春秋左氏伝 / 定公五年 大徳は小怨を滅す
冬。十月。丁亥。殺公何藐。己丑。盟桓子于稷門之內。庚寅。大詛逐公父歜及秦遄。皆奔齊。楚子入于郢。初。鬥辛聞吳人之爭宮也。曰。吾聞之。不讓則不和。不和不可以遠征。吳爭於楚。必有亂。有亂則必歸。焉能定楚。王之奔隨也。將涉於成臼。藍尹亹涉其帑。不與王舟。及寧。王欲殺之。子西曰。子常唯思舊怨以敗。君何效焉。王曰。善。使復其所。吾以志前惡。王賞鬥辛。王孫由于。王孫圉。鍾建。鬥巢。申包胥。王孫賈。宋木。鬥懷。子西曰。請舍懷也。王曰。大德滅小怨。道也。
新字:冬。十月。丁亥。殺公何藐。己丑。盟桓子于稷門之内。庚寅。大詛逐公父歜及秦遄。皆奔斉。楚子入于郢。初。鬥辛聞呉人之争宮也。曰。吾聞之。不譲則不和。不和不可以遠征。呉争於楚。必有乱。有乱則必帰。焉能定楚。王之奔随也。将渉於成臼。藍尹亹渉其帑。不与王舟。及寧。王欲殺之。子西曰。子常唯思旧怨以敗。君何効焉。王曰。善。使復其所。吾以志前悪。王賞鬥辛。王孫由于。王孫圉。鍾建。鬥巣。申包胥。王孫賈。宋木。鬥懐。子西曰。請舎懐也。王曰。大徳滅小怨。道也。
書き下し
冬十月丁亥、公何藐を殺す。己丑、桓子に稷門の內に盟ふ。庚寅、大いに詛ひて公父歜及び秦遄を逐ふ。皆齊に奔る。楚子、郢に入る。初め、鬥辛、吳人の宮を爭ふを聞くや、曰く、「吾之を聞く、讓らざれば則ち和せず、和せざれば以て遠征すべからず、と。吳、楚に爭ふ。必ず亂有らん。亂有れば則ち必ず歸らん。焉んぞ能く楚を定めん」と。王の隨に奔るや、將に成臼を涉らんとす。藍尹亹、其の帑を涉して、王に舟を與へず。寧んずるに及びて、王、之を殺さんと欲す。子西曰く、「子常は唯だ舊怨を思ひて以て敗る。君何ぞ焉に效はん」と。王曰く、「善し」と。其の所に復せしむ。「吾以て前惡を志さん」と。王、鬥辛・王孫由于・王孫圉・鍾建・鬥巢・申包胥・王孫賈・宋木・鬥懷を賞す。子西曰く、「請ふ懷を舍てん」と。王曰く、「大德は小怨を滅す、道なり」と。
現代語訳
冬十月丁亥の日、陽虎は公何藐(季氏の一族)を殺した。己丑の日、季桓子と稷門の内で盟約を結ばせた。庚寅の日、大がかりな呪詛の儀式を行って公父歜(公父文伯)と秦遄を追放し、二人とも斉に逃れた。楚子(昭王)は郢に戻った。これより先、闘辛は呉の人々が楚の宮殿を奪い合っていると聞いて言った。「私はこう聞いている。譲り合わなければ和合しない。和合しなければ遠征はできない、と。呉は楚の地で争っている。必ず内乱が起きる。内乱が起きれば必ず帰国する。どうして楚を平定できようか」。王が随に逃れたとき、成臼を渡ろうとした。藍尹亹は自分の妻子を舟で渡し、王には舟を貸さなかった。国が落ち着くと、王は彼を殺そうとした。子西が言った。「子常(前の令尹の囊瓦)は古い恨みばかり思って国を敗りました。君がどうしてそれをまねなさるのか」。王は「よかろう」と言い、藍尹亹を元の職に戻させて言った。「私はこれで以前の自分の過ちを心に刻んでおこう」。王は闘辛・王孫由于・王孫圉・鍾建・闘巣・申包胥・王孫賈・宋木・闘懐に褒賞を与えた。子西が言った。「どうか懐はお除きください(王を殺そうとした者ですから)」。王は言った。「大きな功徳は小さな恨みを消す。それが道というものだ」。
解説
この章句が説くこと
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史記 項羽本紀項王・范増沛公の天下を有せんことを疑ふ、業已に講解し、又約に負くを悪み、諸侯の之に叛かんことを恐る、乃ち陰かに謀りて曰く、「巴・蜀は道険しく、秦の遷人皆蜀に居る。」と。乃ち曰く、「巴・蜀も亦関中の地なり。」と。故に沛公を立てて漢王と為し、巴・蜀・漢中に王とし、南鄭に都せしむ。而して関中を三分し、秦の降将を王として以て漢王を距塞す。項王乃ち章邯を立てて雍王と為し、咸陽以西に王とし、廃邱に都せしむ。長史欣は、故櫟陽の獄掾為り、嘗て項梁に徳有り。都尉董翳は、本章邯に楚に降るを勧む。故に司馬欣を立てて塞王と為し、咸陽以東河に至るまでに王とし、櫟陽に都せしむ。董翳を立てて翟王と為し、上郡に王とし、高奴に都せしむ。魏王豹を徙して西魏王と為し、河東に王とし、平陽に都せしむ。瑕丘の申陽は、張耳の嬖臣なり、先づ河南(郡)を下し、楚を河上に迎ふ、故に申陽を立てて河南王と為し、雒陽に都せしむ。韓王成は故都に因り、陽翟に都す。趙の将司馬卬河内を定め、数(しばしば)功有り、故に卬を立てて殷王と為し、河内に王とし、朝歌に都せしむ。趙王歇を徙して代王と為す。趙の相張耳素より賢にして、又従ひて関に入る、故に耳を立てて常山王と為し、趙の地に王とし、襄国に都せしむ。当陽君黥布楚の将為りて、常に軍に冠たり、故に布を立てて九江王と為し、六に都せしむ。鄱君呉芮百越を率ゐて諸侯を佐け、又従ひて関に入る、故に芮を立てて衡山王と為し、邾に都せしむ。義帝の柱国共敖兵を将ゐて南郡を撃ち、功多し、因りて敖を立てて臨江王と為し、江陵に都せしむ。燕王韓広を徙して遼東王と為す。燕の将臧荼楚に従ひて趙を救ひ、因りて従ひて関に入る、故に荼を立てて燕王と為し、薊に都せしむ。斉王田市を徙して膠東王と為す。斉の将田都従ひて共に趙を救ひ、因りて従ひて関に入る、故に都を立てて斉王と為し、臨菑に都せしむ。
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『春秋左氏伝』僖公二十三年 狐突、子を召さず二十三年春、齊侯宋を伐ち、緡を圍む、以て其の齊に盟はざるを討つなり。夏、五月、宋の襄公卒す、泓に傷つけるが故なり。秋、楚の成得臣師を帥ゐて陳を伐つ、其の宋に貳するを討つなり。遂に焦・夷を取り、頓に城きて還る。子文之が功を以て令尹と為さしむ。叔伯曰く、「子國を若何せん」と。對へて曰く、「吾以て國を靖んずるなり。夫れ大功有りて貴仕無くんば、其の人能く靖んずる者、幾か有らん」と。九月、晉の惠公卒す。懷公亡人に從ふ無からしむ。期を期して至らずんば、赦す無し。狐突の子毛及び偃、重耳に從ひて秦に在り、召さず。冬、懷公狐突を執へて曰く、「子來たらば則ち免さん」と。對へて曰く、「子の能く仕ふるや、父之に忠を教ふるは、古の制なり。名を策し質を委ぬ、貳すれば乃ち辟なり。今臣の子、名重耳に在ること、年數有り。若し又之を召さば、之に貳を教ふるなり。父子に貳を教へば、何を以てか君に事へん。刑の濫れざるは、君の明なり、臣の願ひなり。刑を淫にして以て逞しくせば、誰か則ち罪無からん。臣命を聞けり」と。乃ち之を殺す。卜偃疾と稱して出でず、曰く、「《周書》に之有り、『乃ち大いに明らかにして服す』と。己則ち明らかならずして、人を殺して以て逞しくす、亦た難からずや。民德を見ずして、唯だ戮のみ是れ聞く、其れ何の後か之れ有らん」と。
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史記 留侯世家且つ夫れ楚唯彊きこと無からしめば、六国の立つ者復た橈みて之に従はん、陛下焉んぞ得て之を臣とせん。誠に客の謀を用ひば、陛下の事去らん」と。漢王食を輟め哺を吐き、罵りて曰く、「豎儒、幾ど而公の事を敗らんとす」と。趣やかに印を銷さしむ。漢四年、韓信斉を破りて自ら立ちて斉王と為らんと欲す、漢王怒る。張良漢王に説き、漢王良をして斉王信に印を授けしむ、語は淮陰の事の中に在り。其の秋、漢王楚を追ひて陽夏の南に至り、戦ひ利あらずして固陵に壁す、諸侯期して至らず。良漢王に説く、漢王其の計を用ひ、諸侯皆至る。語は項籍の事の中に在り。漢六年正月、功臣を封ず。良未だ嘗て戦闘の功有らず、高帝曰く、「策を帷帳の中に運らし、勝ちを千里の外に決するは、子房の功なり。自ら斉の三万戸を択べ」と。良曰く、「始め臣下邳に起こり、上と留に会す、此れ天臣を以て陛下に授くるなり。陛下臣の計を用ひ、幸ひにして時に中る、臣願はくは留に封ぜらるれば足れり、敢へて三万戸に当たらず」と。乃ち張良を封じて留侯と為し、蕭何等と倶に封ず。六年、上已に大功臣二十余人を封ず、其の余は日夜功を争ひて決せず、未だ封を行ふを得ず。上雒陽の南宮に在り、複道より諸将の往往に相与に沙中に坐して語るを望み見る。上曰く、「此れ何をか語る」と。留侯曰く、「陛下知らざるか。此れ反を謀るのみ」と。上曰く、「天下属々安定す、何の故にか反せん」と。留侯曰く、「陛下布衣より起こり、此の属を以て天下を取る、今陛下天子と為り、而して封ずる所は皆蕭・曹の故人の親愛する所、而して誅する所は皆生平の仇怨する所なり。今軍吏功を計り、天下を以て遍く封ずるに足らずとす、此の属陛下の尽く封ずる能はざるを畏れ、恐らくは又平生の過失を疑はれて誅せられんことを恐る、故に即ち相聚まりて反を謀るのみ」と。上乃ち憂ひて曰く、「之を為すこと奈何」と。留侯曰く、「上の平生憎む所にして、羣臣の共に知る所、誰か最も甚だしき者ぞ」と。
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説苑・復恩晋の文公亡ぐるの時、陶叔狐従ふ、文公国に反り、三たび賞を行ひて陶叔狐に及ばず、陶叔狐咎犯に見えて曰く、「吾君に従ひて亡ぐること十有三年、顔色黎黒、手足胼胝せり、今君国に反りて三たび賞を行ふも我に及ばず、意ふに君我を忘れたるか、我大故有るか、子試みに我が為に之を君に言へ」と。咎犯之を文公に言ふ、文公曰く、「嘻、我豈に是の子を忘れんや。夫れ高明至賢、徳行全誠、我を道を以て耽しませ、我を仁を以て説ばしめ、我が行ひを暴かに浣ひ、我が名を昭明にし、我をして成人為らしめし者は、吾以て上賞と為さん。我を礼を以て防ぎ、我を誼を以て諫め、我を蕃援して我をして非を為すを得ざらしめ、数々我を賢人の門に引きて請ひし者は、吾以て次賞と為さん。夫れ勇壮強禦、難前に在れば則ち前に居り、難後に在れば則ち後に居り、我を患難の中より免れしめし者は、吾又以て之が次と為さん。且つ子独り聞かざるか、人を死せしむる者は、人の身を存するに如かず、人を亡ぼす者は、人の国を存するに如かず、三行の賞の後にして、労苦の士之に次ぐ、夫れ労苦の士は、是れ子固に首為り、豈に敢へて子を忘れんや」と。周の内史叔輿之を聞きて曰く、「文公其れ霸たらんか。昔聖王は徳を先にして力を後にす、文公其れ之に当れり、詩に云く、『率履越えず』とは、此を之れ謂ふなり」と。晋の文公国に入るに、河に至り、籩豆茵席を棄てしめ、顔色黎黒、手足胼胝せる者を後に在らしむ、咎犯之を聞き、中夜にして哭す、文公曰く、「吾亡ぐること十有九年なり、今将に国に反らんとするに、夫子喜ばずして哭するは、何ぞや、其れ吾が国に反るを欲せざるか」と。対へて曰く、「籩豆茵席は、官する所以なるに、之を棄て、顔色黎黒、手足胼胝せるは、労苦を執る所以なるに、皆之を後にす、臣聞く、国君士を蔽へば、忠臣を取る所無く、大夫遊を蔽へば、忠友を取る所無し、と。今国に至るに、臣蔽ふ所の中に在り、其の哀しみに勝へず、故に哭するなり」と。文公曰く、「禍福利害咎氏と之を同じくせざれば、白水有るが如し」と、之を祝して、璧を刀にて沈めて盟す。介子推曰く、「献公の子九人、唯だ君のみ在るのみ、天未だ晋を絶たず、必ず主有らん、晋祀を主る者君に非ずして何ぞや、唯だ二三子の者以て己が力と為すは、亦た誣ならずや」と。文公即位するも、賞推に及ばず、推が母曰く、「盍ぞ亦た之を求めざる」と。推曰く、「尤めて之に效はば、罪又甚し、且つ怨言を出だせば、其の食を食らはず」と。其の母曰く、「亦た知らしめよ」と。推曰く、「言は身の文なり、身将に隠れんとす、安んぞ文を用ゐん」と。其の母曰く、「能く是の如くんば、若と俱に隠れん」と。死に至るまで復た推に見えず。従者之を憐みて、乃ち書を宮門に懸けて曰く、「龍有り矯矯たり、頃其の所を失ふ、五蛇之に従ひ、天下を周遍す、龍飢ゑて食無し、一蛇股を割く、龍其の淵に反り、其の壤土に安んず、四蛇穴に入り、皆処る所有り、一蛇穴無く、中野に号す」と。文公出でて書を見て曰く、「嗟此れ介子推なり、吾方に王室を憂ひて其の功を図らず」と。人をして之を召さしむるに則ち亡ぐ、遂に其の在る所を求む、其の綿上山中に入るを聞く。是に於て文公綿上山中を表して之を封じ、以て介推の田と為し、号して介山と曰ふ。
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史記 斉悼恵王世家城陽の景王章は、斉の悼恵王の子なり、朱虚侯を以て大臣と共に諸呂を誅す、而して章身づから首め先づ相国呂王産を未央宮に斬る。孝文帝既に立ち、章を益封すること二千戸、金千斤を賜ふ。斉の城陽郡を以て章を立てて城陽王と為す。立ちて二年にして卒し、子喜立つ、是れを共王と為す。共王八年、徙りて淮南に王たり。四年にして、復た還りて城陽に王たり。凡そ三十三年にして卒し、子[建]延立つ、是れを頃王と為す。頃王二十八年にして卒し、子義立つ、是れを敬王と為す。敬王九年にして卒し、子武立つ、是れを恵王と為す。恵王十一年にして卒し、子順立つ、是れを荒王と為す。荒王四十六年にして卒し、子恢立つ、是れを戴王と為す。戴王八年にして卒し、子景立つ、至りて、十五歳にして、卒す。済北王興居は、斉の悼恵王の子なり、東牟侯を以て大臣を助けて諸呂を誅す、功少なし。文帝の代より来たるに及び、興居曰く、「請ふ太仆嬰と入りて宮を清めん」と。少帝を廃し、共に大臣と孝文帝を尊立す。孝文帝二年、斉の済北郡を以て興居を立てて済北王と為し、城陽王と倶に立つ。立ちて二年にして、反く。始め大臣の呂氏を誅する時、朱虚侯の功尤も大なり、尽く趙の地を以て朱虚侯を王とし、尽く梁の地を以て東牟侯を王とせんことを許す。孝文帝立つに及び、朱虚・東牟の初め斉王を立てんと欲せしを聞き、故に其の功を絀く。二年に及び、諸子を王とし、乃ち斉の二郡を割きて以て章・興居を王とす。章・興居自ら職を失ひ功を奪はると以へり。章死し、而して興居匈奴の大いに漢に入り、漢多く兵を発し、丞相灌嬰をして之を撃たしめ、文帝親ら太原に幸するを聞き、以為へらく天子自ら胡を撃つと、遂に兵を済北に発して反く。天子之を聞き、丞相及び行兵を罷め、皆長安に帰らしむ。
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