駿台雑話 / 歲寒知松柏三
大難に臨みて是を開けといふことにぞありける、然るに燕兵すでに大内に迫て京城守らず、今はかうよと見へし時、命じて大内に火をかけさせ、帝自から焚死するやうに物して、其紛れに程濟かの紅篋を打碎て見れば、度牒三張、三人の名にそへて、袈裟帽子剃刀の類まで内に備りてあり、又篋内に朱書して、應文は鬼門よりいで、其餘は水關の御溝よりいで、ゝ、薄暮に神樂觀に會すとあり、三人の名ひとりは應文、是は建文帝たるべし、ひとりは應能、是は揚應能應じ、ひとりは應賢、是は葉希賢應ず、程濟急に帝の髮を祝しければ、兩人も同じく髮をおろし、衣を易て袈裟を着しぬ、帝は殿中にありあひける士九人をしたがへて、丑寅の門よりいでけるに、神樂觀の道士王昇舟を艤して待うけつゝ、帝を導て觀に到りしが、程なく應能希賢を始として、すべて二十二人來會する時は、すでに薄暮になりにき、かの紅篋の識すこしもたがふ事なきはいとあやしといふべし、それより二十二人のもの、妻子をふり捨て、帝にしたがひいづくともなく出亡しけり、應能希賢は比丘となり、程濟は道人と號し、
新字:大難に臨みて是を開けといふことにぞありける、然るに燕兵すでに大内に迫て京城守らず、今はかうよと見へし時、命じて大内に火をかけさせ、帝自から焚死するやうに物して、其紛れに程済かの紅篋を打砕て見れば、度牒三張、三人の名にそへて、袈裟帽子剃刀の類まで内に備りてあり、又篋内に朱書して、応文は鬼門よりいで、其余は水関の御溝よりいで、ゝ、薄暮に神楽観に会すとあり、三人の名ひとりは応文、是は建文帝たるべし、ひとりは応能、是は揚応能応じ、ひとりは応賢、是は葉希賢応ず、程済急に帝の髪を祝しければ、両人も同じく髪をおろし、衣を易て袈裟を着しぬ、帝は殿中にありあひける士九人をしたがへて、丑寅の門よりいでけるに、神楽観の道士王昇舟を艤して待うけつゝ、帝を導て観に到りしが、程なく応能希賢を始として、すべて二十二人来会する時は、すでに薄暮になりにき、かの紅篋の識すこしもたがふ事なきはいとあやしといふべし、それより二十二人のもの、妻子をふり捨て、帝にしたがひいづくともなく出亡しけり、応能希賢は比丘となり、程済は道人と号し、
書き下し
大難に臨みて是を開けといふことにぞありける、然るに燕兵すでに大内に迫て京城守らず、今はかうよと見へし時、命じて大内に火をかけさせ、帝自から焚死するやうに物して、其紛れに程濟かの紅篋を打碎て見れば、度牒三張、三人の名にそへて、袈裟帽子剃刀の類まで内に備りてあり、又篋内に朱書して、應文は鬼門よりいで、其餘は水關の御溝よりいで、ゝ、薄暮に神樂觀に會すとあり、三人の名ひとりは應文、是は建文帝たるべし、ひとりは應能、是は揚應能應じ、ひとりは應賢、是は葉希賢應ず、程濟急に帝の髮を祝しければ、兩人も同じく髮をおろし、衣を易て袈裟を着しぬ、帝は殿中にありあひける士九人をしたがへて、丑寅の門よりいでけるに、神樂觀の道士王昇舟を艤して待うけつゝ、帝を導て觀に到りしが、程なく應能希賢を始として、すべて二十二人來會する時は、すでに薄暮になりにき、かの紅篋の識すこしもたがふ事なきはいとあやしといふべし、それより二十二人のもの、妻子をふり捨て、帝にしたがひいづくともなく出亡しけり、應能希賢は比丘となり、程濟は道人と號し、
現代語訳
「大難にのぞんだ時にこれを開けよ」ということでした。やがて燕の兵がすでに宮中に迫り、京城も守りきれず、もはやこれまでと見えた時、帝は命じて宮中に火をかけさせ、自ら焼け死んだように装いました。その紛れに程済がかの紅い箱を打ち砕いて見ると、度牒三通が三人の名に添えて入っており、袈裟・帽子・剃刀の類まで中に備わっていました。また箱の内に朱書きがあり、応文は鬼門から出、その他の者は水関の御溝から出て、夕暮れに神楽観で落ち合え、とありました。三人の名のうち一人は応文で、これは建文帝にあたります。一人は応能で、これには楊応能が応じ、一人は応賢で、これには葉希賢が応じました。程済が急いで帝の髪を剃ると、両人も同じく髪をおろし、衣を替えて袈裟を着ました。帝は殿中にいあわせた士九人を従えて、丑寅の門から出ましたが、神楽観の道士の王昇が舟を用意して待ち受けており、帝を導いて観に着きました。ほどなく応能・希賢をはじめ、すべてで二十二人が集まった時は、すでに夕暮れになっていました。あの紅い箱の指示が少しも違わなかったのは、まことに不思議なことと言うべきです。それから二十二人の者は、妻子を振り捨てて帝に従い、どこへともなく都を出て行方をくらましました。応能・希賢は比丘となり、程済は道人と号し、
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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言志四録・言志後録 第百八十一条 凶歉に予め備ふ五穀の豊歉も、亦大抵数有り。三十年前後に必ず小饑荒有り、六十年前後に必ず大凶歉有り。較遅速有りと雖も、竟に免るる能はず。之が為に予め備へざるべけんや。(癸巳春季筆す)
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『墨子』七患故に食に備粟無ければ、以て凶饑を待つ可からず。庫に備兵無ければ、義有りと雖も、無義を征する能わず。城郭、備え全からざれば、以て自ら守る可からず。心に備慮無ければ、以て卒に應ずる可からず。是の故に慶忌は之を去るの心無くんば、輕々しく出づる能わず。夫れ桀に湯を待つの備無し、故に放たる。紂に武王を待つの備無し、故に殺さる。桀紂は貴きこと天子と為り、富は天下を有つ。然れども皆な百里の君に滅亡せらるるは、何ぞや。富貴有りて備えを為さざればなり。故に備えなる者は、國の重んずる所なり。
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『文武訓』武訓下一天下太平なれども、武をわするればあやふし。故に治世にも乱を忘れず、武事をまなぶべし。無事なる時武をならはば、後悔なかるべし。遠き慮なければ、必ず近きうれへあり。乱にのぞみて兵をならふは、渇にのぞんで井を掘るがごとし。
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『春秋左氏伝』成公九年 備へ無きかな冬十一月、楚の子重陳より莒を伐ち、渠丘を圍む。渠丘城惡し。眾潰えて、莒に奔る。戊申、楚渠丘に入る。莒人楚の公子平を囚ふ。楚人曰く、「殺す勿かれ。吾而の俘を歸さん」と。莒人之を殺す。楚の師莒を圍む。莒の城も亦た惡し。庚申、莒潰ゆ。楚遂に鄆に入る。莒備へ無きが故なり。君子曰く、「陋を恃みて備へざるは、罪の大なる者なり。不虞に備豫するは、善の大なる者なり。莒其の陋を恃みて、城郭を脩めず。浹辰の間にして、楚其の三都に克つ。備へ無きかな。詩に曰く、『絲麻有りと雖も、菅蒯を棄つる無かれ。姬姜有りと雖も、蕉萃を棄つる無かれ。凡百の君子、匱しきに代はらざる莫し』と。備への以て已むべからざるを言ふなり」と。秦人・白狄晉を伐つ。諸侯貳するが故なり。鄭人許を圍む。晉に君を急がざるを示すなり。是れ則ち公孫申之を謀りて曰く、「我師を出だして以て許を圍み、將に君を改め立てんとする者の為にして、而して晉の使を紓べば、晉必ず君を歸さん」と。中城に城く。時を書するなり。十二月、楚子公子辰をして晉に如かしむ。鍾儀の使に報い、好を修め成を結ばんことを請ふ。
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『春秋左氏伝』昭公十八年 小国、守りを忘るれば危うし七月、鄭の子產火の故の為に、大いに社を為(つく)り、四方に祓禳して、火災を振除す。禮なり。乃ち兵を簡(えら)びて大いに蒐す。將に蒐の為に除(はら)はんとす。子大叔の廟は道の南に在り、其の寢は道の北に在り。其の庭小なり。期を過ぐること三日なり。除徒をして道の南、廟の北に陳せしめて曰く、「子產女(なんぢ)を過ぎて、速やかに除けと命ぜば、乃ち而(なんぢ)が鄉(む)かふ所に毀て」と。子產朝す。過ぎて之を怒る。除く者南に毀つ。子產衝に及び、從者をして之を止めしめて曰く、「北方を毀て」と。火の作るや、子產兵を授けて陴に登らしむ。子大叔曰く、「晉乃ち討ずること無からんや」と。子產曰く、「吾之を聞く、小國守を忘るれば則ち危うし、と。況んや災有るをや。國の小とす可からざるは、備へ有るが故なり」と。既にして晉の邊吏鄭を讓(せ)めて曰く、「鄭國災有り。晉君・大夫敢へて寧居せず、卜筮走望して、牲玉を愛しまず。鄭の災有るは、寡君の憂ひなり。今執事撊然として兵を授けて陴に登らしむ。將に誰を以て罪せんとする」と。
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説苑・建本豊牆磽下は未だ必ずしも崩れざるも、流行潦至れば、壊るること必ず先んず。樹の本浅く、根垓深からざるは、未だ必ずしも橛れざるも、飄風起こり暴雨至れば、抜けること必ず先んず。君子是の国に居りて、仁義を崇めず賢臣を尊ばざるも、未だ必ずしも亡びざるも、然れども一旦非常の変有らば、車馳せ人走り、指して禍至れば、乃ち始めて喉を干し唇を燋がし、天を仰ぎて歎じ、庶幾わくは天其れ之を救わんと、亦難からずや。孔子曰わく、「其の前を慎まずして其の後を悔ゆれば、悔ゆると雖も及ぶ無し」と。詩に曰わく、「其れ啜りて泣く、何ぞ嗟くも及ばん」と。本を先に正さずして末に憂いを成すを言うなり。
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