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春秋左氏伝 / 哀公六年 楚の昭王、大道を知る

秋。七月。楚子在城父。將救陳。卜戰不吉。卜退不吉。王曰。然則死也。再敗楚師。不如死。棄盟逃讎。亦不如死。死一也。其死讎乎。命公子申為王。不可。則命公子結。亦不可。則命公子啟。五辭而後許。將戰。王有疾。庚寅。昭王攻大冥。卒于城父。子閭退曰。君王舍其子而讓。群臣敢忘君乎。從君之命。順也。立君之子。亦順也。二順不可失也。與子西。子期。謀潛師閉塗。逆越女之子章立之。而後還。是歲也。有雲如眾赤鳥。夾日以飛。三日。楚子使問諸周大史。周大史曰。其當王身乎。若禜之。可移於令尹司馬。王曰。除腹心之疾。而寘諸股肱何益。不穀不有大過。天其夭諸。有罪受罰。又焉移之。遂弗禜。初。昭王有疾。卜曰。河為祟。王弗祭。大夫請祭諸郊。王曰。三代命祀。祭不越望。江漢雎章。楚之望也。禍福之至。不是過也。不穀雖不德。河非所獲罪也。遂弗祭。孔子曰。楚昭王知大道矣。其不失國也宜哉。夏書曰。惟彼陶唐。帥彼天常。有此冀方。今失其行。亂其紀綱。乃滅而亡。又曰。允出茲在茲。由己率常可矣。

新字:秋。七月。楚子在城父。将救陳。卜戦不吉。卜退不吉。王曰。然則死也。再敗楚師。不如死。棄盟逃讎。亦不如死。死一也。其死讎乎。命公子申為王。不可。則命公子結。亦不可。則命公子啓。五辞而後許。将戦。王有疾。庚寅。昭王攻大冥。卒于城父。子閭退曰。君王舎其子而譲。群臣敢忘君乎。従君之命。順也。立君之子。亦順也。二順不可失也。与子西。子期。謀潜師閉塗。逆越女之子章立之。而後還。是歳也。有雲如衆赤鳥。夾日以飛。三日。楚子使問諸周大史。周大史曰。其当王身乎。若禜之。可移於令尹司馬。王曰。除腹心之疾。而寘諸股肱何益。不穀不有大過。天其夭諸。有罪受罰。又焉移之。遂弗禜。初。昭王有疾。卜曰。河為祟。王弗祭。大夫請祭諸郊。王曰。三代命祀。祭不越望。江漢雎章。楚之望也。禍福之至。不是過也。不穀雖不徳。河非所獲罪也。遂弗祭。孔子曰。楚昭王知大道矣。其不失国也宜哉。夏書曰。惟彼陶唐。帥彼天常。有此冀方。今失其行。乱其紀綱。乃滅而亡。又曰。允出茲在茲。由己率常可矣。

書き下し

秋、七月、楚子城父に在り、將に陳を救はんとす。戰を卜するに吉ならず、退くを卜するに吉ならず。王曰く、「然らば則ち死なり。再び楚の師を敗らんよりは、死するに如かず。盟を棄て讎を逃るるも、亦た死するに如かず。死は一なり。其れ讎に死せんか」と。公子申に命じて王と為さんとす。可かず。則ち公子結に命ず。亦た可かず。則ち公子啟に命ず。五たび辭して而る後に許す。將に戰はんとするに、王疾有り。庚寅、昭王大冥を攻め、城父に卒す。子閭退きて曰く、「君王其の子を舍てて讓る。群臣敢へて君を忘れんや。君の命に從ふは、順なり。君の子を立つるも、亦た順なり。二順は失ふべからざるなり」と。子西・子期と謀り、師を潛め塗を閉ぢ、越女の子章を逆へて之を立て、而る後に還る。是の歲や、雲の眾(おほ)き赤鳥の如き有り、日を夾みて以て飛ぶこと三日。楚子、人をして諸を周の大史に問はしむ。周の大史曰く、「其れ王の身に當らんか。若し之を禜(えい)せば、令尹・司馬に移すべし」と。王曰く、「腹心の疾を除きて、諸を股肱に寘くも何の益かあらん。不穀大過有らずんば、天其れ諸を夭せんや。罪有りて罰を受く、又焉んぞ之を移さん」と。遂に禜せず。初め、昭王疾有り。卜して曰く、「河、祟りを為す」と。王祭らず。大夫、諸を郊に祭らんことを請ふ。王曰く、「三代の命祀、祭は望を越えず。江・漢・雎・章は、楚の望なり。禍福の至るは、是に過ぎず。不穀德あらずと雖も、河は罪を獲る所に非ざるなり」と。遂に祭らず。孔子曰く、「楚の昭王は大道を知れり。其の國を失はざるや宜なるかな。夏書に曰く、『惟れ彼の陶唐、彼の天常に帥(したが)ひ、此の冀方を有(たも)つ。今其の行を失ひ、其の紀綱を亂し、乃ち滅びて亡ぶ』と。又曰く、『茲に出づるは允(まこと)に茲に在り』と。己に由りて常に率へば可なり」と。

現代語訳

秋七月、楚子(昭王)は城父にいて、陳を救おうとしていた。戦うことを占うと不吉であり、退くことを占っても不吉であった。王は言った。「それなら死ぬしかない。二度も楚の軍を敗れさせるくらいなら、死んだほうがよい。盟約を捨てて仇敵から逃げるのも、死んだほうがましだ。どちらにしても死ぬのなら、仇敵と戦って死のう」。そして公子申(子西)に王位を継ぐよう命じたが、承知しなかった。次に公子結(子期)に命じたが、これも承知しなかった。そこで公子啓(子閭)に命じると、五度辞退した後で承知した。いよいよ戦おうとしたとき、王は病にかかった。庚寅の日、昭王は大冥にいる呉軍を攻め、城父で亡くなった。子閭は退いて言った。「君王はご自分の子を差し置いて我々に位を譲られた。臣下たる者がどうして君を忘れられようか。君の命令に従うのは順である。君の子を立てるのもまた順である。この二つの順は、どちらも失ってはならない」。そこで子西・子期と謀って、軍の動きを秘し、道を封鎖して(王の死を漏らさず)、越の女が生んだ王子章を迎えて王に立て、それから軍を引き揚げた(恵王)。この年、たくさんの赤い鳥のような雲が、太陽を挟むようにして三日間飛んでいた。楚子は人をやって周の太史(天文・記録の官)に尋ねさせた。周の太史は言った。「王の御身に災いが当たるのでしょう。もし禜(えい、災いを祓う祭り)をすれば、令尹や司馬に移すことができます」。王は言った。「腹や胸の病を取り除いて、手足に移したところで何の益があろう。私に大きな過ちがなければ、天がどうして私を若死にさせよう。罪があって罰を受けるのなら、どうしてそれを他人に移せようか」。そして禜を行わなかった。これより前、昭王が病気になったとき、占うと「黄河の神の祟りです」と出た。王は黄河を祭らなかった。大夫たちが郊外で黄河を祭りたいと願い出ると、王は言った。「夏・殷・周の三代以来の定めでは、諸侯の祭りは自国の境内の山川を越えない。長江・漢水・雎水・章水が楚の祭るべき山川である。禍福がやってくるのは、この範囲を出ない。私は不徳ではあっても、黄河に罪を得るいわれはない」。そしてついに祭らなかった。孔子は言った。「楚の昭王は大いなる道を知っていた。国を失わなかったのも当然である。『夏書』に『かの陶唐氏(堯)は天の常道に従い、この冀州の地を保った。いまその行いを失い、その綱紀を乱して、ついに滅び亡んだ』とある。また『ここから出たものは、まことにここに帰ってくる』ともある。自らの行いによって常道に従えばよいのだ」。

解説

呉と戦う陣中で死んだ楚の昭王の最期である。戦うも退くも不吉と出ると、昭王は「死は一なり。其れ讎に死せんか」と言い、盟約を捨てて逃げるより仇敵と戦って死ぬ道を選んだ。後継を兄弟に譲ろうとし、子閭は王を安心させるため五度辞退してから引き受けたが、死後は「二順は失ふべからず」として王の子を立てた。昭王の真骨頂は二つの逸話にある。赤い鳥のような雲を見た周の太史が、祓えば災いを大臣に移せると言うと、王は「腹心の疾を除きて、諸を股肱に寘くも何の益かあらん」と退けた。大臣は自分の手足であり、責めを移しても国は良くならない。また祟りだとされた黄河を、楚の祭るべき範囲ではないとして祭らなかった。孔子は、これを大道を知る者と評した。災いや責任を部下に移さず、自分の分を越えた取り繕いもしない。上に立つ者の責任の引き受け方を示す一句である。

この章句が説くこと

責任決断分限後継者天命

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