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徂徠先生答問書 / 序

子遷所挍徂徠先生答問書成。子遷蓋謂經生家專修心爲敎。浮屠氏何別。人皆曰天下國家。惟聖人生知不可尙已。自非聖人則何以哉。禮樂刑政。以至百爾所具。六經所載。窮年不可盡。若以修心足矣。則曇摩氏可矣。何必讀書然後行道。世之耳學者。亦復經生家是守。即稍稍取古經視之。皆已經生家附以爲說者。乃謂聖人之道。六藝之奧。亦惟如此。而後邈與古違矣。則亦不知聖人之道雖百世無不可行者。即以名高私慕徂來先生者。亦不得窺之。則猶尙以世之經生視之。見以爲迂事情。子遷蓋憂之也。

新字:子遷所挍徂徠先生答問書成。子遷蓋謂経生家専修心為教。浮屠氏何別。人皆曰天下国家。惟聖人生知不可尚已。自非聖人則何以哉。礼楽刑政。以至百爾所具。六経所載。窮年不可尽。若以修心足矣。則曇摩氏可矣。何必読書然後行道。世之耳学者。亦復経生家是守。即稍稍取古経視之。皆已経生家附以為説者。乃謂聖人之道。六芸之奥。亦惟如此。而後邈与古違矣。則亦不知聖人之道雖百世無不可行者。即以名高私慕徂来先生者。亦不得窺之。則猶尚以世之経生視之。見以為迂事情。子遷蓋憂之也。

書き下し

子遷挍する所の徂徠先生答問書成る。子遷蓋し謂へらく、経生家は専ら心を修むるを教へと為す、浮屠氏と何ぞ別たん。人皆天下国家と曰ふ。惟だ聖人の生知は尚ふべからざるのみ。聖人に非ざるよりは則ち何を以てせんや。礼楽刑政より、以て百爾の具ふる所に至るまで、六経の載する所、年を窮むとも尽くすべからず。若し心を修むるを以て足れりとせば、則ち曇摩氏にて可なり。何ぞ必ずしも書を読みて然る後に道を行はんや。世の耳学の者も、亦た復た経生家を是れ守る。即ち稍稍古経を取りて之を視れども、皆已に経生家の附して以て説を為す者なり。乃ち聖人の道、六芸の奥も亦た惟だ此くの如しと謂ひて、而る後に邈として古と違ふ。則ち亦た聖人の道は百世と雖も行ふべからざる無き者なるを知らず。即ち名高きを以て私かに徂来先生を慕ふ者も、亦た之を窺ふを得ず。則ち猶尚ほ世の経生を以て之を視、見て以て事情に迂なりと為す。子遷蓋し之を憂ふるなり。

現代語訳

子遷(服部南郭)が校訂した『徂徠先生答問書』ができあがった。子遷はこう考えたのだろう。経書の講釈家はもっぱら心を修めることを教えとしているが、それでは仏教徒と何の違いがあろうか。人はみな天下国家と口にする。聖人が生まれながらに知っていることは、とても及ぶものではない。聖人でない者は、何によればよいのか。礼・楽・刑・政から、あらゆる備えに至るまで、六経に載っていることは、一生かけても学び尽くせない。もし心を修めるだけで足りるのなら、達磨(禅)の教えで十分である。どうして書を読んでから道を行う必要があろうか。世の聞きかじりの学者も、やはり講釈家の説を守っている。少しばかり古い経書を手に取って見ても、それはみな講釈家が付け加えて説を立てたものである。そこで聖人の道も六芸の奥義もこの程度だと思い込み、その結果、古からはるかに隔たってしまう。そして聖人の道は百代の後でも行えないものはない、ということも知らない。名声を聞いてひそかに徂来先生を慕う者でさえ、その学を窺い知ることができず、やはり世の講釈家と同じものと見て、世の実情に疎い学問だと思っている。子遷はそれを憂えたのである。

解説

第二の序は、伊勢神戸藩主の本多忠統(滕忠統)による。南郭が出版に踏み切った動機を、修心ばかりを説く儒者への批判として代弁している。心を修めるだけで足りるなら禅で十分であり、わざわざ経書を読む必要はない。聖人の道は礼楽刑政という具体的な制度の総体であり、一生かけても学び尽くせない、というのが徂徠学の見方である。組織運営も、心構えの話だけでは足りない。仕組み、規則、評価、文化といった具体の積み重ねを学び続けてこそ、人と組織は動く。

この章句が説くこと

礼楽修心仏教六経制度本多忠統

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