春秋左氏伝 / 定公四年 申包胥、秦庭に哭す
實與隨人要言。王使見辭曰。不敢以約為利。王割子期之心。以與隨人盟。初。伍員與申包胥友。其亡也。謂申包胥曰。我必復楚國。申包胥曰。勉之。子能復之。我必能興之。及昭王在隨。申包胥如秦乞師。曰。吳為封豕長蛇。以荐食上國。虐始於楚。寡君失守社稷。越在草莽。使下臣告急曰。夷德無厭。若鄰於君。疆埸之患也。逮吳之未定。君其取分焉。若楚之遂亡。君之土也。若以君靈。撫之。世以事君。秦伯使辭焉。曰。寡人聞命矣。子姑就館。將圖而告。對曰。寡君越在草莽。未獲所伏。下臣何敢即安。立依於庭牆而哭。日夜不絕聲。勺飲不入口。七日。秦哀公為之賦無衣。九頓首而坐。秦師乃出。
新字:実与随人要言。王使見辞曰。不敢以約為利。王割子期之心。以与随人盟。初。伍員与申包胥友。其亡也。謂申包胥曰。我必復楚国。申包胥曰。勉之。子能復之。我必能興之。及昭王在随。申包胥如秦乞師。曰。呉為封豕長蛇。以荐食上国。虐始於楚。寡君失守社稷。越在草莽。使下臣告急曰。夷徳無厭。若鄰於君。疆埸之患也。逮呉之未定。君其取分焉。若楚之遂亡。君之土也。若以君霊。撫之。世以事君。秦伯使辞焉。曰。寡人聞命矣。子姑就館。将図而告。対曰。寡君越在草莽。未獲所伏。下臣何敢即安。立依於庭牆而哭。日夜不絶声。勺飲不入口。七日。秦哀公為之賦無衣。九頓首而坐。秦師乃出。
書き下し
實に隨人と要言す。王、見えしめんとす。辭して曰く、「敢へて約を以て利と為さず」と。王、子期の心を割きて、以て隨人と盟ふ。初め、伍員、申包胥と友たり。其の亡ぐるや、申包胥に謂ひて曰く、「我必ず楚國を復さん」と。申包胥曰く、「之を勉めよ。子能く之を復さば、我必ず能く之を興さん」と。昭王の隨に在るに及び、申包胥、秦に如きて師を乞ふ。曰く、「吳は封豕長蛇為り、以て荐りに上國を食む。虐は楚より始まる。寡君、社稷を守るを失ひ、越えて草莽に在り。下臣をして急を告げしめて曰く、『夷の德は厭くこと無し。若し君に鄰せば、疆埸の患なり。吳の未だ定まらざるに逮びて、君其れ分を取れ。若し楚の遂に亡びなば、君の土なり。若し君の靈を以て之を撫せば、世々以て君に事へん』と」と。秦伯、辭せしめて曰く、「寡人、命を聞けり。子姑く館に就け。將に圖りて告げんとす」と。對へて曰く、「寡君、越えて草莽に在り、未だ伏する所を獲ず。下臣何ぞ敢へて安きに即かん」と。立ちて庭牆に依りて哭し、日夜聲を絕たず、勺飲も口に入れざること七日。秦の哀公、之が為に無衣を賦す。九たび頓首して坐す。秦の師乃ち出づ。
現代語訳
鑪金は(子期の家臣だった縁で)実は随の人と、王を引き渡さないよう約束を取り交わしていたのである。王は鑪金を引見して褒賞しようとしたが、彼は辞退して言った。「王の窮地を利用して利を得ようとはいたしません」。王は子期の胸を切り(その血をすすって)、随の人と盟約した。これより先、伍員(伍子胥)は申包胥と友人であった。伍員が楚から亡命するとき、申包胥に言った。「私は必ず楚国をくつがえしてみせる」。申包胥は言った。「励めよ。おまえが楚をくつがえせるなら、私は必ずそれを再興してみせる」。昭王が随にいるころ、申包胥は秦に行って援軍を求めた。言った。「呉は大きな猪や長い蛇のように、中原の国々を次々に食らおうとしています。その暴虐は楚から始まりました。わが君は社稷を守りきれず、都を離れて草むらの中に落ちのびております。私を遣わして急を告げさせ、こう申されました。『夷狄の欲には限りがない。もし呉が君の隣国となれば、国境の災いとなろう。呉がまだ楚を平定しきらないうちに、君は楚の地の分け前を取られよ。もし楚がこのまま滅びるなら、それは君の領土となる。もし君のご威光によって楚を安んじてくださるなら、代々君にお仕えしよう』と」。秦伯(哀公)は人をやって断らせて言った。「ご用件は承った。そなたはひとまず宿舎に入られよ。考えたうえでお知らせしよう」。申包胥は答えた。「わが君は都を離れて草むらにあり、まだ身を落ち着ける所も得ておりません。臣下の私がどうして安らかな所に就けましょうか」。そして立ったまま宮廷の垣にもたれて泣き、昼も夜も声を絶やさず、ひとさじの水も口にしないこと七日に及んだ。秦の哀公は彼のために「無衣」の詩(「子と袍を同じうせん」と、共に戦うことを歌う)を賦した。申包胥は九度頭を地につけて礼をし、座った。秦の軍はそこで出動した。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『新序』節士第七申包胥なる者は、楚人なり。吳楚兵を栢舉に敗り、遂に郢に入る。昭王出亡して隨に在り。申包胥命を受けずして秦に赴き師を乞いて曰く、吳無道の行を爲し、封豕長虵、天下を蠶食す。上國に從いて楚に始む。寡君社稷を失い、越えて草莽に在り。下臣をして急を吿げしめて曰く、吳は夷狄なり。夷狄の求むるは厭く無し。楚を滅ぼさば則ち西のかた君と境を接す。君に隣するが若きは、疆□の患いなり。吳の未だ定まらざるに逮び、君其れ之を圖れ。若し君の靈を得て、楚國を存撫せば、世ミ以て君に事えん、と。秦伯をして辭せしむ。曰く、寡君命を聞けり。子其れ館に就け。將に圖りて子に吿げん、と。對えて曰く、寡君越えて草莽に在り。未だ休する所を獲ず。下臣何ぞ敢えて安きに即かん、と。庭牆に倚りて立ちて哭す。日夜聲を絶たず。水漿口に入らず、七日七夜。秦の哀公爲に無衣の詩を賦す。兵今出でんと言うなり。包胥九たび頓首して坐す。秦の哀公曰く、楚に此くの若き臣有りて亡ぶ。吾に此くの若き臣無し。吾が亡ぶること日無からん、と。是に於いて乃ち師を出して楚を救う。
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説苑・至公子胥將に呉に之かんとし、其の友申包胥に辭して曰く、「後三年、楚亡びずんば、吾子に見えざらん」と。申包胥曰く、「子其れ勉めよ、吾未だ以て子を助くべからず、子を助くるは是れ宗廟を伐つなり、子を止むるは以て友為ること無し。然りと雖も、子は之を亡ぼし、我は之を存す、是に於てか楚の一存一亡を觀んか」と。後三年、呉師楚を伐ち、昭王出走す、申包胥命を受けずして西のかた秦伯に見えて曰く、「呉道無く、兵強く人眾く、將に天下を征せんとし、楚に始まる。寡君出走し、雲夢に居り、下臣をして急を告げしむ」と。哀公曰く、「諾、吾固より將に之を圖らんとす」と。申包胥朝を罷めず、秦の庭に立ちて、晝夜哭し、七日七夜聲を絕たず。哀公曰く、「臣此くの如き有り、救わざるべけんや」と。師を興して楚を救う、呉人之を聞き、兵を引きて還る、昭王反り、復た申包胥に封ぜんと欲す、申包胥辭して曰く、「亡を救うは名の為にするに非ざるなり、功成りて賜を受くるは、是れ勇を賣るなり」と。辭して受けず、遂に退隱し、終身見えず。詩に云う、「凡そ民喪有れば、匍匐して之を救う」と。
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史記 伍子胥列伝始め伍員、申包胥と交はりを為す。員の亡ぐるや、包胥に謂ひて曰く、「我必ず楚を覆さん」と。包胥曰く、「我必ず之を存せん」と。呉兵郢に入るに及び、伍子胥昭王を求む。既に得ず、乃ち楚の平王の墓を掘き、其の尸を出だし、之を鞭つこと三百、然る後已む。申包胥山中に亡げ、人をして子胥に謂はしめて曰く、「子の讎を報ずる、其れ以て甚だしきかな。吾之を聞く、人衆き者は天に勝つも、天定まりて亦た能く人を破る、と。今子は故と平王の臣なり、親しく北面して之に事ふるに、今死人を僇するに至る。此れ豈に其れ天道無きの極みか」と。伍子胥曰く、「我が為に申包胥に謝して曰へ、吾日莫れて途遠し、吾故に倒行して之を逆施せり、と」。是に於いて申包胥秦に走りて急を告げ、救ひを秦に求む。秦許さず。包胥秦の廷に立ちて、昼夜哭し、七日七夜其の声を絶たず。秦の哀公之を憐みて曰く、「楚無道なりと雖も、臣の是の若き有り、存する無かる可けんや」と。乃ち車五百乗を遣して楚を救ひ呉を撃たしむ。六月、呉兵を稷に敗る。会々呉王久しく楚に留まりて昭王を求め、而して闔廬の弟夫概乃ち亡げ帰り、自立して王と為る。闔廬之を聞き、乃ち楚を釈てて帰り、其の弟夫概を撃つ。夫概敗走し、遂に楚に奔る。楚の昭王呉に内乱有るを見、乃ち復た郢に入る。夫概を堂谿に封じ、堂谿氏と為す。楚復た呉と戦ひ、呉を敗り、呉王乃ち帰る。
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史記 秦本紀景公の母弟後子鍼寵有り。景公の母弟富む。或いは之を譖す。誅せられんことを恐れ、乃ち晋に奔る。車重千乗。晋の平公曰く、「后子富むこと此の如し、何を以て自ら亡ぐるや」と。対へて曰く、「秦公無道にして、誅を畏る。其の後世を待ちて乃ち帰らんと欲す」と。三十九年、楚の霊王彊く、諸侯を申に会し、盟主と為り、斉の慶封を殺す。景公立つこと四十年にして卒し、子哀公立つ。后子復た来たりて秦に帰る。哀公の八年、楚の公子棄疾霊王を弒して自立す。是を平王と為す。十一年、楚の平王来たりて秦の女を求めて太子建の妻と為さんとす。国に至るに、女好くして自ら之を娶る。十五年、楚の平王建を誅せんと欲す。建亡げ、伍子胥呉に奔る。晋の公室卑くして六卿彊く、内に相攻めんと欲す。是を以て久しく秦・晋相攻めず。三十一年、呉王闔閭伍子胥と楚を伐つ。楚王亡げて随に奔り、呉遂に郢に入る。楚の大夫申包胥来たりて急を告げ、七日食はず、日夜哭泣す。是に於て秦乃ち五百乗を発して楚を救ひ、呉の師を敗る。呉の師帰り、楚の昭王乃ち復た郢に入るを得たり。哀公立つこと三十六年にして卒す。太子夷公、夷公蚤く死して、立つを得ず。夷公の子を立つ。是を恵公と為す。恵公の元年、孔子魯の相事を行ふ。五年、晋の卿中行・范氏晋に反く。晋智氏・趙簡子をして之を攻めしむ。范・中行氏亡げて斉に奔る。恵公立つこと十年にして卒し、子悼公立つ。悼公の二年、斉の臣田乞其の君孺子を弒し、其の兄陽生を立つ。是を悼公と為す。六年、呉斉の師を敗る。斉人悼公を弒し、其の子簡公を立つ。九年、晋の定公呉王夫差と盟ひ、長を黄池に争ふ。卒に呉を先とす。呉彊く、中国を陵ぐ。十二年、斉の田常簡公を弒し、其の弟平公を立て、常之に相たり。十三年、楚陳を滅ぼす。
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『淮南子』脩務訓申包胥 筋力を竭くして以て嚴敵に赴くも、屍を伏せ血を流すは、一卒の才に過ぎず。身を約し辭を卑くして、諸侯に求むるに如かず。是に於いて乃ち糧を贏い跣にして走り、跋涉して穀行し、峭山に上り、深溪に赴き、川水を游ぎ、津關を犯し、蒙籠を躐え、沙石に蹶く。蹠 膝に達し、曾繭 重胝たり。七日七夜、秦庭に至る。鶴のごとく跱ちて食らわず、晝に吟じ宵に哭す。面は死灰の若く、顏色 黴墨たり。涕液 交々集まりて、以て秦王に見ゆ。
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『春秋左氏伝』定公四年 随、昭王を渡さず唯だ仁者のみ之を能くす。彊きを違けて弱きを陵ぐは、勇に非ざるなり。人の約に乘ずるは、仁に非ざるなり。宗を滅ぼし祀を廢するは、孝に非ざるなり。動きて令名無きは、知に非ざるなり。必ず是を犯さば、余將に女を殺さんとす」と。鬥辛、其の弟巢と、王を以て隨に奔る。吳人、之に從ひ、隨人に謂ひて曰く、「周の子孫の漢川に在る者、楚實に之を盡くせり。天、其の衷を誘ひ、罰を楚に致す。而るに君又之を竄す。周室何の罪かある。君若し周室に報ゆるを顧み、施して寡人に及ぼし、以て天衷を獎めば、君の惠なり。漢陽の田、君實に之を有たん」と。楚子は公宮の北に在り、吳人は其の南に在り。子期、王に似たり。王を逃し、而して己、王と為りて曰く、「我を以て之に與へよ。王必ず免れん」と。隨人、之に與ふることを卜す。吉ならず。乃ち吳に辭して曰く、「隨の辟小にして、楚に密邇するを以て、楚實に之を存せり。世々盟誓有りて、今に至るまで未だ改めず。若し難にして之を棄てば、何を以て君に事へん。執事の患は、唯だ一人のみならず。若し楚の竟を鳩んぜば、敢へて命を聽かざらんや」と。吳人乃ち退く。鑪金は初め子期氏に官たり。
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