春秋左氏伝 / 定公五年 人各々能不能有り
申包胥曰。吾為君也。非為身也。君既定矣。又何求。且吾尤子旗。其又為諸。遂逃賞。王將嫁季芊。季芊辭曰。所以為女子。遠丈夫也。鍾建負我矣。以妻鍾建。以為樂尹。王之在隨也。子西為王輿服。以保路。國于脾洩。聞王所在。而後從王。王使由于城麇。復命。子西問高厚焉。弗知。子西曰。不能如辭。城不知高厚小大。何知。對曰。固辭不能。子使余也。人各有能有不能。王遇盜於雲中。余受其戈。其所猶在。袒而示之背。曰。此余所能也。脾洩之事。余亦弗能也。晉士鞅圍鮮虞。報觀虎之役也。
新字:申包胥曰。吾為君也。非為身也。君既定矣。又何求。且吾尤子旗。其又為諸。遂逃賞。王将嫁季芊。季芊辞曰。所以為女子。遠丈夫也。鍾建負我矣。以妻鍾建。以為楽尹。王之在随也。子西為王輿服。以保路。国于脾洩。聞王所在。而後従王。王使由于城麇。復命。子西問高厚焉。弗知。子西曰。不能如辞。城不知高厚小大。何知。対曰。固辞不能。子使余也。人各有能有不能。王遇盗於雲中。余受其戈。其所猶在。袒而示之背。曰。此余所能也。脾洩之事。余亦弗能也。晋士鞅囲鮮虞。報観虎之役也。
書き下し
申包胥曰く、「吾は君の為にするなり、身の為にするに非ざるなり。君既に定まれり、又何をか求めん。且つ吾、子旗を尤む。其れ又諸を為さんや」と。遂に賞を逃る。王、將に季芊を嫁せしめんとす。季芊辭して曰く、「女子為る所以は、丈夫に遠ざかればなり。鍾建、我を負へり」と。以て鍾建に妻はせ、以て樂尹と為す。王の隨に在るや、子西、王の輿服を為りて以て路を保ち、脾洩に國す。王の在る所を聞きて、而る後に王に從ふ。王、由于をして麇に城かしむ。復命す。子西、高厚を問ふ。知らず。子西曰く、「能はずんば辭するに如かず。城きて高厚小大を知らずんば、何をか知らん」と。對へて曰く、「固く辭するに能はずと。子、余を使ふ。人各々能くする有り、能くせざる有り。王、盜に雲中に遇ふ。余、其の戈を受く。其の所猶ほ在り」と。袒ぎて之に背を示して曰く、「此れ余の能くする所なり。脾洩の事は、余も亦た能はざるなり」と。晉の士鞅、鮮虞を圍む。觀虎の役に報ゆるなり。
現代語訳
申包胥は言った。「私は君のためにしたのであって、自分のためにしたのではない。君の位はもう安定した。この上何を求めようか。それに私は子旗(かつて功を誇って殺された楚の令尹、闘成然)を非難してきた。その私がまた同じことをしようか」。こうして褒賞から逃れた。王は季芊(王の妹)を嫁がせようとした。季芊は辞退して言った。「女子が女子であるのは、男性から身を遠ざけているからです。ところが鍾建は私を背負いました(もう他に嫁ぐことはできません)」。そこで季芊を鍾建に嫁がせ、鍾建を楽尹(楽官の長)とした。王が随にいたとき、子西は王の車と衣服をこしらえ(王がいるように装って)道筋を守り、脾洩に仮の都を置いた。王の居場所を聞いてから、王のもとに従った。王は王孫由于に麇に城を築かせた。由于が復命すると、子西が城の高さと厚さを尋ねたが、由于は知らなかった。子西は言った。「できないのなら辞退すればよかった。城を築いて高さも厚さも大きさも知らないで、何を知っているというのか」。由于は答えた。「私はできないと固く辞退しました。あなたが私を使ったのです。人にはそれぞれ得手と不得手があります。王が雲夢沢で盗賊に遭ったとき、私はその戈を受け止めました。その傷あとはまだ残っています」。肌脱ぎになって背を見せて言った。「これが私のできることです。脾洩でのようなこと(王を装って国をまとめること)は、私にもできません」。晋の士鞅は鮮虞を包囲した。観虎の戦い(晋の観虎が鮮虞に捕らえられた一件)の報復である。
解説
この章句が説くこと
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牧民忠告・事長是非毀誉(きよ)は、古(いにしえ)より政を為すに無き能わざる所なり。是(ぜ)は則ち人に帰し、非は則ち己に帰す。誉を聞けば則ち人に帰し、毀(そし)りを聞けば則ち己に帰す。長と無く弐と無く、之に処するは皆当に是くの如くなるべし。前輩雲えること有り、「恩は己より出でんことを欲すれば、怨みは将に誰にか帰せんとする」と。嗚呼、此れ真に博大なる君子の言なり。
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呂氏春秋・離俗①世の足らざる所の者は、理義なり。餘り有る所の者は、妄苟なり。民の情、足らざる所を貴び、餘り有る所を賤しむ。故に布衣人臣の行い、潔白清廉にして繩に中れば、愈々窮し愈々榮え、死すと雖も、天下愈々之を高しとするは、足らざる所なればなり。然れども理義を以て斲削すれば、神農・黃帝も猶ほ非とす可き有り。獨り舜・湯のみに微ず。飛兔・要褭は古の駿馬なるも、材は猶ほ短なる有り。故に繩墨を以て木を取れば、則ち宮室成らず。
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論語・泰伯篇子曰く、『巍々(ぎぎ)たるかな、舜・禹の天下を有つや、而(しか)も与(あずか)らず。』
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『韓非子』飭令第五十三民に餘食有れば、粟を以て爵を出ださしむ、必ず其の力を以てすれば、則ち農怠らず。三寸の管も當毋ければ、滿たすべからざるなり。官爵を授け、利禄を出だすに功を以てせざるは、是れ當無きなり。國功を以て官と爵とを授くる、此れを以て智謀を成し、威勇を以て戰ふと謂ふ、其の國敵無し。國功を以て官と爵とを授くれば、則ち治むる者省かれ、言塞がる有り、此れを治を以て治を去り、言を以て言を去り、功を以て爵を與ふる者と謂ふなり。故に國力多くして、天下之を能く侵す莫きなり。兵出づれば必ず取り、取れば必ず能く之を有ち、兵を案じて攻めざれば必ず富む。朝廷の事、小なる者も毁たず、功を效して官爵を取れば、廷に辟言有りと雖も、以て相干すを得ざるなり、是れを數を以て治むと謂ふ。力を以て攻むる者は、一を出だして十を取り、言を以て攻むる者は、十を出だして百を喪ふ。國力を好む、此れを難を以て攻むと謂ふ。國言を好む、此れを易を以て攻むと謂ふ。
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