牧民忠告 / 事長
是非毀譽,自古為政所不能無者。是則歸人,非則歸己;聞譽則歸人,聞毀則歸己;無長無貳,處之皆當如是也。前輩雲;「恩欲己出,怨將誰歸?」嗚呼,此真博大君子之言也。
新字:是非毀誉,自古為政所不能無者。是則帰人,非則帰己;聞誉則帰人,聞毀則帰己;無長無貳,処之皆当如是也。前輩雲;「恩欲己出,怨将誰帰?」嗚呼,此真博大君子之言也。
書き下し
是非毀誉(きよ)は、古(いにしえ)より政を為すに無き能わざる所なり。是(ぜ)は則ち人に帰し、非は則ち己に帰す。誉を聞けば則ち人に帰し、毀(そし)りを聞けば則ち己に帰す。長と無く弐と無く、之に処するは皆当に是くの如くなるべし。前輩雲えること有り、「恩は己より出でんことを欲すれば、怨みは将に誰にか帰せんとする」と。嗚呼、此れ真に博大なる君子の言なり。
現代語訳
物事の是非や毀誉褒貶は、昔から政治を行う上で避けられないものである。正しいことは人の手柄とし、誤りは自分の責任とする。称賛を聞けば人の功とし、非難を聞けば自分の罪とする。長官であっても次官であっても、この態度で臨むべきである。先人はこう言った。「恩恵は自分の手柄にしたいと思うなら、恨みや非難は一体誰の責任になるというのか」と。ああ、これはまことに度量の大きい君子の言葉である。
解説
本条は、組織における評価と非難の帰属をどう扱うべきかを論じる。手柄は部下や同僚に帰し、失敗の責任は自分が引き受けるという姿勢を、役職の上下を問わず貫くべきだとする。恩恵だけを自分のものにしようとすれば、必然的に恨みや非難も誰かに押し付けることになるという指摘は、功と責任は対になっているという道理を突いている。これは現代のマネジメントにおける「功は部下に、責任は自分に」という理念そのものであり、リーダーが評価の分配において自己中心的にふるまえば、組織内の信頼関係は必ず損なわれる。称賛は積極的に部下や同僚に渡し、批判や失敗の責任は自ら引き受ける度量こそが、真に人望を集めるリーダーの条件であることを本条は教えている。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
分謗責任功績度量
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