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駿台雑話 / 士の節義三

保元平治よりこのかた天下亂れて、武威さかりに、王位かろくなりぬ、いまだ太平の世にかへらざるは、名行のやぶれぞかしとぞ、此時代是程正しき議論あるをきかず、さすが親房、南朝の耆老とて、此見識ある程に此議論もあるぞかし、ちかきころ明智光秀が、織田信長を弑せんとて、丹波路より引返す時、塗中にて旗下の將士へ隱謀の企あることを始ていひきかせ、さて一黨同心せんといふ一紙の誓文を出しけるに、軍士たがひに驚き視て、とかうの事に及ばざりしに、齋藤内藏介申けるは、此御企千にひとつも御利運あるべき事にて候はゞ、同意いたすまじく候得ども、御敗亡は見へたる事にて候、それに只今辭退いたし候はゞ命をおしみて其塲をはづし申にて候、それは士の義にあらずとて、一番に血判しければ、殘りの人々も一言に及ばず、みな同じけるとなり、孟子に非義之義大人弗爲といへり、内藏介が義は、大人のせざる所なり、此時光秀をつよく諫めてきかれず、光秀が手にかゝりて死なんは、中〱まさるべし、萬一光秀本望を達し、永く世にあらば、内藏介いきてをるべきや、いきてをらば前にいひたる事はいつはりなり、よしまた其時自殺するにもせよ、賊黨の名はのがれ得ず、世話にいはゆる犬死といふべし、畢竟義理の筋にくらき故に、小節に拘り、時勢に逼られて、つひに賊黨に陷り、極罪に處せられけるはなげかはしき事ならずや、

新字:保元平治よりこのかた天下乱れて、武威さかりに、王位かろくなりぬ、いまだ太平の世にかへらざるは、名行のやぶれぞかしとぞ、此時代是程正しき議論あるをきかず、さすが親房、南朝の耆老とて、此見識ある程に此議論もあるぞかし、ちかきころ明智光秀が、織田信長を弑せんとて、丹波路より引返す時、塗中にて旗下の将士へ隠謀の企あることを始ていひきかせ、さて一党同心せんといふ一紙の誓文を出しけるに、軍士たがひに驚き視て、とかうの事に及ばざりしに、斎藤内蔵介申けるは、此御企千にひとつも御利運あるべき事にて候はゞ、同意いたすまじく候得ども、御敗亡は見へたる事にて候、それに只今辞退いたし候はゞ命をおしみて其塲をはづし申にて候、それは士の義にあらずとて、一番に血判しければ、残りの人々も一言に及ばず、みな同じけるとなり、孟子に非義之義大人弗為といへり、内蔵介が義は、大人のせざる所なり、此時光秀をつよく諫めてきかれず、光秀が手にかゝりて死なんは、中〱まさるべし、万一光秀本望を達し、永く世にあらば、内蔵介いきてをるべきや、いきてをらば前にいひたる事はいつはりなり、よしまた其時自殺するにもせよ、賊党の名はのがれ得ず、世話にいはゆる犬死といふべし、畢竟義理の筋にくらき故に、小節に拘り、時勢に逼られて、つひに賊党に陥り、極罪に処せられけるはなげかはしき事ならずや、

書き下し

保元平治よりこのかた天下亂れて、武威さかりに、王位かろくなりぬ、いまだ太平の世にかへらざるは、名行のやぶれぞかしとぞ、此時代是程正しき議論あるをきかず、さすが親房、南朝の耆老とて、此見識ある程に此議論もあるぞかし、ちかきころ明智光秀が、織田信長を弑せんとて、丹波路より引返す時、塗中にて旗下の將士へ隱謀の企あることを始ていひきかせ、さて一黨同心せんといふ一紙の誓文を出しけるに、軍士たがひに驚き視て、とかうの事に及ばざりしに、齋藤内藏介申けるは、此御企千にひとつも御利運あるべき事にて候はゞ、同意いたすまじく候得ども、御敗亡は見へたる事にて候、それに只今辭退いたし候はゞ命をおしみて其塲をはづし申にて候、それは士の義にあらずとて、一番に血判しければ、殘りの人々も一言に及ばず、みな同じけるとなり、孟子に非義之義大人弗爲といへり、内藏介が義は、大人のせざる所なり、此時光秀をつよく諫めてきかれず、光秀が手にかゝりて死なんは、中〱まさるべし、萬一光秀本望を達し、永く世にあらば、内藏介いきてをるべきや、いきてをらば前にいひたる事はいつはりなり、よしまた其時自殺するにもせよ、賊黨の名はのがれ得ず、世話にいはゆる犬死といふべし、畢竟義理の筋にくらき故に、小節に拘り、時勢に逼られて、つひに賊黨に陷り、極罪に處せられけるはなげかはしき事ならずや、

現代語訳

保元・平治以来、天下が乱れて武威が盛んになり、王位が軽くなりました。いまだに太平の世に返らないのは、名と行いが破れたためです、と正統記は結んでいます。この時代に、これほど正しい議論があるとは聞きません。さすがに親房は南朝の老臣であって、この見識があるからこそ、この議論もあるのです。近ごろ、明智光秀が織田信長を弑しようとして丹波路から引き返す途中、道すがら旗下の将士に、初めて隠れた企てがあることを言い聞かせ、一党が心を同じくしようという一紙の誓文を出したところ、軍士は互いに驚き見て、あれこれと言うことにも及びませんでした。そこで斎藤内蔵介が申すには、このご企てが千に一つでもご運のあることでしたら、同意いたしますまいが、ご敗亡は見えています。それをただいま辞退いたせば、命を惜しんでその場を外すことになります。それは士の義ではありません、と言って、一番に血判したので、残りの人々も一言もなく、みな同じくしたということです。孟子に「義にあらざる義は、大人は為さない」とあります。内蔵介の義は、大人のしないところです。このとき光秀を強く諫めて聞き入れられず、光秀の手にかかって死ぬほうが、なかなかまさっていたでしょう。万一、光秀が本望を達して、長く世にあったなら、内蔵介は生きていられたでしょうか。生きていたなら、前に言ったことは偽りです。よしまた、そのとき自殺するにしても、賊党の名は逃れることができず、世間で言う犬死というべきです。つまるところ、義理の筋に暗いために、小さな節に拘り、時勢に迫られて、ついに賊党に陥り、極刑に処せられたのは、嘆かわしいことではありませんか。

解説

保元平治以来の乱世を、名行の破れと見る正統記の結びを引き、翁はこの時代にこれほど正しい議論はないと称えます。続けて明智光秀の謀反の逸話が置かれます。斎藤内蔵介は、成功の見込みが薄いと見ながら、辞退すれば命を惜しむことになると一番に血判しました。翁は孟子の「非義之義大人弗為」を引き、これは小節に拘る誤りで、強く諫めて殺されるほうがまだよかったと評します。義理の筋に暗いと、状況に流されて悪に加担する。場の空気や仲間への義理で不正に同調してしまう現代の組織の人間にも、重く響く指摘です。反対を貫く難しさと、その価値を問う段です。

この章句が説くこと

斎藤内蔵介明智光秀犬死小節義理駿台雑話

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