駿台雑話 / 忠厚のこゝろ一
されば士は第一忠厚の心を、本とすべし、その人となり輕薄にしては材美ありといへどもみるにたらず、それにつきて翁日ごろ樂毅が傳をよみておもへらく、毅は戰國の士にあらず、學問ありて道のあらましをきくの人なり、しかるに後世毅が將略あるをしりて、學問あるをしらず、樂毅燕の昭王に仕へ、上將として齊を伐て、七十餘城を下せしは、非常の大功なり、不幸にして師いまだ凱旋せざりし先に昭王薨じ、惠王齊の反間を信じて、將をかへ兵權を奪ひしかば、毅みづから垂成の大功をすてゝ、すみやかに燕をさる、見機而作不俟終日といふにちかし、其後身を趙によせし時、趙王燕を伐む事を毅に謀りけるに、固辭して其謀に預からず、誠に忠臣の法とすべし、その惠王に報ずる書をみるに忠厚の心言外に藹然たり、戰國反復の世には、空谷の足音と申侍るべし、その書中に君子交絶不出惡聲忠臣去國不潔其名といへるは、三代の遺言なるべし、もし學問なくしては、誰か其言の旨き事をしらむ、今其意を解侍るべし、交絶不出惡聲とは、たとへば人と交通して、其人の惡事をいはぬは、もとよりの事なり、其人と中たがひては、己が是をいはんとて其人の非をいふべきに、交絶て後に其人のあしき事を一向に言に出さぬは、君子の忠厚人に負かざるの心なり、翁其意を詠じ侍るとて、ならはじな、兒の手がしはの、ふたおもて、身は葛の葉の、うらみありとも、今更翁づれが申もおろかなれども、伊川先生に感服する事あり、蘇東坡伊川をそねみ惡みて、哲宗に上る奏狀に、程頤が姦と稱し、
新字:されば士は第一忠厚の心を、本とすべし、その人となり軽薄にしては材美ありといへどもみるにたらず、それにつきて翁日ごろ楽毅が伝をよみておもへらく、毅は戦国の士にあらず、学問ありて道のあらましをきくの人なり、しかるに後世毅が将略あるをしりて、学問あるをしらず、楽毅燕の昭王に仕へ、上将として斉を伐て、七十余城を下せしは、非常の大功なり、不幸にして師いまだ凱旋せざりし先に昭王薨じ、恵王斉の反間を信じて、将をかへ兵権を奪ひしかば、毅みづから垂成の大功をすてゝ、すみやかに燕をさる、見機而作不俟終日といふにちかし、其後身を趙によせし時、趙王燕を伐む事を毅に謀りけるに、固辞して其謀に預からず、誠に忠臣の法とすべし、その恵王に報ずる書をみるに忠厚の心言外に藹然たり、戦国反復の世には、空谷の足音と申侍るべし、その書中に君子交絶不出悪声忠臣去国不潔其名といへるは、三代の遺言なるべし、もし学問なくしては、誰か其言の旨き事をしらむ、今其意を解侍るべし、交絶不出悪声とは、たとへば人と交通して、其人の悪事をいはぬは、もとよりの事なり、其人と中たがひては、己が是をいはんとて其人の非をいふべきに、交絶て後に其人のあしき事を一向に言に出さぬは、君子の忠厚人に負かざるの心なり、翁其意を詠じ侍るとて、ならはじな、児の手がしはの、ふたおもて、身は葛の葉の、うらみありとも、今更翁づれが申もおろかなれども、伊川先生に感服する事あり、蘇東坡伊川をそねみ悪みて、哲宗に上る奏状に、程頤が姦と称し、
書き下し
されば士は第一忠厚の心を、本とすべし、その人となり輕薄にしては材美ありといへどもみるにたらず、それにつきて翁日ごろ樂毅が傳をよみておもへらく、毅は戰國の士にあらず、學問ありて道のあらましをきくの人なり、しかるに後世毅が將略あるをしりて、學問あるをしらず、樂毅燕の昭王に仕へ、上將として齊を伐て、七十餘城を下せしは、非常の大功なり、不幸にして師いまだ凱旋せざりし先に昭王薨じ、惠王齊の反間を信じて、將をかへ兵權を奪ひしかば、毅みづから垂成の大功をすてゝ、すみやかに燕をさる、見機而作不俟終日といふにちかし、其後身を趙によせし時、趙王燕を伐む事を毅に謀りけるに、固辭して其謀に預からず、誠に忠臣の法とすべし、その惠王に報ずる書をみるに忠厚の心言外に藹然たり、戰國反復の世には、空谷の足音と申侍るべし、その書中に君子交絶不出惡聲忠臣去國不潔其名といへるは、三代の遺言なるべし、もし學問なくしては、誰か其言の旨き事をしらむ、今其意を解侍るべし、交絶不出惡聲とは、たとへば人と交通して、其人の惡事をいはぬは、もとよりの事なり、其人と中たがひては、己が是をいはんとて其人の非をいふべきに、交絶て後に其人のあしき事を一向に言に出さぬは、君子の忠厚人に負かざるの心なり、翁其意を詠じ侍るとて、ならはじな、兒の手がしはの、ふたおもて、身は葛の葉の、うらみありとも、今更翁づれが申もおろかなれども、伊川先生に感服する事あり、蘇東坡伊川をそねみ惡みて、哲宗に上る奏狀に、程頤が姦と稱し、
現代語訳
さて、武士はなによりまず忠厚の心を根本とすべきです。人柄が軽薄であれば、才能が優れていても見るに足りません。それについて私は日ごろ楽毅の伝を読んで思うのですが、楽毅は戦国の武士という類の人ではなく、学問があり、道のあらましを聞いている人です。ところが後世の人は、楽毅に将略があることは知っていても、学問があることは知りません。楽毅は燕の昭王に仕え、上将として斉を討ち、七十余城を落としました。これは非常な大功です。不幸にも軍がまだ凱旋しないうちに昭王が亡くなり、恵王が斉の反間を信じて将を替え、兵権を奪ったので、楽毅は成就間近の大功を自ら捨てて、すみやかに燕を去りました。「機を見て動き、一日を待たない」という言葉に近い去り方です。その後、身を趙に寄せたとき、趙王が燕を討つことを楽毅に相談しましたが、固く辞してその謀には加わりませんでした。まことに忠臣の法とすべきです。恵王に報いた書を見ると、忠厚の心が言外にあふれています。戦国の反復常ならぬ世にあっては、人気ない谷に響く足音のように、まれなことと申せましょう。その書中の「君子は交わりを絶っても悪い声を出さず、忠臣は国を去っても自らの名を潔くしない」という言葉は、三代の遺言でしょう。学問がなくて、誰がこの言葉の旨さを知るでしょうか。今その意味を解いてみます。「交わり絶ゆとも悪声を出さず」とは、たとえば人と交際していて、その人の悪事を言わないのはもとより当然のことです。その人と仲たがいしたときは、自分の正しさを言おうとしてその人の非を言いたくなるものですが、交わりが絶えた後も、その人の悪いことを一向に口に出さないのが、君子の忠厚が人に負けない心です。私がその意を詠んだものとして、「習うまいよ、児手柏の二面のようなふるまいは、身は葛の葉のように裏を見せ、恨みがあろうとも」という歌があります。いまさら私のような者が申すのも愚かなことですが、伊川先生には感服することがあります。蘇東坡が伊川を妬み憎んで、哲宗に奉った奏状に、程頤を姦人と称し、(この段はここで切れ、次の段に続きます。)
解説
この章句が説くこと
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『益軒家訓』幼児須教一学問の大綱は、大学の経の文、朱子の学規を以て法則とす。必天地聖人の道に背きて、仏氏の教に従ふべからず。若仏氏に従ふ者あらば、父祖の遺訓に背き、不孝の罪に陥るのみならず、天地神明の道に背く。故に天地神明の罪人なるべし。天道は至公にして、其咎なしといへども、恐るべき事なり。但不仁は天の責を身にうけ、子孫に報ふ事影響の如し、畏るべき事の甚しきなり。
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言志四録・言志晩録 第二十五条 学の次第と本体学に次第有るは、猶ほ弓を執り箭を挟み、引満して発するがごとし。直ちに本体を指すは、猶ほ懸くるに正鵠を以てし、必中を期するがごとし。
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『講孟余話』附尾 讀保建大記一條跋。講孟劄記成る。因りて復た瀏覧すること一周、遂に名を講孟余話と改む。蓋し劄は鍼刺なり。凡そ其の記す所、精義を発し、文藻を摛ぶること、鍼の膚を刺して鮮血迸り出づるが如く、鍼の衣を刺して彩線絺繍するが如くにして、而る後以て称名と為すに足るのみ。而して余の此の著、豈に其れ然らんや。余の獄に在るや、囚徒胥ひ居り、其の已に家に帰るや、親戚盍簪す。時に乃ち孟子を把りて之れを講ず。其の訓詁を精しくするに非ず、其の文字を喜ぶに非ず、唯だ其の一憂一楽、一喜一怒、尽く諸を孟子に寓するのみ。故に其の喜楽に当りてや、孟子を講じて、復た益々喜楽し、其の憂怒に当りてや、孟子を講じて、復た益々憂怒す。憂怒の抑ふべからず、喜楽の歇むべからず、話に随ひ話に随ひ、稍積みて巻を成す者、即ち此の著なり。然らば則ち是れ特に講孟の余話のみ、何ぞ劄記と為すことを得んや。余已に囚徒親戚と、其の憂楽を同じくし、其の喜怒を共にす、亦已に足れり。而るに又之れを録して巻を成し以て世に問ふ、太だ贅ならずや。且つ此れを持して経学先生に問はんか、経学先生将に其の雑駁麁豪を罵らんとす。此れを持して文章博士に問はんか、文章博士将に其の鄙俚蕪陋を笑はんとす。然らば則ち当今の世、孰れか問ひ孰れか答へんや。噫、是れ吾が余話の録に已む能はざる所以なり。夫れ天下経学文章を以て教へと為す、蓋し亦久しいかな。経学益々明らかに、文章益々美にして、国威日に細く、外夷日に熾んなり。斯の道の道たる所以の者は、果して何くにか在る。則ち天下吾と憂楽を同じくし喜怒を共にする者、亦何ぞ独り一二の囚徒親戚のみならんや。而るに余屏居して世を謝す、世其の人有りと雖も、相従ひて晤言するに由なし。則ち余話の録、吾益々已む能はざるなり。噫、天下の士、其れ何を以て之れを教へん。安政三年、歳丙辰に次る、季夏の日、二十一回猛士藤寅、諸を松陰の囚室に書す。此の編、業を去年六月十三日に起し、今年六月十三日に卒る。中間或は作り或は輟め、居処已に変じ、会する者又異なり、而して正に期月に当りて、方に乃ち編を成す、亦奇ならずや。寅重ねて書す。
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うひ山ぶみ・本文上ノ件ところどころ、圏の内に、かたかなをもてしるししたるは、いはゆる相じるしにて、その件リ々にいへることの、然る子細を、又奥に別にくはしく論ひさとしたるを、そこはこゝと、たづねとめて、しらしめん料のしるし也、世に物まなびのすぢしなじな有て云々、物学とは、皇朝の学問をいふ、そもそもむかしより、たゞ学問とのみいへば、漢学のことなる故に、その学と分むために、皇国の事の学をば、和学或は国学などいふならひなれども、そはいたくわろきいひざま也、みづからの国のことなれば、皇国の学をこそ、たゞ学問とはいひて、漢学をこそ、分て漢学といふべきことなれ、それももし漢学のこととまじへいひて、まぎるゝところにては、皇朝学などはいひもすべきを、うちまかせてつねに、和学国学などいふは、皇国を外にしたるいひやう也、もろこし朝鮮於蘭陀などの異国よりこそ、さやうにもいふべきことなれ、みづから吾国のことを、然いふべきよしなし、すべてもろこしは、外の国にて、かの国の事は、何事もみな外の国の事なれば、
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『学則』答屈景山書不佞其の是くの若きを懲り、凡そ師友の素有るに非ずして来たりて相問難する者に値ふ毎に、一切対を置かず。是れ不佞の常なり。不佞往歳蘐園随筆を作る。其の時、識見未だ定まらず、争心未だ消えず。然れども随筆の作は、自ら書して以て自ら翫び、聊か以て間を消すのみにして、初めより以て人に示すに非ざるなり。独り奈んせん、誤りて剞劂の手に堕ち、遂に諸を海内に公にす。海内の諸君子、因りて不佞を弁を好む者と謂ふ。不佞の心に非ざるなり。今来喩を観るに、亦た対を置かざるの例に在り。然りと雖も、足下既に争心無きを以て告げられ、而して君家の先生は乃ち不佞が髫年の時より私心に郷往する所なれば、則ち何ぞ必ずしも恝然たらんや。亦た唯人心の面の如き、不佞豈に能く諸を足下に喩さんや。但だ不佞の李王を取る所以の故を言ひて以て来意に酬いん。其の取舍の如きは、乃ち足下に在り。唯足下之を択べ。
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