徂徠先生答問書 / 卷中
一輪廻轉生の事樣々御尋被仰下候。愚老は儒學は仕候得共、佛學は不仕候。輪廻轉生の沙汰は佛說に出候儀に候間、佛者に御尋可然存候。但宋儒の說に理氣の論を以て輪廻を破候は理窟に候。宋儒も直に冥府とやらんを見候にては無之、只理窟にて輪廻は無之と申たる事に候。佛者も大形は理窟にてある筈と申候。儒佛に不限、理窟にて申候は皆推量の沙汰に候。推量の沙汰は慥なる事にては無之候。所詮僉議の詰り候所は、釋迦の詞を信じ候て輪廻は有之と申事に候。愚老は釋迦をば信仰不仕候。聖人を信仰仕候。聖人の敎に無之事に候得ば、たとひ輪廻と申事有之候共、とんぢやくに不及儀と存候。其子細は聖人の敎にて何も角も事足候間不足なる事無之と申事を愚老は深く信じ候故、如此了簡定まり申候。され共愚老が了簡を足下も御用被成候へと申事にては曾て無御座候。御尋故愚老が了簡を申進候迄に御座候。以上。
新字:一輪廻転生の事様々御尋被仰下候。愚老は儒学は仕候得共、仏学は不仕候。輪廻転生の沙汰は仏説に出候儀に候間、仏者に御尋可然存候。但宋儒の説に理気の論を以て輪廻を破候は理窟に候。宋儒も直に冥府とやらんを見候にては無之、只理窟にて輪廻は無之と申たる事に候。仏者も大形は理窟にてある筈と申候。儒仏に不限、理窟にて申候は皆推量の沙汰に候。推量の沙汰は慥なる事にては無之候。所詮僉議の詰り候所は、釈迦の詞を信じ候て輪廻は有之と申事に候。愚老は釈迦をば信仰不仕候。聖人を信仰仕候。聖人の教に無之事に候得ば、たとひ輪廻と申事有之候共、とんぢやくに不及儀と存候。其子細は聖人の教にて何も角も事足候間不足なる事無之と申事を愚老は深く信じ候故、如此了簡定まり申候。され共愚老が了簡を足下も御用被成候へと申事にては曽て無御座候。御尋故愚老が了簡を申進候迄に御座候。以上。
書き下し
一輪廻転生の事様々御尋被仰下候。愚老は儒学は仕候得共、仏学は不仕候。輪廻転生の沙汰は仏説に出候儀に候間、仏者に御尋可然存候。但宋儒の説に理気の論を以て輪廻を破候は理窟に候。宋儒も直に冥府とやらんを見候にては無之、只理窟にて輪廻は無之と申たる事に候。仏者も大形は理窟にてある筈と申候。儒仏に不限、理窟にて申候は皆推量の沙汰に候。推量の沙汰は慥なる事にては無之候。所詮僉議の詰り候所は、釈迦の詞を信じ候て輪廻は有之と申事に候。愚老は釈迦をば信仰不仕候。聖人を信仰仕候。聖人の教に無之事に候得ば、たとひ輪廻と申事有之候共、とんぢやくに不及儀と存候。其子細は聖人の教にて何も角も事足候間不足なる事無之と申事を愚老は深く信じ候故、如此了簡定まり申候。され共愚老が了簡を足下も御用被成候へと申事にては曽て無御座候。御尋故愚老が了簡を申進候迄に御座候。以上。
現代語訳
輪廻転生のことをいろいろお尋ねくださいました。愚老は儒学はしていますが、仏学はしていません。輪廻転生の話は仏説に出ることですから、仏者にお尋ねになるのがよいと存じます。ただ、宋儒の説が理気の論で輪廻を論破するのは理屈です。宋儒も直接冥府とやらを見たわけではなく、ただ理屈で輪廻はないと言ったのです。仏者もおおかたは理屈で、あるはずだと言っています。儒仏に限らず、理屈で言うことはみな推量の話です。推量の話は確かなことではありません。結局、議論の行き着くところは、釈迦の言葉を信じて輪廻はあると言うことです。愚老は釈迦を信仰していません。聖人を信仰しています。聖人の教えにないことですから、たとえ輪廻ということがあったとしても、頓着するには及ばないと存じます。そのわけは、聖人の教えで何もかも事足りるので不足なことはない、ということを愚老は深く信じていますので、このように考えが定まっているのです。けれども、愚老の考えを足下(あなた)もお用いなさいと申すのでは決してございません。お尋ねゆえ愚老の考えを申し上げたまでです。以上。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『徂徠先生答問書』卷上一御両親様仏法御信仰に候を御制当被成候由伝承候。日頃の御孝行とは相違なる御儀以の外なる次第と奉存候。末世之儒者は、聖人の道を我私物の様に存候故、不覚一家を立候て、孟子は楊墨と争ひ、宋儒は仏老と争被申候。其心入を尋候得ば、畢竟嫉妬之心にて浅增き次第に候。聖人の道は、国家を平治する大道に候故、仏法抔と肩をならべ申候様なる事にては無御座候。仏法は其一人の身心を治め候事を教へ申候へば、曽て聖人の道の構ひに成候物にて無御座候。然れば相手にも足り不申候物に候を、相手にいたし目にかけ申候事、世俗に申候職仇とやらんに相似申候、宋儒の学問は元仏法より出候故、似たることを嫌ひ候て争ひ候事もことはりにて候。古学をも被成候仁の、其余習に御ひかれ、不孝の罪に御陥候事、無勿体儀と存候。
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『徂徠先生答問書』卷中一鬼神有無の事御尋候。古今の間此論やかましく候。何れも理窟にて候。理窟は申次第の物に候間信用成不申候。聖人の経書の趣は、成程鬼神はある物と相見え申候。宋儒は理気陰陽を以て様々と被申候得共、それは宋儒の了簡と申物にて聖人の御詞には無之候。宋儒の説に従ひ候て見候へば、畢竟鬼神はなき物と申に成申候。此段聖人の教と相違に候間信用難仕御座候。聖人の書には鬼神を治むる道御座候て、それにて鬼神は世界の利益になり害には成不申候。是にて相済候事に候。仏老巫覡の説に鬼神の治め様有之候へ共、国家を治むる道に害有之候。聖人の書と違申候へば、君子の信用すべき事に無之候。冥々之中を見ぬき候て、鬼神はいかやうの物に候と申候事を存候事は人のならぬ事に候。たとひ存候ても、聖人の教の外に別に鬼神の治様あるまじく候得ば、曽て不入事にて御座候。以上。
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『徂徠先生答問書』卷下一申残候趣有之候故又申入候。惣て学問の道は文章の外無之候。古人の道は書籍に有之候。書籍は文章に候。能文章を会得して、書籍の儘済し候て我意を少も雑え不申候得ば、古人の意は、明に候。聖人の道は聖人の教法に順はずして可得様曽て無之候。其教法は書籍に有之候故つまる所是又文章に帰し申候。然る所文章も字義も時代に随て致展転候所眼の付所にて候に、後世儒者我物ずきを立候故、道徳は尊く文章は卑き事なりと思ひとり、文章を軽看致し候より、右の所に心付不申、右の所に心付不申候故、古聖人の教法見え分れ不申、我知見にて聖人の道を会得せんとする故皆自己流に罷成候。宋学の輩は識見益鄙陋にて、程朱陽明吾国にて闇斎仁斎等の末師を信ずる事孔子よりも甚敷候。たとへて申候はゞ、仏者の輩釈迦の説をば不用して、深く法然日蓮を信ずるがごとくに候。教に古今なく、道にも古今なく候。聖人の道にて今日の国天下も治り候事に候。外に仕形は無之候。聖人の教にて今日の人も才徳を成就候事に候。是又外に仕形無之候。
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『徂徠先生答問書』卷下論こゝに至り候得ば、多くは時代の不同などゝすべらかし候事、後世利口の徒の申事に候。是は古書に熟し不申候故、古今之差別は曽て無之事と申事を不存故に候。古の聖人の智は、古今を貫透して、今日様々の弊迄明に御覧候。古聖人の教は、古今を貫透して、其教の利益上古も末代も聊の替目無之候。左無御座候ては聖人とは不被申事に候。宋儒理気の説は、仏家の真諦仮諦に相似候。天理人欲は、真如無明に相似候。古は聖人賢人と云名目は無之候。是又仏菩薩に相似候。道統の伝と申事古は無之候。是仏家の血脈相伝に相似候。教に知行を分つと申事古は無之候。仏家には解行と申事有之候。豁然貫通と申事古は無之候。禅家の大悟徹底に相似候。静坐と申事古は無之候。是又坐禅之真似と被存候。殊に本然気質の性と申儀、得と詮議をつめ御覧可被成候。畢竟気質の性計につまり候事に候。気質を変化すると申事是又無理の至極に候。人のならぬ事を強ゆるにて候。只々心を平にして今日成べき事かなるまじき事歟古とてもかくあるべき事歟あるまじき事歟と身にとり御思慮候はゞ、宋儒の誤は見え分れ可申候。
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『近思録』巻13 弁異端若し山林の間に居り、形を保ち気を錬り、以て年を延べ寿を益すと言わば、則ち之れ有り。譬えば一鑪の火の如し、之を風中に置けば則ち過ぎ易く、之を密室に置けば則ち過ぎ難し。此の理有るなり。又問う、揚子言う「聖人は仙を師とせず、厥(そ)の術異なればなり」と。聖人能く此等の事を為すや否や。曰く、此は是れ天地の間の一賊なり。若し造化の機を窃むに非ずんば、安んぞ能く年を延べん。聖人をして肯えて為さしめば、周孔之を為さん。謝顕道歴(つぶさ)に仏説の吾が儒と同じき処を挙げて、伊川先生に問う。先生曰く、憑地(かくのごとく)同じき処多しと雖も、只だ是れ本領是ならず、一斉に差い卻(さ)る。横渠先生曰く、釈氏は妄りに天性を意(おも)いて、天用を範囲するを知らず、反って六根の微を以て、天地に因縁す。明尽くす能わざれば、則ち天地日月を誣いて幻妄と為す。其の用を一身の小に蔽い、其の志を虚空の大に溺らす。此れ大を語り小を語るに、流遁して中を失う所以なり。其の大に過ぐるや、六合を塵芥とす。其の小に蔽わるるや、人世を夢幻とす。之を理を窮むと謂いて可ならんや。理を窮むるを知らずして之を性を尽くすと謂いて可ならんや。之を知らざる無しと謂いて可ならんや。六合を塵芥とすとは、天地を謂いて窮まり有りと為すなり。人世を夢幻とすとは、明其の従りて来たる所を究むる能わざるなり。大易は有無を言わず。有無を言うは、諸子の陋なり。浮図は鬼を明らかにして、識有るの死するや、生を受けて循環すと謂う。遂に苦を厭いて免れんことを求む。鬼を知ると謂うべけんや。人生を以て妄と為す、人を知ると謂うべけんや。天人は一物なるに、輒ち取捨を生ず、天を知ると謂うべけんや。孔孟の所謂天は、彼の所謂道なり。惑う者は「遊魂変を為す」を指して輪廻と為す、未だ之を思わざるなり。大学は当に先ず天徳を知るべし。天徳を知れば則ち聖人を知り、鬼神を知る。今浮図は極論して要帰し、必ず死生流転は、道を得るに非ずんば免れずと謂う。之を道を悟ると謂いて可ならんや。
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『徂徠先生答問書』卷上一前答にて、最前申入候趣も御疑とけ、其外兼々の御疑網共も散し候事多御入候由珍重存候。数年御学問の功積り候て、御疑共数多御蓄へ被置候故、右様の御得益有之候と相見え、御志の程感入候。総じて学問と申候物は、自身にわれと合点いたし候事にて御座候。孔門の教皆此通にて御座候。末世にいたり候ても、教方も学びかたも皆々如此に候。今時の講釈などは、一座の上にて能申取候を詮に仕候故、疑もつき不申、得益少く候。久敷承候へば、一種のこはぐるしき理窟たち候て、其害甚敷候。これにより候て、聖人の道は人情には遠き事に候今の世には合不申儀に候と人々存候様に罷成候。聖人の智は、智の至極に候故、聖人の道は、何れの世にてもなり申候事と申候儀を深く御信じ可被成候。左様に思召入候はゞ、尚又様々の疑出可申候。以上。
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