徂徠先生答問書 / 卷中
其內にも孝弟を專らと相見え候は、幼少なる人のいまだ親の家內に居候內は、君臣朋友の上はさしあたらぬ事故に候。孝弟の內に孝を第一といたし候は、兄弟なき人は候へども父母なき人は無之故に候。孝弟の敎は幼少なる人にも入やすく。是よりしては忠信五倫の道もをのづからに得候事故、先王の敎にも殊に專一に被成候事に候。扨是を中庸の德行と名付候事は、いかなる愚なる人も、又才智すぐれ候人も。たれにてもなり申候事にて、別に高妙なる儀にて無御座候故名付候事に候。
新字:其内にも孝弟を専らと相見え候は、幼少なる人のいまだ親の家内に居候内は、君臣朋友の上はさしあたらぬ事故に候。孝弟の内に孝を第一といたし候は、兄弟なき人は候へども父母なき人は無之故に候。孝弟の教は幼少なる人にも入やすく。是よりしては忠信五倫の道もをのづからに得候事故、先王の教にも殊に専一に被成候事に候。扨是を中庸の徳行と名付候事は、いかなる愚なる人も、又才智すぐれ候人も。たれにてもなり申候事にて、別に高妙なる儀にて無御座候故名付候事に候。
書き下し
其内にも孝弟を専らと相見え候は、幼少なる人のいまだ親の家内に居候内は、君臣朋友の上はさしあたらぬ事故に候。孝弟の内に孝を第一といたし候は、兄弟なき人は候へども父母なき人は無之故に候。孝弟の教は幼少なる人にも入やすく。是よりしては忠信五倫の道もをのづからに得候事故、先王の教にも殊に専一に被成候事に候。扨是を中庸の徳行と名付候事は、いかなる愚なる人も、又才智すぐれ候人も。たれにてもなり申候事にて、別に高妙なる儀にて無御座候故名付候事に候。
現代語訳
その中でも孝弟を専らにしているように見えるのは、幼い人がまだ親の家の内にいるうちは、君臣や朋友のことは差し当たらないからです。孝弟の中で孝を第一とするのは、兄弟のない人はいても、父母のない人はいないからです。孝弟の教えは幼い人にも入りやすく、ここから忠信や五倫の道も自然と得られるので、先王の教えでもことに専一になさったのです。さて、これを中庸の徳行と名づけたのは、どんなに愚かな人も、また才智の優れた人も、誰でもできることで、別に高く妙なことではございませんので、そう名づけたのです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『徂徠先生答問書』卷中一孝行の儀御尋に候。成程聖人の教には孝弟忠信を中庸の徳行と名付け、是を貴賤によらず人たる者の勤め行ふべき事といたし申候。君子の道も、是を土台にいたし不申候得ば、高きにのぼるに楷梯なきがごとくに御座候。舜の契を司徒の官になされ、五倫を教へしめ給ふも、孔子の民に中庸の徳なき事を御なげき被成候も同意にて御座候。孝は父母によくつかへ候事、弟は兄長によくつかへ候事、忠は君につかゆるにても、又たれにても、人のためになし候事をば我身の事のごとくに如在なく身にかけ申候事に候。信と申候は、朋友其外あまねくの人にまじはり申候には言語を慎み偽り違候事なきやうに致し候を申候。是にて父母兄弟君臣朋友の道こもり申候故、五倫と申候も、中庸と申候も、孝弟忠信と申候も、ひとつ事にて御座候。
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『翁問答』下卷之末之末体充曰、さやうに候はゞ、今時の物よみ坊主衆のかみをそりて出家のまねをめさるゝも、道理にかなひたる事にて候や。師の曰、俗儒の作法は無案内なれば、何とも了簡に及がたし、定て日本にての俗儒は、かみをそらではかなはぬ子細ありての事ならんか、真儒の道にて論ずれば、中庸の神理にだにかなひぬれば、かみをそりても苦しからず、泰伯は孝行の為に髪を断身を文にしたまひたり、しかるを孔子、泰伯は其れ至徳と謂ふべきのみと嘆美したまふかみをたち身を文にしたまふをほめたまふにあらず、
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『都鄙問答』卷之四・或人神詣ヲ問之段答ふ、親の心に適ふやうにせらるべし。曰く、親はなきゆへに、問ふこともならず、親の心、いかゞしてしるべきや。答ふ、都て親の心は、子の身の上能きことを願ふものなり。親の心は、子を思ふに致らざる所なし。然れば、身の汚れなき以前に、産神へ参らるべし。親存生の時に、汝在所へ往かば、先づ産神へ参るべしといはるゝに非ずや。然らば先づ社参して神を敬はゞ、是親の心に合ふといふものなり。父母の心に合ふほど、宜きことあらんや。范氏曰く、子能く父母の心を以て心と為せば則ち孝なり。中庸に、死に事ふること生に事ふるが如しといへり。今は父母なしといへども、此意味を得心して事へば、孝行と成るべきことなり。
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『翁問答』下卷之末之末全孝の心法をよく受用して得ことあれば、其心ひろく体胖に広大高明精微中庸の神道を服膺して、人の子となりては孝に止り、人の臣下となりては忠に止り、人の親となりては慈に止り、人の君となりては仁に止り、人の兄となりては恵に止り、人の弟となりて恭に止り、人の朋友となりては信に止り、富貴に素しては富貴を行ひ、貧賤に素しては貧賤をおこない、夷狄に素しては夷狄をおこなひ、患難に素しては患難をおこなひ、境遇に意必の累なきこと水のながるゝ如く、心の安く静なる事は山の定れるが如く暴君汚吏も志を奪ことあたはず天災地妖も殺ことあたはざるものなり、もしまた聖胎純熟の時至り、脱胎神化して神聖の位に至ときは、天地と其徳をあはせ、日月と其明をあはせ、四時と其序をあはせ、鬼神と其吉凶をあはせ、四表に光被し上下に格る、しかる故に南面の位にありては帝堯の君たるなり、北面の位にありては帝舜の臣たる也、位を得ずして下にありては玄聖素王の道なり、孔子曰、夫れ聖人の徳、又何を以てか孝に加へんや。
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『慎思録』巻之二荀子曰く、君子の行ひは苟難を貴ばず、唯だ其の当たるを之れ貴しと為す、と。愚謂ふ、苟難を貴ぶ者は、此れ名を好むの人なり。蓋し君子の行ひは、本分の外に、毫末をも加へず。若し夫れ股を割き墓に廬し、車を敝り馬を羸らすの類は、此れ皆本分の外に出づ。所謂苟難を貴ぶ者なり。
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『五常訓』巻之二・仁之上仁の性にしたがへば、五倫を愛する道自ら行はる。中庸に、性にしたがふを道と云ふ、是なり。仁は性なり。五倫を愛するは道なり。天地より生れつきたる仁の性にしたがひて、五倫の道を行ふが、天地につかへ奉る孝にて、人の道なり。是即仁なり。人の道とする所、さらに此外に有るべからず。次に禽獣草木を愛するも、亦仁の内の事なり。天地は万物の父母なれば、人倫を愛し、次に万物を愛するも、亦天地につかふる道なり。
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