近思録 / 巻13 弁異端
若言居山林間、保形鍊氣、以延年益壽、則有之。譬如一鑪火、置之風中則易過、置之密室則難過。有此理也。又問揚子言「聖人不師仙、厥術異也」。聖人能爲此等事否?曰:此是天地間一賊。若非竊造化之機、安能延年?使聖人肯爲、周孔爲之矣。謝顯道歷舉佛說與吾儒同處、問伊川先生。先生曰:憑地同處雖多、只是本領不是、一齊差卻。橫渠先生曰:釋氏妄意天性、而不知範圍天用、反以六根之微、因緣天地明不能盡、則誣天地日月爲幻妄。蔽其用於一身之小、溺其志於虛空之大。此所以語大語小、流遁失中。其過於大也、塵芥六合。其蔽於小也、夢幻人世。謂之窮理可乎?不知窮理而謂之盡性可乎?謂之無不知可乎?塵芥六合、謂天地爲有窮也。夢幻人世、明不能究其所從也。大易不言有無。言有無、諸子之陋也。浮圖明鬼、謂有識之死、受生循環。遂厭苦求免。可謂知鬼乎?以人生爲妄、可謂知人乎?天人一物、輒生取捨、可謂知天乎?孔孟所謂天、彼所謂道。惑者指「遊魂爲變」爲輪廻、未之思也。大學當先知天德。知天德則知聖人、知鬼神。今浮圖極論要歸、必謂死生流轉、非得道不免。謂之悟道可乎?
新字:若言居山林間、保形錬気、以延年益寿、則有之。譬如一鑪火、置之風中則易過、置之密室則難過。有此理也。又問揚子言「聖人不師仙、厥術異也」。聖人能為此等事否?曰:此是天地間一賊。若非窃造化之機、安能延年?使聖人肯為、周孔為之矣。謝顕道歴舉仏説与吾儒同処、問伊川先生。先生曰:憑地同処雖多、只是本領不是、一斉差却。横渠先生曰:釈氏妄意天性、而不知範囲天用、反以六根之微、因縁天地明不能尽、則誣天地日月為幻妄。蔽其用於一身之小、溺其志於虚空之大。此所以語大語小、流遁失中。其過於大也、塵芥六合。其蔽於小也、夢幻人世。謂之窮理可乎?不知窮理而謂之尽性可乎?謂之無不知可乎?塵芥六合、謂天地為有窮也。夢幻人世、明不能究其所従也。大易不言有無。言有無、諸子之陋也。浮図明鬼、謂有識之死、受生循環。遂厭苦求免。可謂知鬼乎?以人生為妄、可謂知人乎?天人一物、輒生取捨、可謂知天乎?孔孟所謂天、彼所謂道。惑者指「遊魂為変」為輪廻、未之思也。大学当先知天徳。知天徳則知聖人、知鬼神。今浮図極論要帰、必謂死生流転、非得道不免。謂之悟道可乎?
書き下し
若し山林の間に居り、形を保ち気を錬り、以て年を延べ寿を益すと言わば、則ち之れ有り。譬えば一鑪の火の如し、之を風中に置けば則ち過ぎ易く、之を密室に置けば則ち過ぎ難し。此の理有るなり。又問う、揚子言う「聖人は仙を師とせず、厥(そ)の術異なればなり」と。聖人能く此等の事を為すや否や。曰く、此は是れ天地の間の一賊なり。若し造化の機を窃むに非ずんば、安んぞ能く年を延べん。聖人をして肯えて為さしめば、周孔之を為さん。謝顕道歴(つぶさ)に仏説の吾が儒と同じき処を挙げて、伊川先生に問う。先生曰く、憑地(かくのごとく)同じき処多しと雖も、只だ是れ本領是ならず、一斉に差い卻(さ)る。横渠先生曰く、釈氏は妄りに天性を意(おも)いて、天用を範囲するを知らず、反って六根の微を以て、天地に因縁す。明尽くす能わざれば、則ち天地日月を誣いて幻妄と為す。其の用を一身の小に蔽い、其の志を虚空の大に溺らす。此れ大を語り小を語るに、流遁して中を失う所以なり。其の大に過ぐるや、六合を塵芥とす。其の小に蔽わるるや、人世を夢幻とす。之を理を窮むと謂いて可ならんや。理を窮むるを知らずして之を性を尽くすと謂いて可ならんや。之を知らざる無しと謂いて可ならんや。六合を塵芥とすとは、天地を謂いて窮まり有りと為すなり。人世を夢幻とすとは、明其の従りて来たる所を究むる能わざるなり。大易は有無を言わず。有無を言うは、諸子の陋なり。浮図は鬼を明らかにして、識有るの死するや、生を受けて循環すと謂う。遂に苦を厭いて免れんことを求む。鬼を知ると謂うべけんや。人生を以て妄と為す、人を知ると謂うべけんや。天人は一物なるに、輒ち取捨を生ず、天を知ると謂うべけんや。孔孟の所謂天は、彼の所謂道なり。惑う者は「遊魂変を為す」を指して輪廻と為す、未だ之を思わざるなり。大学は当に先ず天徳を知るべし。天徳を知れば則ち聖人を知り、鬼神を知る。今浮図は極論して要帰し、必ず死生流転は、道を得るに非ずんば免れずと謂う。之を道を悟ると謂いて可ならんや。
現代語訳
(神仙の説の続き)もし山林の中に住み、身体を保ち気を錬って、年を延ばし寿命を増すというのなら、それはある。たとえば一つの炉の火のようなもので、風の中に置けば早く燃え尽き、密室に置けばなかなか燃え尽きない。そういう理はある。また問うた。揚雄(揚子、前漢の学者)は「聖人は仙人を師としない。その術が異なるからだ」と言っている。聖人はこうしたことをすることができるのか。答えた。これは天地の間の一つの盗賊である。造化のからくりを盗むのでなければ、どうして年を延ばせようか。聖人がそれをしようとするなら、周公や孔子がとうにしていたはずだ。謝良佐(謝顕道、程顥・程頤の門人)が、仏教の説で儒学と同じところを一つ一つ挙げて、程頤(伊川先生)に問うた。先生は言った。このように同じところは多いが、ただ根本が正しくないので、すべてが一斉に食い違ってしまうのだ。張載(横渠先生)は言う。仏教はみだりに天の性を推し量りながら、天の働きを包み込んで捉えることを知らず、かえってちっぽけな六根(眼耳鼻舌身意)によって天地を因縁で説明する。その明知が天地を尽くせないと、天地や日月を偽って幻だとする。その働きを一身の小ささに閉じこめ、その志を虚空の大きさに溺れさせる。これが、大を語っても小を語っても、流れ逃れて中を失う理由である。大に行き過ぎると、天地四方を塵やあくたとみなす。小に閉じこめられると、人の世を夢や幻とみなす。これを理を窮めたと言えるだろうか。理を窮めることを知らずに、これを性を尽くしたと言えるだろうか。これを知らないことがないと言えるだろうか。天地四方を塵あくたとみなすのは、天地に限りがあると言っているのである。人の世を夢幻とみなすのは、その明知が人の世がどこから来たのかを究められないのである。偉大な『易』は有と無を言わない。有無を言うのは、諸子の浅はかさである。仏教は鬼(死者の霊)を明らかにして、意識ある者が死ぬと、生を受けて循環すると言う。そこで苦しみを嫌い、免れることを求める。これで鬼を知っていると言えるだろうか。人生を偽りとする。これで人を知っていると言えるだろうか。天と人とは一つであるのに、すぐに取るか捨てるかを生じる。これで天を知っていると言えるだろうか。孔子や孟子のいう天は、仏教のいう道にあたる。惑う者は『易』の「遊魂が変化をなす」を指して輪廻だとするが、よく考えていないのである。大学(大いなる学問)は、まず天の徳を知るべきである。天の徳を知れば、聖人を知り、鬼神を知る。いま仏教は突きつめて結論を下し、必ず生死の流転は道を得なければ免れないと言う。これを道を悟ったと言えるだろうか。
解説
この章句が説くこと
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『近思録』巻13 弁異端万物一体と謂う所以の者は、皆此の理有ればなり。只だ那裏より来たるが為に、「生生之を易と謂う。」生ずれば則ち一時に生じ、皆此の理を完くす。人は則ち能く推し、物は則ち気昏くして、推し得ず。他の物は与(あずか)り有らずと道うべからず。人は只だ自私の為に、自家の軀殻の上頭より意を起こす。故に道理を看得て他の底を小にし了る。這の身を放ち来たりて、都(すべ)て万物の中に在りて一例に看よ。大小大の快活ぞ。釈氏は此を知らざるを以て、他の身上より意思を起こす。那の身を奈何ともし得ず、故に却って厭悪す。根塵を去り尽くすを要得し、心源の定まらざるが為なり。故に枯木死灰の如くならんことを要得す。然れども此の理没し。此の理有らんことを要せば、除(ただ)是れ死するのみ。釈氏は其の実是れ身を愛して、放ち得ず。故に許多を説く。譬えば負版の虫の、已に載せ起こさざるに、猶お自ら更に物を取りて身に在くが如し。又石を抱きて河に投じ、其の重きを以て愈〻沈むも、終に石頭を放下すとは道わず、惟だ重きを嫌うが如し。人の導気を語る者有り、先生に問いて曰く、「君も亦術有りや。」曰く、吾嘗て「夏は葛して冬は裘し、饑えては食らい渇しては飲む。」「嗜欲を節して心気を定む。」斯くの如きのみ。仏氏は陰陽・昼夜・死生・古今を識らず、安んぞ形而上なる者聖人と同じと謂うを得んや。釈氏の説、若し其の説を窮めて之を去取せんと欲すれば、則ち其の説未だ窮むる能わざるに、固より已に化して仏と為る。只だ且く迹の上に於いて之を考えよ。其の教えを設くること是くの如くなれば、則ち其の心果たして如何。固より其の心を取りて、其の跡を取らざることを為し難し。是の心有れば則ち是の迹有り。王通心迹の判を言うは、便ち是れ乱説なり。故に且く迹の上に於いて聖人と合わざるを断定するに若かず。其の言合う処有れば、則ち吾が道固より已に有り。合わざる者有れば、固より取らざる所なり。是くの如く立定すれば却って省易なり。神仙の説は諸れ有りやと問う。曰く、白日飛昇の類を説くが若きは、則ち無し。
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