史記 / 伍子胥列伝
始伍員與申包胥為交、員之亡也、謂包胥曰、我必覆楚。包胥曰、我必存之。及吳兵入郢、伍子胥求昭王。既不得、乃掘楚平王墓、出其尸、鞭之三百、然後已。申包胥亡於山中、使人謂子胥曰、子之報讎、其以甚乎。吾聞之、人眾者勝天、天定亦能破人。今子故平王之臣、親北面而事之、今至於僇死人、此豈其無天道之極乎。伍子胥曰、為我謝申包胥曰、吾日莫途遠、吾故倒行而逆施之。於是申包胥走秦告急、求救於秦。秦不許。包胥立於秦廷、晝夜哭、七日七夜不絕其聲。秦哀公憐之、曰、楚雖無道、有臣若是、可無存乎。乃遣車五百乘救楚擊吳。六月、敗吳兵於稷。會吳王久留楚求昭王、而闔廬弟夫概乃亡歸、自立為王。闔廬聞之、乃釋楚而歸、擊其弟夫概。夫概敗走、遂奔楚。楚昭王見吳有內亂、乃復入郢。封夫概於堂谿、為堂谿氏。楚復與吳戰、敗吳、吳王乃歸。
新字:始伍員与申包胥為交、員之亡也、謂包胥曰、我必覆楚。包胥曰、我必存之。及吳兵入郢、伍子胥求昭王。既不得、乃掘楚平王墓、出其尸、鞭之三百、然後已。申包胥亡於山中、使人謂子胥曰、子之報讎、其以甚乎。吾聞之、人眾者勝天、天定亦能破人。今子故平王之臣、親北面而事之、今至於僇死人、此豈其無天道之極乎。伍子胥曰、為我謝申包胥曰、吾日莫途遠、吾故倒行而逆施之。於是申包胥走秦告急、求救於秦。秦不許。包胥立於秦廷、昼夜哭、七日七夜不絶其声。秦哀公憐之、曰、楚雖無道、有臣若是、可無存乎。乃遣車五百乗救楚擊吳。六月、敗吳兵於稷。会吳王久留楚求昭王、而闔廬弟夫概乃亡帰、自立為王。闔廬聞之、乃釈楚而帰、擊其弟夫概。夫概敗走、遂奔楚。楚昭王見吳有内乱、乃復入郢。封夫概於堂谿、為堂谿氏。楚復与吳戦、敗吳、吳王乃帰。
書き下し
始め伍員、申包胥と交はりを為す。員の亡ぐるや、包胥に謂ひて曰く、「我必ず楚を覆さん」と。包胥曰く、「我必ず之を存せん」と。呉兵郢に入るに及び、伍子胥昭王を求む。既に得ず、乃ち楚の平王の墓を掘き、其の尸を出だし、之を鞭つこと三百、然る後已む。申包胥山中に亡げ、人をして子胥に謂はしめて曰く、「子の讎を報ずる、其れ以て甚だしきかな。吾之を聞く、人衆き者は天に勝つも、天定まりて亦た能く人を破る、と。今子は故と平王の臣なり、親しく北面して之に事ふるに、今死人を僇するに至る。此れ豈に其れ天道無きの極みか」と。伍子胥曰く、「我が為に申包胥に謝して曰へ、吾日莫れて途遠し、吾故に倒行して之を逆施せり、と」。是に於いて申包胥秦に走りて急を告げ、救ひを秦に求む。秦許さず。包胥秦の廷に立ちて、昼夜哭し、七日七夜其の声を絶たず。秦の哀公之を憐みて曰く、「楚無道なりと雖も、臣の是の若き有り、存する無かる可けんや」と。乃ち車五百乗を遣して楚を救ひ呉を撃たしむ。六月、呉兵を稷に敗る。会々呉王久しく楚に留まりて昭王を求め、而して闔廬の弟夫概乃ち亡げ帰り、自立して王と為る。闔廬之を聞き、乃ち楚を釈てて帰り、其の弟夫概を撃つ。夫概敗走し、遂に楚に奔る。楚の昭王呉に内乱有るを見、乃ち復た郢に入る。夫概を堂谿に封じ、堂谿氏と為す。楚復た呉と戦ひ、呉を敗り、呉王乃ち帰る。
現代語訳
かつて伍員は申包胥と親交があった。員が亡命するとき、包胥に言った。「私は必ず楚を覆してみせる」。包胥は言った。「私は必ず楚を守ってみせる」。呉軍が郢に入ると、伍子胥は昭王を探した。だが見つからないので、楚の平王の墓を掘り返して遺体を引き出し、三百回むち打って、ようやくやめた。申包胥は山中に逃れ、人をやって子胥に言わせた。「あなたの仇の報い方は、あまりに度が過ぎている。私はこう聞いている――人の数が多ければ一時は天に勝つこともあるが、天の理が定まればやはり人を打ち破る、と。あなたはもと平王の臣であり、みずから北面して仕えた身だ。それが今や死者を辱めるまでに至った。これこそ天の道をないがしろにする極みではないか」。伍子胥は言った。「私に代わって申包胥にこう伝えてくれ。私は日が暮れかけているのに道はまだ遠い。だから道理を逆さまにしてでも急いだのだ、と」。そこで申包胥は秦へ走って窮状を訴え、救援を求めた。秦は許さなかった。包胥は秦の朝廷に立ち、昼も夜も泣き続け、七日七晩、声を絶やさなかった。秦の哀公はこれを憐れんで言った。「楚に道はないとはいえ、これほどの臣がいるのだ。滅ぶままにしておいてよいものか」。そして戦車五百乗を出し、楚を救って呉を撃たせた。六月、呉軍を稷で破った。ちょうどそのころ、呉王は長らく楚に留まって昭王を探していたが、闔廬の弟の夫概が本国へ逃げ帰り、勝手に王を名乗った。闔廬はこれを聞き、楚を捨てて帰国し、弟の夫概を攻めた。夫概は敗走し、楚へ亡命した。楚の昭王は呉に内乱が起きたのを見て、ふたたび郢に戻った。夫概を堂谿に封じ、堂谿氏とした。楚はまた呉と戦い、呉を破ったので、呉王はそのまま帰国した。
解説
この章句が説くこと
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孔子家語・六本孔子斉に在り、外館に舎る。景公造く。賓主の辞既に接するや、左右白して曰わく、「周の使い適に至り、先王の廟災すと言う。」景公覆た災は何れの王の廟なるかを問う。孔子曰わく、「此れ必ず厘王の廟ならん。」公曰わく、「何を以て之れを知るや。」孔子曰わく、「詩に云う、『皇皇たる上天、其の命忒わず。天の善を以てするや、必ず其の徳に報ゆ。』禍も亦た之れの如し。夫れ厘王は文武の制を変じ、玄黄華麗の飾りを作り、宮室崇峻に、輿馬奢侈にして、振るう可からず。故に天殃宜しく其の廟に加うべし、是を以て之れを占なうに然りと為す。」公曰わく、「天何ぞ其の身を殃せずして、其の廟に罰を加うるや。」孔子曰わく、「蓋し文武を以ての故なり。若し其の身を殃せば、則ち文武の嗣、乃ち殄びんとするに無からんや。故に当に其の廟を殃すべく、以て其の過ちを彰らかにす。」俄頃にして、左右報じて曰わく、「災する所は、厘王の廟なり。」景公驚き起ちて、再拝して曰わく、「善いかな、聖人の智、人に過ぐること遠し。」
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孔子家語・大婚解公曰く、「君子何ぞ天道を貴ぶや。」孔子曰く、「其の已まざるを貴ぶなり。日月東西相従いて已まざるが如きなり。是れ天道なり。閉じずして能く久しき、是れ天道なり。無為にして物成る、是れ天道なり。已に成りて之を明らかにする、是れ天道なり。」公曰く、「寡人且つ愚冥なり、幸いに子の心を煩わさん。」孔子蹴然として席を避けて対えて曰く、「仁人は物に過ぎず、孝子は親に過ぎず。是の故に仁人の親に事うるや天に事うるが如く、天に事うるや親に事うるが如し。此を孝子の身を成すと謂う。」公曰く、「寡人既に此くの如き言を聞く、後の罪を如何せんこと無きか。」孔子対えて曰く、「君子此の言に及ぶは、是れ臣の福なり。」
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説苑・說叢天與えて取らざれば、反って其の咎を受く。時至りて迎えざれば、反って其の殃を受く。天地親しむ無く、常に善人に與す。天道常有り、堯の為に存せず、桀の為に亡びず。善を積むの家には、必ず餘慶有り。惡を積むの家には、必ず餘殃有り。一噎の故に、穀を絕ちて食らわず。一蹶の故に、足を卻けて行かず。心天地の如き者は明らかに、行い繩墨の如き者は章らかなり。位高くして道大なる者は從い、事大にして道小なる者は凶なり。言疑わしき者は犯す無く、行い疑わしき者は從う無し。蠹蝝は柱梁を仆し、蚊虻は牛羊を走らす。
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言志四録・南洲手抄自ら彊めて息まざるは天道なり、君子の以ゐる所なり。虞舜の孳孳として善を為し、大禹の日に孜孜せんことを思ひ、成湯の苟に日に新にせる、文王の遑あき暇あらざる、周公の坐して以て旦を待つ、孔子の憤りを発して食を忘るる如きは、皆是なり。彼の徒に静養瞑坐を事とすのみならば、則ち此の学脈と背馳す。
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