徂徠先生答問書 / 卷中
一諫は大形は申さぬがよく御座候。しば〳〵すれば辱らるゝと申事御座候。其故は言語を以て人を喩さんとする事大形はならぬ事にて候。此方より申候程の儀は大形は先も合點なるものに候。只わが心よりさとるとさとらざるにて了簡は替る物にて候を、さとらぬ人を口上にて申すくめ候半はいやがり候も理に候。孔子も諷諫をよしと被成易にも納約自牖と御座候は、先のをのづからにひらけ候をよしと致候事に候。其事となしに外の事より申候へば得道まいる事も有物に候。其事の是非を爭ひ候へば、先の氣立て居候故相手立候て必爭になる物に候。爭にかち候はんは合戰に勝がごとくに候故、怒はやみ不申候。まして君に對しては聞入らるべきやう無御座候。若君より諫を御求め候はゞ各別の事に候。又兼てわれを深く信仰したまはんには諫も行はれ可申候。
新字:一諫は大形は申さぬがよく御座候。しば〳〵すれば辱らるゝと申事御座候。其故は言語を以て人を喩さんとする事大形はならぬ事にて候。此方より申候程の儀は大形は先も合点なるものに候。只わが心よりさとるとさとらざるにて了簡は替る物にて候を、さとらぬ人を口上にて申すくめ候半はいやがり候も理に候。孔子も諷諫をよしと被成易にも納約自牖と御座候は、先のをのづからにひらけ候をよしと致候事に候。其事となしに外の事より申候へば得道まいる事も有物に候。其事の是非を争ひ候へば、先の気立て居候故相手立候て必争になる物に候。争にかち候はんは合戦に勝がごとくに候故、怒はやみ不申候。まして君に対しては聞入らるべきやう無御座候。若君より諫を御求め候はゞ各別の事に候。又兼てわれを深く信仰したまはんには諫も行はれ可申候。
書き下し
一諫は大形は申さぬがよく御座候。しば〳〵すれば辱らるゝと申事御座候。其故は言語を以て人を喩さんとする事大形はならぬ事にて候。此方より申候程の儀は大形は先も合点なるものに候。只わが心よりさとるとさとらざるにて了簡は替る物にて候を、さとらぬ人を口上にて申すくめ候半はいやがり候も理に候。孔子も諷諫をよしと被成易にも納約自牖と御座候は、先のをのづからにひらけ候をよしと致候事に候。其事となしに外の事より申候へば得道まいる事も有物に候。其事の是非を争ひ候へば、先の気立て居候故相手立候て必争になる物に候。争にかち候はんは合戦に勝がごとくに候故、怒はやみ不申候。まして君に対しては聞入らるべきやう無御座候。若君より諫を御求め候はゞ各別の事に候。又兼てわれを深く信仰したまはんには諫も行はれ可申候。
現代語訳
諫めは、おおかたは申し上げないほうがよいのです。「しばしばすれば辱めらる(たびたび諫めれば辱めを受ける)」ということがございます。そのわけは、言葉で人を諭そうとすることは、おおかたはできないことだからです。こちらから申すほどのことは、おおかたは先方も承知しているものです。ただ自分の心から悟るか悟らないかで考えは変わるのに、悟らない人を口先で言いすくめようとすれば、嫌がるのも道理です。孔子も諷諫(遠回しの諫め)をよしとされ、『易』にも「約を納るるに牖よりす(窓から結びを入れる)」とあるのは、先方が自然に開けてくるのをよしとするのです。その事としてではなく、ほかの事から申せば、納得が行くこともあるものです。その事の是非を争えば、先方は気が立っているので、相手も構えて必ず争いになるものです。争いに勝とうとすることは合戦に勝つようなものですから、怒りはやみません。まして君に対しては、聞き入れられるはずがございません。もし君から諫めをお求めになるなら格別です。また、かねて自分を深く信頼してくださっているなら、諫めも行われるでしょう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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尚書・益稷予(われ)違(たが)わば、汝(なんじ)弼(たす)けよ。汝、面従(めんじゅう)することなく、退(しりぞ)きて後言(こうげん)あることなかれ。
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『徂徠先生答問書』卷中惣じて諫に限らずわれを信仰せざる人に向ひて道理を説候事何の益も無之事に候。今世に君を諫め人に異見を申候は、大形は傍人を聞手に立候心多く御座候。是は専ら公事人の心に候へば、争の真中に候故に、諫は大形は君の悪を激する事に罷成り、身も死し諫も行はれず、只諫臣といふ名を取り候事に止り候。然れば忠臣にてはなくて名聞の甚敷にて候。先如此心得可申事に候。然共其職分にはまりて我身の事のごとくに存候人は、時にとりては申さで叶はぬ事ある物に候。それは其時の事に候。已上。
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論語・子張篇子夏曰く、君子は信ぜられて而る後に其の民を労す。未だ信ぜられざれば則ち以て己を厲ましむと為すなり。信ぜられて而る後に諫む。未だ信ぜられざれば則ち以て己を謗ると為すなり。
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葉隠・聞書第一或人(あるひと)覚悟の体(てい)覚書に、主君の身辺(しんぺん)勤むる者は別けて身持(みもち)覚悟慎むべきことなり。御側(おそば)の者の様子を見て、主人のたけを人が積(つも)るものなり。今は御機嫌悪し、序(つい)でになどと思うて居る内に、不図(ふと)御誤(おんあやまり)もあるべきことなり。又諫言(かんげん)は時を移さず申し上ぐべきことなり。仰せ出(いで)済みて後も、其の者に理を附け、少しづつもよき様に云いなせば、帰参(きさん)も早きものなり。又仕合せ(しあわせ)よき人には、無音(ぶいん)しても苦しからず、侍の義理なり。又科人(とがにん)をわろく云うは不義理の事なり。落ちぶれたる者には随分不憫(ふびん)を加え、何とぞ立ち直す様に致すべきこと、侍の義理なりと、これあり候。
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葉隠・聞書第十一忠節の事。御心入(おこころいれ)を直し、御国家を堅め申すが大忠節なり。一番乗(いちばんの)り・一番槍(いちばんやり)などは命を捨てて掛かるまでなり。その場ばかりの仕事なり。御心入を直し候事は、命を捨ててもならず、一生骨を折る事なり。まず諸朋輩(しょほうばい)も請け取り、主君も御請け取り候ものになりて、御心安く御懇意(ごこんい)を請け、年寄・家老役に成されたる上にてなければ、諫(いさ)め申す事叶はず。この間の苦労量り難き事なり。我が為の私慾(しよく)の立身さへ骨折ることなり。これは主君の御為ばかりに立身する事なれば、なかなか精気続き難き事なり。しかれどもこの当りに眼を着けずしては、忠臣とはいうべからず。
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史記 白起王翦列伝是の時、武安君病み、行くに任へず。四十九年正月、陵、邯鄲を攻むるも、利少なし。秦益々兵を発して陵を佐く。陵の兵、五校を亡ふ。武安君病愈ゆ、秦王、武安君をして陵に代はりて将たらしめんと欲す。武安君言ひて曰く、「邯鄲は実に未だ攻め易からざるなり。且つ諸侯の救ひ日に至らん。彼の諸侯の秦を怨むの日久し。今、秦は長平の軍を破ると雖も、秦の卒の死する者は半ばを過ぎ、国内空し。遠く河山を絶りて人の国都を争はば、趙はその内に応じ、諸侯はその外を攻めん。秦の軍を破ること必せり。不可なり」と。秦王自ら命ずるも、行かず。乃ち応侯をしてこれを請はしむ、武安君終に辞して行くことを肯んぜず、遂に病と称す。秦王、王齕をして陵に代はりて将たらしめ、八九月、邯鄲を囲むも、抜く能はず。楚、春申君及び魏の公子をして兵数十万を将ゐて秦の軍を攻めしむ、秦の軍失亡多し。武安君言ひて曰く、「秦、臣の計を聴かず、今如何ぞや」と。秦王これを聞きて怒り、彊ひて武安君を起こす、武安君遂に病甐しと称す。応侯これを請ふも、起たず。是に於いて武安君を免じて士伍と為し、これを陰密に遷す。武安君病み、未だ行く能はず。居ること三月、諸侯秦の軍を攻むること急にして、秦の軍数々卻き、使者日に至る。秦王乃ち人をして白起を遣らしめ、咸陽の中に留まるを得ざらしむ。武安君既に行き、咸陽の西門を出づること十里、杜郵に至る。秦の昭王、応侯・群臣と議して曰く、「白起の遷るや、その意尚ほ怏怏として服せず、余言有り」と。秦王乃ち使者をしてこれに剣を賜ひ、自裁せしむ。武安君、剣を引きて将に自ら剄ねんとして、曰く、「我何の罪ありて天に于いて此に至るや」と。良久しくして、曰く、「我固より当に死すべし。長平の戦ひ、趙の卒の降る者数十万人、我詐りて尽くこれを阬にす、是れ以て死するに足る」と。遂に自殺す。武安君の死するや、秦の昭王五十年十一月を以てす。死して其の罪に非ず、秦人これを憐れみ、郷邑皆これを祭祀す。
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