よりいでけるに、神樂觀の道士王昇舟を艤して待うけつゝ、帝を導て觀に到りしが、程なく應能希賢を始として、すべて二十二人來會する時は、すでに薄暮になりにき、かの紅篋の識すこしもたがふ事なきはいとあやしといふべし、それより二十二人のもの、妻子をふり捨て、帝にしたがひいづくともなく出亡しけり、應能希賢は比丘となり、程濟は道人と號し、
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『駿台雑話』歲寒知松柏(五)御史鞫問の上に、其僧は詐罔をもて論死せし程に、帝はさてやむべかりしを、帝南歸の思ひあるによりて、自から其實を白狀せられければ、朝廷舊宮人に命じて探り求めしむるに、建文帝たること無疑に決定せしかば、詔ありて帝をむかへて西門にいれしむ、程濟これを聞て、今日始て臣が職を終ぬとて、終に迹をくらましてのがれさりぬ、その帝に從て出亡してより、こゝに至て三十九年の間、艱楚をなめて、始終つきまとひ、ふたゝび帝を宮中にいれし事、其貞節の堅さをいふに、古今いまだきかざるところなり、狐趙が文公にしたがひ、甯俞が成公に從ひしには、はるかにまさりぬべし、是をもていはゞ、一時殉難はやすく、程濟たることは難し、孔子のいはゆる其知には及ぶべく、其愚には及ぶべからずとは、是等の事を申べき、帝すでに宮中に入しかば、宮中の人老佛といひける、つひに壽をもて終られけるとぞ、これも古今にためしなくいとめづらしき事なり、
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『駿台雑話』士の節義(一)ある時の會に、古今節義の事に及びけるに、翁いひけるは、孔子季路冉有の二子を父と君とを弑するには不從と仰られて候、少し志あるさはの人の、君父を弑するに同意する事あるべきや、二子は孔門の高弟にあらずや、それにかく仰らるゝ事たゞ季氏が不臣をいましめ給ふといふばかりにはあらず、是はいはれある事にて候、たゞ今刀を取て君父を殺すものありて、我に同意せよといはむには、誰か從ひ申べきにて候、然るに時移り勢變じて、君父たる人を殺しても、其跡あらはれず、人もさしてとがめぬやうに成行時は、己が利害にひかれて、覺悟を失ふものにて候、揚雄は王莽が平帝を弑せしに仕へて、反て莽が功德を頌し、沈約は蕭衍をすゝめて、和帝を弑し、その謀臣となる、さては明の靖難の時にて見給へ、燕王は建文帝を殺せしかども、在朝の名臣蹇義、夏原吉、楊溥、楊榮を始とし、いづれも燕王を奉じて是に臣とし仕へざるはなし、其外歷代不學無識の徒は論ずるにたらず、是等は皆一代の文儒として、世に名をあらはす人ぞかし、是にてしるべし、季路冉有を弑父與君には不從との給ふは、二子大義においては、見る事明かにして、慥に覺悟のたがはぬ所を、聖人見屆給てかくの給ひけることを、實に容易の事とはいふべからず、我朝にても、源義朝が父爲義を殺すにて見給へ、其身も大惡としらぬにてはなけれども、君命はおもし、
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貞観政要・規諫太子宗周の徳を積むに在りて、乃ち契を執りて期に膺る。昌・発の貳と作るに頼りて、七百の鴻基を啓く。扶蘇の秦に副たるに逮(およ)びては、聞望に虧くる有るに非ず。長嫡の隆重を以て、偏師を亭障に監す。始めの禍は則ち金は寒を以て離れ、厥(そ)の妖は則ち火は炎上せず。既に樹置の道に違う、宗祀の遄(すみ)やかに喪ぶるを見る。伊(こ)れ漢氏の世を長くするは、固より明両の遞(かわ)るがわる作るなり。高は戚に惑いて趙を寵し、天下を以て謔(たわむれ)と為す。恵は皓を結びて良に因り、羽翼を寥廓に致す。景は鄧子に慚ずる有り、理の淫虐に従うを成す。終に患いを強呉に生じ、怒りを争博に発するに由る。徹は儲両に居り、時に猶お幼沖なり。衰年の絶議を防ぎ、亜夫の功を矜るを識る。故に能く祖業を恢弘し、三代の遺風を紹(つ)ぐ。拠りて博望を開くも、其の名未だ融(あき)らかならず。時命の奇舛(きせん)なるを哀しみ、讒賊に江充に遇う。兵を備えて以て乱を誅すと雖も、竟に義に背きて凶終す。宣の嗣は儒を好み、大猷行われ闡(ひら)かる。嗟(ああ)徳教に尤(とが)を被り、忠謇に言を発するを美とす。始め道を匡・韋に聞き、終に戻を恭・顕に穫(え)たり。太孫は芸を雑(まじ)う。定陶に異なりと雖も、馳道絶えず。抑(そもそ)も惟れ小善なり。猶お通人に重んぜられ、当に芳を前典に伝うべし。中興の上嗣、明・章は済済たり。倶に時政に達し、咸な経礼に通ず。至情を敬愛に極め、友于を兄弟に惇(あつ)くす。是を以て東海の遺堂を固くし、西周の継体に因る。五官は魏に在り、徳音を聞くこと無し。或いは譏りを妲己に受け、且つ自ら禽に従うを悦ぶ。才高く学富むと雖も、竟に累を荒淫に取る。厥(そ)れを明皇に貽(のこ)すに暨(およ)び、崇基を三世に構う。秦帝の奢侈を得、漢武の才芸に亜(つ)ぐ。遂に群臣を駆役し、亦た凋弊を救う無し。中撫は寛愛、相表に奇多し。桃符を重んじて惑いを致し、巨鹿の明規を納る。竟に能く江表の氛穢を掃い、要荒を挙げて羈を見(あら)わす。恵は東朝に処る。其の遺蹟を察するに、聖徳其れ初めの如きに在り、実に御床の惜しむべきなり。愍懐の廃せらるるを悼み、烈風の沙を吹くに遇う。性霊の芸に狎るるを尽くし、亦た自ら凶邪に敗る。安くんぞ能く其の粢盛を奉じ、此の邦家を承けんや。
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