徂徠先生答問書 / 卷上
されども白人の了簡には、明細に一つも殘不申候を尤と聞請候事和漢一同に候故、多くは人に聞請さすべき爲に、紙上の論を明細に認候事有之候。是等は書候人も虛にて認候を、尤と思召候事も可有之候。孔子の御詞に、君子其言也訒と御座候を、其故を尋候へば、爲之難と御答被成候。君子の國を治め民を安んずる事はむづかしき事故、よく其わざをなし得たる君子は、心安く埓明候樣には申さぬ事と申意にて御座候。誠に世俗の諺に、手たらはずのくちつるぎとやらん申類も、經濟の論には多く有之事に候。され共わざはわざの上がよく御座候故、經書計にては國を治むるわざは參兼候事も多候間、見聞を廣むる爲には、經濟の書をも御覽候事學問にて候。學問は只廣く何をもかをも取入置て、己が知見を廣むる事にて御座候。經濟の論共を面白く思召し、直に政務に御取出し候半事は、穴賢御無用と存候。己が知見小きなれば、珍しからぬ事をも珍く思ひ、己が量小きなれば、知りたる事をはや取出して用ひたくなる物に候。是皆うはきの沙汰、若輩なる事に候。此戒め肝要に候。以上。
新字:されども白人の了簡には、明細に一つも残不申候を尤と聞請候事和漢一同に候故、多くは人に聞請さすべき為に、紙上の論を明細に認候事有之候。是等は書候人も虚にて認候を、尤と思召候事も可有之候。孔子の御詞に、君子其言也訒と御座候を、其故を尋候へば、為之難と御答被成候。君子の国を治め民を安んずる事はむづかしき事故、よく其わざをなし得たる君子は、心安く埓明候様には申さぬ事と申意にて御座候。誠に世俗の諺に、手たらはずのくちつるぎとやらん申類も、経済の論には多く有之事に候。され共わざはわざの上がよく御座候故、経書計にては国を治むるわざは参兼候事も多候間、見聞を広むる為には、経済の書をも御覧候事学問にて候。学問は只広く何をもかをも取入置て、己が知見を広むる事にて御座候。経済の論共を面白く思召し、直に政務に御取出し候半事は、穴賢御無用と存候。己が知見小きなれば、珍しからぬ事をも珍く思ひ、己が量小きなれば、知りたる事をはや取出して用ひたくなる物に候。是皆うはきの沙汰、若輩なる事に候。此戒め肝要に候。以上。
書き下し
されども白人の了簡には、明細に一つも残不申候を尤と聞請候事和漢一同に候故、多くは人に聞請さすべき為に、紙上の論を明細に認候事有之候。是等は書候人も虚にて認候を、尤と思召候事も可有之候。孔子の御詞に、君子其言也訒と御座候を、其故を尋候へば、為之難と御答被成候。君子の国を治め民を安んずる事はむづかしき事故、よく其わざをなし得たる君子は、心安く埓明候様には申さぬ事と申意にて御座候。誠に世俗の諺に、手たらはずのくちつるぎとやらん申類も、経済の論には多く有之事に候。され共わざはわざの上がよく御座候故、経書計にては国を治むるわざは参兼候事も多候間、見聞を広むる為には、経済の書をも御覧候事学問にて候。学問は只広く何をもかをも取入置て、己が知見を広むる事にて御座候。経済の論共を面白く思召し、直に政務に御取出し候半事は、穴賢御無用と存候。己が知見小きなれば、珍しからぬ事をも珍く思ひ、己が量小きなれば、知りたる事をはや取出して用ひたくなる物に候。是皆うはきの沙汰、若輩なる事に候。此戒め肝要に候。以上。
現代語訳
けれども素人の考えでは、細かく一つも残さないことをもっともだと受け取るのは、和漢どちらも同じですから、多くは人に受け入れさせるために、紙上の論を細かく書くことがあるのです。これらは、書いた人も実のないことを書いているのに、もっともだとお思いになることもあるでしょう。孔子のお言葉に「君子は其の言や訒(ことばを控えめにする)」とあり、そのわけを尋ねると、「之を為すこと難し」とお答えになりました。君子が国を治め民を安んじることは難しいことなので、よくその仕事をやり遂げた君子は、気安くたやすくできるようには言わない、という意味です。まことに世俗のことわざに「手足らずの口剣(腕は足りないのに口だけ達者)」とやら申す類も、経世の議論には多いものです。けれども、わざはわざの上で見るのがよいので、経書だけでは国を治めるわざに至りかねることも多いですから、見聞を広めるためには、経世の書をもご覧になることが学問です。学問は、ただ広く何でもかでも取り入れておいて、自分の知見を広めることです。経世の議論などを面白くお思いになって、すぐに政務に持ち出されることは、決してなさらないでください。自分の知見が小さければ、珍しくもないことを珍しく思い、自分の器量が小さければ、知ったことをすぐに取り出して用いたくなるものです。これはみな浮わついた振る舞いで、未熟なことです。この戒めが肝要です。以上。
解説
この章句が説くこと
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