駿台雑話 / 忠厚のこゝろ二
又衆中にて嘲て、麈糟陂裏の叔孫通などといひしが、伊川遂に東坡が是非を一言の給ひし事をきかず、是にて知べし、洛蜀の二黨いづれか正なるいづれか邪なる、いはずして明かなり、又邢恕初は伊川に從ひて學びしが、後に小人に黨し、伊川を讒して陪陵に謫せしむ、門人聞て伊川に告しに、伊川の給ひけるは、故人かねて情厚し、われ少しも疑ふの心なしとて、いささか不平の辭色なかりし、是等の事誠に吾徒の師法とすべし、忠臣去國不潔其名といふも、忠厚の事なり、是は人臣たるもの、君と義絕て其國をさらんに、あながちに君の非をいふにもあらねど、己があやまらぬ事をいふて一分の上を潔うせんとすれば君のあしきになるゆへ、わが名をにごらし自からわがあしきやうにしておるとなり、是忠臣の心なり、翁加賀にありし時、ひとりの老人あり、其父太陽寺左平次といひし者、長湫の戰に池田勝久の手にて戰功あり、其後天下泰平になりて、大坂籠城の輩をさへ、御仁政にて諸候の國につかふる事を御ゆるしありし程に、戰功ありし士ども、己が手にあひし事をいひたてゝ仕へをもとめしに、左平次一生己が長湫にての戰功をいはず、さて親しきものに、大將の敗亡したるに、其手に屬したるもの、己が戰功をいふべきにあらずといひしと語りし、己が戰功をいへば、惣勢の敗軍をば大將の越度にし、一分のいひわけしてのくにて侍る、左平治そこをおもふにこそ、古人忠厚の餘味あり、いとやさしき事なり、其戰功をいふははるかに劣り侍りぬべし、
新字:又衆中にて嘲て、麈糟陂裏の叔孫通などといひしが、伊川遂に東坡が是非を一言の給ひし事をきかず、是にて知べし、洛蜀の二党いづれか正なるいづれか邪なる、いはずして明かなり、又邢恕初は伊川に従ひて学びしが、後に小人に党し、伊川を讒して陪陵に謫せしむ、門人聞て伊川に告しに、伊川の給ひけるは、故人かねて情厚し、われ少しも疑ふの心なしとて、いささか不平の辞色なかりし、是等の事誠に吾徒の師法とすべし、忠臣去国不潔其名といふも、忠厚の事なり、是は人臣たるもの、君と義絶て其国をさらんに、あながちに君の非をいふにもあらねど、己があやまらぬ事をいふて一分の上を潔うせんとすれば君のあしきになるゆへ、わが名をにごらし自からわがあしきやうにしておるとなり、是忠臣の心なり、翁加賀にありし時、ひとりの老人あり、其父太陽寺左平次といひし者、長湫の戦に池田勝久の手にて戦功あり、其後天下泰平になりて、大坂籠城の輩をさへ、御仁政にて諸候の国につかふる事を御ゆるしありし程に、戦功ありし士ども、己が手にあひし事をいひたてゝ仕へをもとめしに、左平次一生己が長湫にての戦功をいはず、さて親しきものに、大将の敗亡したるに、其手に属したるもの、己が戦功をいふべきにあらずといひしと語りし、己が戦功をいへば、惣勢の敗軍をば大将の越度にし、一分のいひわけしてのくにて侍る、左平治そこをおもふにこそ、古人忠厚の余味あり、いとやさしき事なり、其戦功をいふははるかに劣り侍りぬべし、
書き下し
又衆中にて嘲て、麈糟陂裏の叔孫通などといひしが、伊川遂に東坡が是非を一言の給ひし事をきかず、是にて知べし、洛蜀の二黨いづれか正なるいづれか邪なる、いはずして明かなり、又邢恕初は伊川に從ひて學びしが、後に小人に黨し、伊川を讒して陪陵に謫せしむ、門人聞て伊川に告しに、伊川の給ひけるは、故人かねて情厚し、われ少しも疑ふの心なしとて、いささか不平の辭色なかりし、是等の事誠に吾徒の師法とすべし、忠臣去國不潔其名といふも、忠厚の事なり、是は人臣たるもの、君と義絕て其國をさらんに、あながちに君の非をいふにもあらねど、己があやまらぬ事をいふて一分の上を潔うせんとすれば君のあしきになるゆへ、わが名をにごらし自からわがあしきやうにしておるとなり、是忠臣の心なり、翁加賀にありし時、ひとりの老人あり、其父太陽寺左平次といひし者、長湫の戰に池田勝久の手にて戰功あり、其後天下泰平になりて、大坂籠城の輩をさへ、御仁政にて諸候の國につかふる事を御ゆるしありし程に、戰功ありし士ども、己が手にあひし事をいひたてゝ仕へをもとめしに、左平次一生己が長湫にての戰功をいはず、さて親しきものに、大將の敗亡したるに、其手に屬したるもの、己が戰功をいふべきにあらずといひしと語りし、己が戰功をいへば、惣勢の敗軍をば大將の越度にし、一分のいひわけしてのくにて侍る、左平治そこをおもふにこそ、古人忠厚の餘味あり、いとやさしき事なり、其戰功をいふははるかに劣り侍りぬべし、
現代語訳
また人々の前であざけって、「麈糟陂のなかの叔孫通」などとも言いました。それでも伊川は、ついに東坡の是非について一言もおっしゃったとは聞きません。これで知れます。洛と蜀の二つの党のどちらが正でどちらが邪かは、言わなくても明らかです。また邢恕は、初め伊川に従って学びましたが、のちに小人の党に与し、伊川を讒言して陪陵という地に左遷させました。門人がそれを聞いて伊川に告げたところ、伊川は「この人は古い知り合いで、もともと情の厚い人だ。私は少しも疑う心はない」とおっしゃり、いささかも不平の言葉や顔色がありませんでした。これらはまことに、私たちの師法とすべきことです。「忠臣は国を去っても其の名を潔くしない」というのも、忠厚のことです。これは、臣下が君と義を絶って国を去るときに、むやみに君の非を言うわけではありませんが、自分は誤っていないと言って我が身を潔白にしようとすれば、君の悪になってしまうので、自分の名を濁らせ、自分が悪いようにしておくという意味です。これが忠臣の心です。私が加賀にいたとき、一人の老人がいました。その父は太陽寺左平次といい、長湫の戦で池田勝久の手に属して戦功がありました。その後、天下が泰平になって、大坂籠城の者たちでさえ、ご仁政によって諸侯の国に仕えることを許されたので、戦功のあった武士たちは、自分の手で遭った事を言い立てて仕官を求めました。しかし左平次は一生、自分の長湫での戦功を言わず、親しい者には「大将が敗れ亡んだのだから、その手に属した者が、自分の戦功を言うべきではない」と言ったと、その老人は語りました。自分の戦功を言えば、全軍の敗北を大将の落ち度にして、自分ひとりの言い訳をしてのけることになります。左平次はそこを思ったのでしょう。古人の忠厚の余味があり、まことに優しいことです。その戦功を言う者は、はるかに劣ると言わなければなりません。
解説
この章句が説くこと
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『駿台雑話』忠厚のこゝろ(一)されば士は第一忠厚の心を、本とすべし、その人となり輕薄にしては材美ありといへどもみるにたらず、それにつきて翁日ごろ樂毅が傳をよみておもへらく、毅は戰國の士にあらず、學問ありて道のあらましをきくの人なり、しかるに後世毅が將略あるをしりて、學問あるをしらず、樂毅燕の昭王に仕へ、上將として齊を伐て、七十餘城を下せしは、非常の大功なり、不幸にして師いまだ凱旋せざりし先に昭王薨じ、惠王齊の反間を信じて、將をかへ兵權を奪ひしかば、毅みづから垂成の大功をすてゝ、すみやかに燕をさる、見機而作不俟終日といふにちかし、其後身を趙によせし時、趙王燕を伐む事を毅に謀りけるに、固辭して其謀に預からず、誠に忠臣の法とすべし、その惠王に報ずる書をみるに忠厚の心言外に藹然たり、戰國反復の世には、空谷の足音と申侍るべし、その書中に君子交絶不出惡聲忠臣去國不潔其名といへるは、三代の遺言なるべし、もし學問なくしては、誰か其言の旨き事をしらむ、今其意を解侍るべし、交絶不出惡聲とは、たとへば人と交通して、其人の惡事をいはぬは、もとよりの事なり、其人と中たがひては、己が是をいはんとて其人の非をいふべきに、交絶て後に其人のあしき事を一向に言に出さぬは、君子の忠厚人に負かざるの心なり、翁其意を詠じ侍るとて、ならはじな、兒の手がしはの、ふたおもて、身は葛の葉の、うらみありとも、今更翁づれが申もおろかなれども、伊川先生に感服する事あり、蘇東坡伊川をそねみ惡みて、哲宗に上る奏狀に、程頤が姦と稱し、
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『駿台雑話』大敵外になし(三)かくあらねば其事輕し、その事輕ければ其信深からず、其信深からねば、其人の益に成がたし、亦誠意懇到を見るべし、掃部頭學術のありし沙汰もきかねども、おのづから聖賢の敎に叶へるこそ極めて殊勝の事といふべし、我朝武家の代になりて五百年以來、世に是等の人あり是等の事あるをきかず、しかしながら祖宗德澤仁厚なるが所致なり、これによりて謹て考るに、御當家天下をしろしめして、仁政四海に廣被せしより、歷代殘殺の風變じて、太平禮義の俗となりしが、寬永明曆の間に至て、在廷の諸公運に應じて出て、承化輔治しかば、其澤日に隆洽なりしぞかし、今其人がらを聞に、いづれも篤實簡單寬厚の長者也、其政を謀るには虛文を抑へ事實をつとめ、人を取には材辨を退け實行をすゝむ、近世智巧を尚ぶの風より見れば、其拙きに似たれども、凡百の有司いづれも廉靜寡欲なりしかば、各守身恭職して、時勢に阿らず、身計をなさゞりき、是によりて庶政あがり、百事熙まり、たゞ此時を別して盛なりとす、勿論時運のしからしむるといひながら其いはれなきにあらず、然るに篤實の士は謹厚にして用にうとく、材智の士は、敏捷にして事にさとし、
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『駿台雑話』歲寒知松柏(一)座中ひとり、宋の文天祥、謝枋得が事をいひて嘆美するに、又ひとり明の方孝孺が事をいひ出て、孝孺成祖に對して始終少しも屈せず、あくまで成祖を罵て口をさかれ、まのあたり赤族せらるゝを見て悔ざりし、古今義烈の士といふべしといふを、翁聞て、文山が衣帶にのこれる贊、疊山が却聘の書を見給へ、二子の心事明白なる事を知るべし、文山が元の搏羅と問答するを見るに、其氣象凛々として犯すべからず、しかも其從容たる事は、方孝孺等が忼慨して就死にもまさりて殊勝とぞ覺へ侍る、但文山は宋の亟相にて、もとより國と休戚を同うする身なり、疊山は宗の臣たりといへど、顯仕にも登らず國事に預る程の身にもあらねば、宋亡びて、元に仕へずして、隱れ居ても、さてやみなん、然るに八十歲におよべる老母ある故に、しばらくながらへてありしが、後に元人の聘を却けて、つひに食を絶て死しけり、其淸節文山と抗衡すべし、趙子昂留夢炎等之を以て、恬然として元に仕へしこそ、いかで羞惡の心を失ひけるにや、無恥の甚しきものなり、さて明朝靖難の亂に、殉國の諸臣、その勇壯義烈いづれも孝孺におとるべからず、古今義氣の集るところとや申べき、
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『駿台雑話』大敵外になし(四)この故に古今人材をもちゆるに、多くは德行をすてゝ材智の士を取ぞかし、さし當りよく職を辨し、しば〱進効をたつる程に敏速の功ありと見ゆれども、事おほくは僉議がちにて、事實常に隱れ、下情常に塞りぬれば、政弊民瘼も是より起るぞかし、是によりていふに、兵に限らず治世の政も拙速をよしとして巧遲を得たりとせず、むかし諸葛武侯の蜀につかふる、出將入相として內外の任を兼しが、高世の材をもて自から用ずして、つとめて衆思の益をあつめ、僚佐の諫を求む、自から至拙の地に處るといふべし、然るに其魏をうつ毎戰必勝しかば、司馬懿畏るゝこと虎のごとし、其益州を討ずる七縱七禽にせしかば、孟穫心服して天威とす、その神速なる事想ひ見るべし、其後出師表にいへらずや、劉繇王朗各據州郡、論安言計、動引聖人、群疑滿腹、衆難塞胸、今歲不戰、明年不征、使孫策坐大遂并江東、これ巧遲の害を論ずる事明白なり、但武侯の廣量規模、もとより孫武が及ぶ所にあらず、今其意によりて、孫武が拙速巧久の語、最軍國の龜鑑として、武侯といへどもかふる事あたはざるをしるべし、孫武も亦人傑なるかな、
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葉隠・聞書第一主人に諫言(かんげん)をするに色々あるべし。志(こころざし)の諫言は、脇(わき)に知れぬ様にするなり。御気(おんき)にさからわぬ様にして御癖(おんくせ)を直し申すものなり。細川頼之(ほそかわよりゆき)が忠義などなり。昔、御道中にて、御年寄(おとしより)何某(なにがし)承り、「某(それがし)、一命を捨てて申し上ぐべく候。段々御延引(ごえんいん)の上に脇寄(わきよ)りなど遊ばされ候節(せつ)、以ての外(ほか)然(しか)るべからず候。」と、諸人(しょにん)に向かい、「御暇乞(おいとまごい)仕り候。」と詞(ことば)を渡し、行水(ぎょうずい)、白帷子(しろかたびら)下着(したぎ)にて御前(ごぜん)へ罷出(まかりい)でられ、追付(おっつけ)退出、また諸人に向かい、「拙者(せっしゃ)申し上げ候儀、聞召(きこしめ)し分けられ本望至極(ほんもうしごく)、皆様へ一度御目に懸(かか)り候儀、不思議の仕合(しあわ)せ。」など広言(こうげん)申され候。これ皆、主人の非を顕(あらわ)し、我が忠を揚げ、威勢(いせい)を立つる仕事なり。多分、他国者(たこくもの)にこれあるなり。
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