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徂徠先生答問書 / 卷下

人の生付には氣質の偏御座候故、文德武德有之候。官職にも掌り別に候故文官武官有之候。物頭侍大將の類は武官にて候故武德ある人尤に候。家老職奉行抔は文官なれば文德なくて難叶候。平士の類は其職掌軍伍に編るゝ上卒にて、平生の時も侍衞宿衞の官にて候得ば、古の書に申候士君子と申類にては無之候。しかるに國郡の主家老職奉行抔の、己は武士なりと存候は取違へにて候。又平士の輩の少し學問もいたし候者の士君子也と覺え、上臈らしき身持をいたし、軍法の練習をすてゝ、武藝も私闘の術ばかりを習はすも、是又取違へにて候。聖人の道國の治めは、其國の風俗に從ひ候事に候得ば、武士の風儀は、源平より以前の風儀をば先其儘にして、戰國以來の惡習を除き、人の上たる人は武の本は仁なりといふ事を知りて、文德を專らにし、武士をば悉く土著せしめ、孝悌忠信の德をやしなひ、禮義廉恥の風俗をなし、時時は軍法を練習せしめて、公戰には勇に、私闘には臆なるやうにせん事は、上たる人の導きにて如何樣にも可成事に候。只理學といふものゝ世にはやりて、戰國の餘習の上に、理窟だけく候事をくはへ候は、薪を以て火を救ひ候にかはり無之候。以上。

新字:人の生付には気質の偏御座候故、文徳武徳有之候。官職にも掌り別に候故文官武官有之候。物頭侍大将の類は武官にて候故武徳ある人尤に候。家老職奉行抔は文官なれば文徳なくて難叶候。平士の類は其職掌軍伍に編るゝ上卒にて、平生の時も侍衛宿衛の官にて候得ば、古の書に申候士君子と申類にては無之候。しかるに国郡の主家老職奉行抔の、己は武士なりと存候は取違へにて候。又平士の輩の少し学問もいたし候者の士君子也と覚え、上臈らしき身持をいたし、軍法の練習をすてゝ、武芸も私闘の術ばかりを習はすも、是又取違へにて候。聖人の道国の治めは、其国の風俗に従ひ候事に候得ば、武士の風儀は、源平より以前の風儀をば先其儘にして、戦国以来の悪習を除き、人の上たる人は武の本は仁なりといふ事を知りて、文徳を専らにし、武士をば悉く土著せしめ、孝悌忠信の徳をやしなひ、礼義廉恥の風俗をなし、時時は軍法を練習せしめて、公戦には勇に、私闘には臆なるやうにせん事は、上たる人の導きにて如何様にも可成事に候。只理学といふものゝ世にはやりて、戦国の余習の上に、理窟だけく候事をくはへ候は、薪を以て火を救ひ候にかはり無之候。以上。

書き下し

人の生付には気質の偏御座候故、文徳武徳有之候。官職にも掌り別に候故文官武官有之候。物頭侍大将の類は武官にて候故武徳ある人尤に候。家老職奉行抔は文官なれば文徳なくて難叶候。平士の類は其職掌軍伍に編るゝ上卒にて、平生の時も侍衛宿衛の官にて候得ば、古の書に申候士君子と申類にては無之候。しかるに国郡の主家老職奉行抔の、己は武士なりと存候は取違へにて候。又平士の輩の少し学問もいたし候者の士君子也と覚え、上臈らしき身持をいたし、軍法の練習をすてゝ、武芸も私闘の術ばかりを習はすも、是又取違へにて候。聖人の道国の治めは、其国の風俗に従ひ候事に候得ば、武士の風儀は、源平より以前の風儀をば先其儘にして、戦国以来の悪習を除き、人の上たる人は武の本は仁なりといふ事を知りて、文徳を専らにし、武士をば悉く土著せしめ、孝悌忠信の徳をやしなひ、礼義廉恥の風俗をなし、時時は軍法を練習せしめて、公戦には勇に、私闘には臆なるやうにせん事は、上たる人の導きにて如何様にも可成事に候。只理学といふものゝ世にはやりて、戦国の余習の上に、理窟だけく候事をくはへ候は、薪を以て火を救ひ候にかはり無之候。以上。

現代語訳

人の生まれつきには気質の偏りがあるので、文徳・武徳の違いがあります。官職にもそれぞれ司る務めの違いがあるので、文官・武官があります。物頭や侍大将の類は武官ですから、武徳のある人がふさわしいのです。家老職や奉行などは文官ですから、文徳がなくては務まりません。平士の類は、その職掌は軍の隊伍に編入される兵卒で、平生も護衛や宿直の官ですから、昔の書に言う「士君子」の類ではありません。それなのに国郡の主や家老職・奉行などが、自分は武士だと思っているのは取り違えです。また平士の者で少し学問をした者が、自分は士君子だと思い込み、上品ぶった身の持ち方をして、軍法の練習を捨て、武芸も私闘の術ばかりを習わせるのも、これまた取り違えです。聖人の道による国の治めは、その国の風俗に従うものですから、武士の風儀は、源平以前の風儀はまずそのままにして戦国以来の悪習を除き、人の上に立つ人は武の本は仁であることを知って文徳を専らにし、武士をことごとく土着させ、孝悌忠信の徳を養い、礼義廉恥の風俗をつくり、時々は軍法を練習させて、公の戦には勇敢に、私闘には臆病であるようにすることは、上に立つ人の導きでどのようにもなることです。ただ理学というものが世に流行して、戦国の余習の上に理屈がましいことを加えるのは、薪で火を消そうとするのと変わりありません。以上。

解説

結びで徂徠は職分の区別を説く。家老や奉行は文官であって文徳が要り、平士は兵卒であって士君子ではない。それぞれが自分の役割を取り違えると、上は武威で押し、下は学問をかじって訓練を怠る。武士の土着や、公戦に勇・私闘に臆という提言には、徂徠の政策論が凝縮している。そして朱子学の理屈を戦国の悪習に重ねるのは薪で火を消すようなものだと結ぶ。経営者が現場の兵のように振る舞い、現場が評論家になる組織の病を、そのまま言い当てている。

この章句が説くこと

職分文官武官文徳風俗孝悌忠信

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