春秋左氏伝 / 哀公十七年 何の賤しきことか之れ有らん
夏。六月。趙鞅圍衛。齊國觀。陳瓘。救衛。得晉人之致師者。子玉使服而見之。曰。國子實執齊柄。而命瓘曰。無辟晉師。豈敢廢命。子又何辱。簡子曰。我卜伐衛。未卜與齊戰。乃還。楚白公之亂。陳人恃其聚而侵楚。楚既寧。將取陳麥。楚子問帥於大師子穀。與葉公諸梁。子穀曰。右領差車。與左史老。皆相令尹司馬以伐陳。其可使也。子高曰。率賤。民慢之。懼不用命焉。子穀曰。觀丁父。鄀俘也。武王以為軍率。是以克州蓼。服隨唐。大啟群蠻。彭仲爽。申俘也。文王以為令尹。實縣申息。朝陳蔡。封畛於汝。唯其任也。何賤之有。子高曰。天命不諂。令尹有憾於陳。天若亡之。其必令尹之子是與。君盍舍焉。臣懼右領與左史。有二俘之賤。而無其令德也。王卜之。武城尹吉。使帥師取陳麥。陳人御之。敗。遂圍陳。
新字:夏。六月。趙鞅囲衛。斉国観。陳瓘。救衛。得晋人之致師者。子玉使服而見之。曰。国子実執斉柄。而命瓘曰。無辟晋師。豈敢廃命。子又何辱。簡子曰。我卜伐衛。未卜与斉戦。乃還。楚白公之乱。陳人恃其聚而侵楚。楚既寧。将取陳麦。楚子問帥於大師子穀。与葉公諸梁。子穀曰。右領差車。与左史老。皆相令尹司馬以伐陳。其可使也。子高曰。率賤。民慢之。懼不用命焉。子穀曰。観丁父。鄀俘也。武王以為軍率。是以克州蓼。服随唐。大啓群蠻。彭仲爽。申俘也。文王以為令尹。実県申息。朝陳蔡。封畛於汝。唯其任也。何賤之有。子高曰。天命不諂。令尹有憾於陳。天若亡之。其必令尹之子是与。君盍舎焉。臣懼右領与左史。有二俘之賤。而無其令徳也。王卜之。武城尹吉。使帥師取陳麦。陳人御之。敗。遂囲陳。
書き下し
夏六月、趙鞅、衛を圍む。齊の國觀・陳瓘、衛を救ふ。晉人の師を致す者を得たり。子玉、服せしめて之を見て曰く、「國子、實に齊の柄を執りて、瓘に命じて曰く、『晉師を辟くること無かれ』と。豈に敢へて命を廢せんや。子又何ぞ辱くせん」と。簡子曰く、「我、衛を伐つことを卜せしも、未だ齊と戰ふことを卜せず」と。乃ち還る。楚の白公の亂に、陳人、其の聚を恃みて楚を侵す。楚既に寧し。將に陳の麥を取らんとす。楚子、帥を大師子穀と葉公諸梁とに問ふ。子穀曰く、「右領差車と左史老とは、皆令尹・司馬を相けて以て陳を伐てり。其れ使ふ可きなり」と。子高曰く、「率賤しければ、民之を慢る。命を用ゐざらんことを懼る」と。子穀曰く、「觀丁父は鄀の俘なり。武王以て軍率と為す。是を以て州・蓼に克ち、隨・唐を服し、大いに群蠻を啟く。彭仲爽は申の俘なり。文王以て令尹と為す。實に申・息を縣とし、陳・蔡を朝せしめ、畛を汝に封ず。唯だ其れ任ずるのみ。何の賤しきことか之れ有らん」と。子高曰く、「天命は諂はず。令尹、陳に憾み有り。天若し之を亡ぼさば、其れ必ず令尹の子に是れ與へん。君盍ぞ焉を舍かざる。臣懼る、右領と左史とは、二俘の賤しき有りて、其の令德無きことを」と。王、之を卜す。武城尹吉なり。師を帥ゐて陳の麥を取らしむ。陳人之を御ぎて敗れ、遂に陳を圍む。
現代語訳
夏六月、趙鞅が衛を包囲した。斉の国観と陳瓘(ちんかん、字は子玉)が衛を救援に来た。晋軍から一騎打ちを挑みに来た者を捕らえた。子玉はその者に元の甲冑を着せて会い、言った。「国子(国観)が斉の実権を握っていて、私瓘に『晋の軍を避けてはならぬ』と命じた。どうしてその命令に背けよう。あなたがたがわざわざ挑みに来るまでもない」。簡子(趙鞅)は言った。「私は衛を討つことは占ったが、斉と戦うことは占っていない」。そこで引き揚げた。楚の白公の乱のとき、陳人は蓄えのあるのを頼みにして楚を侵した。楚は落ち着くと、陳の麦を刈り取ろうとした。楚子(恵王)は、大師の子穀と葉公諸梁に総大将を誰にすべきかを尋ねた。子穀は言った。「右領の差車と左史の老は、どちらもかつて令尹・司馬を補佐して陳を討ちました。この二人を使うことができます」。子高(葉公)は言った。「大将の身分が低いと、兵はこれを侮ります。命令に従わないのではないかと心配です」。子穀は言った。「観丁父は鄀(じゃく)の捕虜でしたが、武王が軍の大将とされました。それで州と蓼に勝ち、随と唐を服従させ、多くの蛮族の地を大いに切り開きました。彭仲爽は申の捕虜でしたが、文王が令尹とされました。申と息を楚の県とし、陳と蔡を朝貢させ、国境を汝水まで広げたのです。ただその任に堪えるかどうかだけです。身分の低さなど何の問題がありましょう」。子高は言った。「天命は疑いようがありません。亡き令尹(子西)は陳に恨みを抱いていました。天がもし陳を滅ぼすなら、きっと令尹の子にその功を与えるでしょう。君はどうしてその人を任じないのですか。私が恐れるのは、右領と左史には、二人の捕虜のような身分の低さはあっても、その優れた徳はないのではないかということです」。王が占うと、武城尹(公孫朝、子西の子)が吉と出た。そこで武城尹に軍を率いて陳の麦を取らせた。陳人はこれを防いで敗れ、楚はそのまま陳を包囲した。
解説
この章句が説くこと
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呂氏春秋・知度⑤人主の患いは、必ず人に任ずるも、之を用うること能わず、之を用うるも知らざる者と之を議するに在り。江を絕る者は船に託し、遠きに致る者は驥に託し、霸王なる者は賢に託す。伊尹・呂尚・管夷吾・百里奚、此れ霸王なる者の船驥なり。父兄と子弟とを釋つるは、之を疏かにするに非ざるなり。庖人釣者と仇人僕虜とに任ずるは、之に阿るに非ざるなり。社稷を持ち功名を立つるの道,然らざるを得ざればなり。猶ほ大匠の宮室を為るがごとし。小大を量りて材木を知り、功丈訾りて人數を知る。故に小臣・呂尚聽かれて、天下殷・周の王たらんことを知り、管夷吾・百里奚聽かれて、天下齊・秦の霸たることを知るなり。豈に特に船驥のみんらんや。
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