春秋左氏伝 / 哀公八年 城下の盟を拒む
微虎欲宵攻王舍。私屬徒七百人。三踊於幕庭。卒三百人。有若與焉。及稷門之內。或謂季孫曰。不足以害吳。而多殺國士。不如已也。乃止之。吳子聞之。一夕三遷。吳人行成。將盟。景伯曰。楚人圍宋。易子而食。析骸而爨。猶無城下之盟。我未及虧。而有城下之盟。是棄國也。吳輕而遠。不能久。將歸矣。請少待之。弗從。景伯負載。造於萊門。乃請釋子服何於吳。吳人許之。以王子姑曹當之。而後止。吳人盟而還。齊悼公之來也。季康子以其妹妻之。即位而逆之。季魴侯通焉。女言其情。弗敢與也。齊侯怒。
新字:微虎欲宵攻王舎。私属徒七百人。三踊於幕庭。卒三百人。有若与焉。及稷門之内。或謂季孫曰。不足以害呉。而多殺国士。不如已也。乃止之。呉子聞之。一夕三遷。呉人行成。将盟。景伯曰。楚人囲宋。易子而食。析骸而爨。猶無城下之盟。我未及虧。而有城下之盟。是棄国也。呉軽而遠。不能久。将帰矣。請少待之。弗従。景伯負載。造於萊門。乃請釈子服何於呉。呉人許之。以王子姑曹当之。而後止。呉人盟而還。斉悼公之来也。季康子以其妹妻之。即位而逆之。季魴侯通焉。女言其情。弗敢与也。斉侯怒。
書き下し
微虎宵に王の舍を攻めんと欲し、私屬の徒七百人、幕庭に三踊せしめ、卒に三百人、有若焉に與る。稷門の內に及ぶ。或ひと季孫に謂ひて曰く、「以て吳を害するに足らずして、多く國士を殺さん。已むるに如かざるなり」と。乃ち之を止む。吳子之を聞き、一夕に三たび遷る。吳人成を行ふ。將に盟はんとす。景伯曰く、「楚人宋を圍むや、子を易へて食らひ、骸を析きて爨(かし)ぐも、猶ほ城下の盟無し。我未だ虧くるに及ばずして、城下の盟有らば、是れ國を棄つるなり。吳は輕くして遠し、久しくする能はず、將に歸らんとす。請ふ少しく之を待たん」と。從はず。景伯載を負ひ、萊門に造(いた)る。乃ち子服何を吳に釋(お)かんことを請ふ。吳人之を許す。王子姑曹を以て之に當てんとして、而る後に止む。吳人盟ひて還る。齊の悼公の來るや、季康子其の妹を以て之に妻(めあは)す。位に即きて之を逆ふ。季魴侯焉に通ず。女其の情を言ふ。敢へて與へず。齊侯怒る。
現代語訳
微虎は夜に呉王の宿営を襲おうとし、私兵七百人に幕舎の前庭で三度ずつ跳躍させて力を試し、最終的に三百人を選んだ。孔子の弟子の有若もその中に加わっていた。一行が稷門の内側まで来たとき、ある人が季孫(季康子)に言った。「これでは呉に損害を与えるには足りず、国の優れた士を多く死なせるだけです。やめさせるに越したことはありません」。そこで季孫は中止させた。呉子(夫差)はこの計画を聞き、一晩のうちに三度も宿営を移した。呉の側から講和を申し入れてきた。盟約を結ぼうというとき、子服景伯が言った。「かつて楚が宋を包囲したとき、宋では子を取り替えて食い、骨を割って薪にするほどであったが、それでも城下の盟(都の城壁の下で結ぶ屈辱的な降伏の盟約)は結ばなかった。我々はまだ何も損なわれていないのに城下の盟を結ぶなら、国を棄てるに等しい。呉は身軽に動くが本国は遠く、長くとどまることはできず、やがて帰るだろう。どうか少し待っていただきたい」。しかし聞き入れられなかった。景伯は盟約の文書を背負って萊門に赴いた。そして自分、子服何を人質として呉に留めてほしいと申し出た。呉人はこれを許し、釣り合いを取るために呉の王子姑曹を魯に人質として出そうとしたが、結局、人質の交換は取りやめになった。呉人は盟約を結んで帰っていった。斉の悼公(陽生)が魯に亡命してきていたとき、季康子は自分の妹を彼に嫁がせた。悼公は即位すると、この妻を迎えようとした。ところが季魴侯(季康子の叔父)がこの女と通じており、女がその事情を打ち明けたので、季康子はあえて彼女を斉に送らなかった。斉侯(悼公)は怒った。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』哀公十三年 庚癸の呼且つ執事伯を以て諸侯を召きて、侯を以て之を終へば、何の利か之れ有らん」と。吳人乃ち止む。既にして之を悔い、將に景伯を囚へんとす。景伯曰く、「何や、後を魯に立てたり。將に二乘と六人とを以て從はんとす。遲速唯だ命のままなり」と。遂に囚へて以て還る。戶牖に及び、大宰に謂ひて曰く、「魯將に十月の上辛を以て、上帝・先王に事有らんとし、季辛にして畢らん。何は世々焉に職有り。襄より以來、未だ之を改めず。若し會せずんば、祝宗將に曰はん、『吳實に然らしむ』と。且つ魯を不共と謂ひて、其の賤者七人を執ふとも、何の損かあらん」と。大宰嚭王に言ひて曰く、「魯に損無くして、祗だ名を為さん。之を歸すに如かず」と。乃ち景伯を歸す。吳の申叔儀、糧を公孫有山氏に乞ひて曰く、「佩玉繠(ずい)たり、余之を繫くる所無し。旨酒一盛、余褐の父と之を睨む」と。對へて曰く、「梁は則ち無し。麤は則ち之有り。若し首山に登りて以て呼びて『庚癸か』と曰はば、則ち諾せん」と。王宋を伐ち、其の丈夫を殺して其の婦人を囚へんと欲す。大宰嚭曰く、「勝つ可きも、居る能はざるなり」と。乃ち歸る。冬、吳越と平ぐ。
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『春秋左氏伝』哀公七年 呉、百牢を徴す七年春、宋の師鄭を侵す。鄭晉に叛くが故なり。晉の師衛を侵す。衛服せざればなり。夏、公、吳に鄫に會す。吳來りて百牢を徵す。子服景伯對へて曰く、「先王未だ之れ有らざるなり」と。吳人曰く、「宋は我を百牢にせり。魯は以て宋に後るべからず。且つ魯は晉の大夫を牢すること十を過ぐ。吳王百牢、亦た可ならずや」と。景伯曰く、「晉の范鞅、貪りて禮を棄て、大國を以て敝邑を懼れしむ。故に敝邑之を十一牢にせり。君若し禮を以て諸侯に命ぜば、則ち數有らん。若し亦た禮を棄てば、則ち淫なる者有らん。周の王たるや、禮を制し物を上(たふと)ぶこと、十二を過ぎず。以て天の大數と為すなり。今周の禮を棄てて、必ず百牢と曰ふは、亦た唯だ執事のままなり」と。吳人聽かず。景伯曰く、「吳將に亡びんとす。天を棄てて本に背く。與へずんば、必ず疾を我に棄てん」と。乃ち之を與ふ。太宰嚭、季康子を召す。康子、子貢をして辭せしむ。大宰嚭曰く、「國君は道長くして、大夫は門を出でず。此れ何の禮ぞや」と。
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『春秋左氏伝』哀公十五年 子貢、成を取り戻す秋、齊の陳瓘楚に如く。衛を過ぐ。仲由之に見えて曰く、「天或いは陳氏を以て斧斤と為し、既に公室を斲喪して、他人之を有するも、知る可からざるなり。其の終に之を饗けしむるも、亦た知る可からざるなり。若し魯を善くして以て時を待たば、亦た可ならずや。何ぞ必ずしも惡まん」と。子玉曰く、「然り。吾命を受けたり。子使ひして我が弟に告げよ」と。冬、齊と平ぐ。子服景伯齊に如く。子贛介為り。公孫成に見えて曰く、「人皆人に臣たり、而して人に背くの心有り。況んや齊人子の為に役すと雖も、其れ貳かざること有らんや。子は周公の孫なり。多く大利を饗くるも、猶ほ不義を思ふ。利得可からずして、宗國を喪はば、將た焉んぞ之を用ゐん」と。成曰く、「善い哉。吾早く命を聞かざりき」と。陳成子客を館して曰く、「寡君恆をして告げしめて曰く、『寡君君に事ふること衛君に事ふるが如くせんことを願ふ』と」。景伯子贛に揖して之を進む。對へて曰く、「寡君の願ひなり。昔晉人衛を伐つ。齊衛の為の故に、晉の冠氏を伐ち、車五百を喪ふ。因りて衛に地を與ふ。濟より以西、禚・媚・杏以南、書社五百。吳人敝邑に加ふるに亂を以てす。齊其の病に因りて、讙と闡とを取る。寡君是を以て寒心す。若し衛君の君に事ふるを視るを得ば、則ち固より願ふ所なり」と。成子之を病む。乃ち成を歸す。公孫宿其の兵甲を以て嬴に入る。衛の孔圉大子蒯聵の姊を取り、悝を生む。孔氏の豎渾良夫、長くして美なり。孔文子卒す。內に通ず。大子戚に在り。孔姬之をして焉に使ひせしむ。大子之と言ひて曰く、「苟も我をして入りて國を獲しめば、冕を服し軒に乘らしめ、三死まで與(あづか)ること無からしめん」と。之と盟ふ。為に伯姬に請ふ。
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『春秋左氏伝』哀公十二年 子貢、衛侯を救う秋、衛侯吳に鄖に會す。公及び衛侯・宋の皇瑗盟ひて、卒に吳の盟を辭す。吳人衛侯の舍に藩(まがき)す。子服景伯子貢に謂ひて曰く、「夫れ諸侯の會、事既に畢れば、侯伯禮を致し、地主餼を歸(おく)り、以て相辭す。今吳衛に禮を行はずして、其の君の舍に藩して以て之を難(なや)ます。子盍ぞ大宰に見えざる」と。乃ち束錦を請ひて以て行く。語衛の故に及ぶ。大宰嚭曰く、「寡君衛君に事へんことを願ふ。衛君の來るや緩し。寡君懼る。故に將に之を止めんとす」と。子貢曰く、「衛君の來るや、必ず其の眾に謀る。其の眾或いは欲し或いは否とす。是を以て來ること緩し。其の來るを欲する者は、子の黨なり。其の來るを欲せざる者は、子の讎なり。若し衛君を執らば、是れ黨を墮して讎を崇くするなり。夫の子を墮さんとする者は、其の志を得たり。且つ諸侯を合して衛君を執らば、誰か敢へて懼れざらん。黨を墮し讎を崇くして、諸侯を懼れしむ。或いは以て霸たること難からんか」と。大宰嚭說ぶ。乃ち衛侯を舍す。衛侯歸りて、夷言を效(なら)ふ。子之尚ほ幼し。曰く、「君必ず免れず。其れ夷に死せんか。焉に執へられて、又其の言を說ぶ。之に從ふこと固し」と。
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『春秋左氏伝』昭公八年 子旗、陳氏を訪う八月、庚戌、子成・子工・子車を逐ふ。皆來奔す。而して子良氏の宰を立つ。其の臣曰く、「孺子長ぜり。而るに吾が室を相く。我を兼ねんと欲するなり」と。甲を授けて將に之を攻めんとす。陳桓子子尾に善し。亦た甲を授けて將に之を助けんとす。或ひと子旗に告ぐ。子旗信ぜず。則ち數人告ぐ。將に往かんとす。又數人道に告ぐ。遂に陳氏に如く。桓子將に出でんとす。之を聞きて還り、游服して之を逆ふ。命を請ふ。對へて曰く、「彊氏甲を授けて將に子を攻めんとすと聞く。子諸を聞けるか」と。曰く、「聞かず」と。「子盍ぞ亦た甲を授けざる。無宇請ふ從はん」と。子旗曰く、「子胡ぞ然る。彼は孺子なり。吾之を誨ふるも、猶ほ其の濟らざるを懼る。吾又之を寵秩す。其れ先人を若何せん。子盍ぞ之に謂はざる。周書に曰く、『不惠に惠し、不茂に茂む』と。康叔の弘大に服する所以なり」と。桓子稽顙して曰く、「頃・靈子に福せん。吾猶ほ望む有り」と。遂に之を和すること初めの如し。陳の公子招罪を公子過に歸して之を殺す。九月、楚の公子棄疾師を帥ゐ、孫吳を奉じて陳を圍む。宋の戴惡之に會す。
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『春秋左氏伝』哀公八年 季姫の寵、二邑を返す夏五月、齊の鮑牧師を帥ゐて我を伐ち、讙及び闡を取る。或ひと胡姬を齊侯に譖して曰く、「安孺子の黨なり」と。六月、齊侯胡姬を殺す。齊侯吳に如きて師を請はしめ、將に以て我を伐たんとす。乃ち邾子を歸す。邾子又無道なり。吳子大宰子餘をして之を討たしめ、諸を樓臺に囚へ、之に栫(かこ)ふに棘を以てす。諸大夫をして大子革を奉じて以て政を為さしむ。秋、齊と平ぐ。九月、臧賓如齊に如きて盟に蒞む。齊の閭丘明來りて盟に蒞み、且つ季姬を逆へて以て歸る。嬖せらる。鮑牧又群公子に謂ひて曰く、「女(なんぢ)をして馬千乘有らしめんか」と。公子之を愬(うった)ふ。公鮑子に謂ふ、「或ひと子を譖す。子姑く潞に居りて以て之を察せよ。若し之有らば、則ち室を分ちて以て行け。若し之無くば、則ち子の所に反らん」と。門を出づるに、三分の一を以て行かしむ。半道にして、二乘を以てせしむ。潞に及び、之を麇(しば)りて以て入り、遂に之を殺す。冬十二月、齊人讙及び闡を歸す。季姬嬖せらるるが故なり。
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