新序 / 節士第七
申包胥者,楚人也。吳敗楚兵於栢舉,遂入郢,昭王出亡在隨,申包胥不受命而赴於秦乞師,曰:「吳為無道行,封豕長虵,蠶食天下,從上國始於楚,寡君失社稷,越在草莽,使下臣告急曰:『吳,夷狄也。夷狄之求無厭,滅楚則西與君接境,若隣於君,疆□之患也,逮吳之未定,君其圗之,若得君之靈,存撫楚國,世以事君。』」秦伯使辭焉。曰:「寡君聞命矣,子其就館,將圗而告子。」對曰:「寡君越在草莽,未獲所休,下臣何敢即安。」倚於庭牆立哭,日夜不絶聲,水漿不入口,七日七夜。秦哀公為賦無衣之詩,言兵今出。包胥九頓首而坐,秦哀公曰:「楚有臣若此而亡,吾無臣若此,吾亡無日矣。」於是乃出師救楚。
新字:申包胥者,楚人也。呉敗楚兵於栢舉,遂入郢,昭王出亡在随,申包胥不受命而赴於秦乞師,曰:「呉為無道行,封豕長虵,蠶食天下,従上国始於楚,寡君失社稷,越在草莽,使下臣告急曰:『呉,夷狄也。夷狄之求無厭,滅楚則西与君接境,若隣於君,疆□之患也,逮呉之未定,君其図之,若得君之霊,存撫楚国,世以事君。』」秦伯使辞焉。曰:「寡君聞命矣,子其就館,将図而告子。」対曰:「寡君越在草莽,未獲所休,下臣何敢即安。」倚於庭牆立哭,日夜不絶声,水漿不入口,七日七夜。秦哀公為賦無衣之詩,言兵今出。包胥九頓首而坐,秦哀公曰:「楚有臣若此而亡,吾無臣若此,吾亡無日矣。」於是乃出師救楚。
書き下し
申包胥なる者は、楚人なり。吳楚兵を栢舉に敗り、遂に郢に入る。昭王出亡して隨に在り。申包胥命を受けずして秦に赴き師を乞いて曰く、吳無道の行を爲し、封豕長虵、天下を蠶食す。上國に從いて楚に始む。寡君社稷を失い、越えて草莽に在り。下臣をして急を吿げしめて曰く、吳は夷狄なり。夷狄の求むるは厭く無し。楚を滅ぼさば則ち西のかた君と境を接す。君に隣するが若きは、疆□の患いなり。吳の未だ定まらざるに逮び、君其れ之を圖れ。若し君の靈を得て、楚國を存撫せば、世ミ以て君に事えん、と。秦伯をして辭せしむ。曰く、寡君命を聞けり。子其れ館に就け。將に圖りて子に吿げん、と。對えて曰く、寡君越えて草莽に在り。未だ休する所を獲ず。下臣何ぞ敢えて安きに即かん、と。庭牆に倚りて立ちて哭す。日夜聲を絶たず。水漿口に入らず、七日七夜。秦の哀公爲に無衣の詩を賦す。兵今出でんと言うなり。包胥九たび頓首して坐す。秦の哀公曰く、楚に此くの若き臣有りて亡ぶ。吾に此くの若き臣無し。吾が亡ぶること日無からん、と。是に於いて乃ち師を出して楚を救う。
現代語訳
申包胥という人は、楚の人である。呉が楚の軍を柏挙で破り、そのまま郢に入った。昭王は逃れて随にいた。申包胥は命令を受けないまま秦に行って援軍を乞い、こう言った。「呉は無道な振る舞いをし、大きな猪や長い蛇のように、天下を蚕食しています。大国から順に、まず楚から始めました。わが君は社稷を失い、草むらの中に身を寄せております。下臣に急を告げさせて申します。呉は夷狄です。夷狄の求めるところには際限がありません。楚を滅ぼせば西で君と境を接します。君の隣になるということは、国境〔一字を欠く〕の患いです。呉がまだ定まらないうちに、君よ、どうかお考えください。もし君の御威光を得て、楚の国を保ち安んじていただけるなら、代々もって君にお仕えします」。秦伯は人をやって断らせた。「わが君は仰せを聞いた。あなたはひとまず宿舎に入られよ。相談のうえで申し上げよう」。答えて言った。「わが君は草むらの中におります。まだ休む場所を得ておりません。下臣がどうして安らかな場所に就けましょう」。庭の壁に寄りかかって立ったまま泣いた。昼も夜も声を絶やさなかった。水も飲まず、七日七夜。秦の哀公はそのために「無衣」の詩を賦した。兵をいま出す、という意味である。包胥は九度頭を地につけて座った。秦の哀公は言った。「楚にはこのような臣がいて滅びようとしている。私にはこのような臣がいない。私が滅びるのも遠くはあるまい」。そこで軍を出して楚を救った。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『春秋左氏伝』襄公二十八年 遠慮と近憂十二月乙亥朔、齊人、莊公を遷して大寢に殯す。其の棺を以て崔杼を市に尸す。國人猶ほ之を知り、皆曰く、「崔子なり」と。宋の盟の為の故に、公及び宋公・陳侯・鄭伯・許男、楚に如く。公、鄭を過ぐ。鄭伯在らず。伯有、黃崖に迋勞す。敬せず。穆叔曰く、「伯有、鄭に戾無くんば、鄭必ず大咎有らん。敬は民の主なり。而るに之を棄つ、何を以て守を承けん。鄭人討たずんば、必ず其の辜を受けん。濟澤の阿、行潦の蘋藻、諸を宗室に寘き、季蘭之を尸る、敬なり。敬棄つべけんや」と。漢に及ぶ。楚の康王卒す。公反らんと欲す。叔仲昭伯曰く、「我は楚國を之れ為す。豈に一人の為に行かんや」と。子服惠伯曰く、「君子は遠慮有り、小人は邇きに從ふ。飢寒をこれ恤へずんば、誰か其の後に遑あらん。姑く歸るに如かず」と。叔孫穆子曰く、「叔仲子は之を專らにせん。子服子は始學者なり」と。榮成伯曰く、「遠圖する者は忠なり」と。公遂に行く。宋の向戌曰く、「我は一人の為にして、楚の為にするに非ず。飢寒をこれ恤へずんば、誰か能く楚を恤へん。姑く歸りて民を息め、其の君を立つるを待ちて之が備へを為さん」と。宋公遂に反る。楚の屈建卒す。趙文子、之を喪すること同盟の如くす。禮なり。王人來りて喪を告ぐ。崩日を問ふに、甲寅を以て告ぐ。故に之を書す、以て過ちを徵すなり。
-
史記 鄭世家繆氏は、霊公を殺せし子公の族家なり。去疾曰く、「必ず繆氏を去らば、我将に之を去らんとす」と。乃ち止む。皆以て大夫と為す。襄公元年、楚、鄭の宋の賂を受けて華元を縦すを怒り、鄭を伐つ。鄭楚に背き、晋と親しむ。五年、楚復た鄭を伐ち、晋来りて之を救ふ。六年、子家卒す。国人復た其の族を逐ふ。其の霊公を弑せしを以てなり。七年、鄭、晋と鄢陵に盟ふ。八年、楚の荘王、鄭の晋と盟ふを以て、来りて伐ち、鄭を囲むこと三月、鄭城を以て楚に降る。楚王皇門より入る。鄭の襄公肉袒して羊を掔きて以て迎へて曰く、「孤辺邑に事ふること能はず、君王をして怒りを懐きて以て獘邑に及ばしむ。孤の罪なり。敢へて惟だ命を是れ聴かざらんや。君王之を江南に遷し、及び以て諸侯に賜ふも、亦惟だ命を是れ聴かん。若し君王、厲・宣王、桓・武公を忘れず、哀れみて其の社稷を絶つに忍びず、不毛の地を錫ひ、復た君王に改め事ふることを得しめば、孤の願ひなり。然れども敢へて望む所に非ざるなり。敢へて腹心を布き、惟だ命を是れ聴かん」と。荘王為に三十里を卻きて後に舎る。楚の群臣曰く、「郢より此に至るまで、士大夫も亦久しく労せり。今国を得て之を捨つ、何如」と。荘王曰く、「伐つ所為の者は、服せざるを伐つなり。今已に服す、尚何をか求めんや」と。卒に去る。晋、楚の鄭を伐つを聞き、兵を発して鄭を救ふ。其の来るや両端を持す、故に遅し。河に至る比、楚の兵已に去る。晋の将率或いは渡らんと欲し、或いは還らんと欲す。卒に河を渡る。荘王聞き、還りて晋を撃つ。鄭反りて楚を助け、大いに晋軍を河上に破る。十年、晋来りて鄭を伐つ。其の晋に反きて楚に親しむを以てなり。十一年、楚の荘王宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋の景公兵を発して宋を救はんと欲す。伯宗晋君を諫めて曰く、「天方に楚を開く、未だ伐つべからざるなり」と。乃ち壮士を求めて霍人解揚、字は子虎を得、楚を誆きて、宋をして降る毋からしめんとす。鄭を過る。鄭は楚と親し、乃ち解揚を執へて楚に献ず。
-
史記 秦本紀是に於て繆公晋君を虜にして以て帰り、国に令す、「斉宿せよ、吾将に晋君を以て上帝を祠らんとす」と。周の天子之を聞きて、曰く「晋は我が同姓なり」と、為に晋君を請ふ。夷吾の姊も亦繆公の夫人為り。夫人之を聞き、乃ち衰絰して跣し、曰く、「妾が兄弟相救ふ能はず、以て君命を辱めしむ」と。繆公曰く、「我晋君を得て以て功と為す。今天子為に請ひ、夫人是れ憂ふ」と。乃ち晋君と盟ひ、之を帰すことを許し、更めて上舎に舎せしめ、而して之に七牢を饋る。十一月、晋君夷吾を帰す。夷吾其の河西の地を献じ、太子圉をして秦に質たらしむ。秦子圉に妻はすに宗女を以てす。是の時秦の地東のかた河に至る。十八年、斉の桓公卒す。二十年、秦梁・芮を滅ぼす。二十二年、晋の公子圉晋君の病むを聞きて、曰く、「梁は、我が母の家なり。而るに秦之を滅ぼす。我兄弟多し、即し君百歳の後、秦必ず我を留めん。而して晋我を軽んじ、亦更に他子を立てん」と。子圉乃ち亡げて晋に帰る。二十三年、晋の恵公卒し、子圉立ちて君と為る。秦圉の亡げ去りしを怨み、乃ち晋の公子重耳を楚より迎へ、而して妻はすに故の子圉の妻を以てす。重耳初め謝し、後乃ち受く。繆公益礼して厚く之を遇す。二十四年春、秦人をして晋の大臣に告げしめ、重耳を入れんと欲す。晋之を許す。是に於て人をして重耳を送らしむ。二月、重耳立ちて晋君と為る。是を文公と為す。文公人をして子圉を殺さしむ。子圉は是を懐公と為す。其の秋、周の襄王の弟帯翟を以て王を伐ち、王出でて鄭に居る。二十五年、周王人をして難を晋・秦に告げしむ。秦の繆公兵を将ゐて晋の文公を助けて襄王を入れ、王の弟帯を殺す。二十八年、晋の文公楚を城濮に敗る。三十年、繆公晋の文公を助けて鄭を囲む。鄭人をして繆公に言はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり、而るに秦は未だ利有らず。晋の彊きは、秦の憂ひなり」と。繆公乃ち兵を罷めて帰る。晋も亦罷む。
-
史記 匈奴列伝是に於て孝文帝丞相灌嬰に詔して車騎八万五千を発し、高奴に詣りて、右賢王を撃たしむ。右賢王走りて塞を出づ。文帝太原に幸す。是の時済北王反す。文帝帰り、丞相の胡を撃つの兵を罷む。其の明年、単于漢に書を遺りて曰く、「天の立つる所の匈奴の大単于、敬みて皇帝の恙無きを問ふ。前時皇帝和親の事を言ふ。書の意に称ひ、合歓す。漢の辺吏右賢王を侵侮す。右賢王請はずして、後義盧侯難氏等の計を聴き、漢の吏と相距ぎ、二主の約を絶ち、兄弟の親を離る。皇帝の譲むる書再び至る。使を発して書を以て報ずるも、来らず。漢の使至らず。漢其の故を以て和せず、隣国附かず。今小吏の約を敗るの故を以て、右賢王を罰し、之をして西のかた月氏を求めて之を撃たしむ。天の福を以て、吏卒良く、馬彊力にして、以て月氏を夷滅し、尽く斬殺して之を降下す。楼蘭・烏孫・呼掲及び其の旁の二十六国を定め、皆以て匈奴と為す。諸々の弓を引くの民、并せて一家と為る。北州已に定まる。願はくは兵を寝め士卒を休め馬を養ひ、前事を除き、故約を復し、以て辺民を安んじ、以て始古に応じ、少者をして其の長を成すを得しめ、老者をして其の処に安んぜしめ、世世平楽ならん。未だ皇帝の志を得ざるなり。故に郎中系雩浅をして書を奉じて請はしめ、橐他一匹、騎馬二匹、駕二駟を献ず。皇帝即し匈奴の塞に近づくを欲せずんば、則ち且く吏民に詔して遠く舎せしめん。使者至らば、即ち之を遣れ」と。六月中を以て来りて薪望の地に至る。書至る。漢撃つと和親と孰れか便なるかを議す。公卿皆曰く、「単于新たに月氏を破り、勝に乗ず。撃つべからず。且つ匈奴の地を得るとも、沢鹵にして、居るべきに非ざるなり。和親甚だ便なり」と。漢之を許す。孝文皇帝の前六年、漢匈奴に書を遺りて曰く、「皇帝敬みて匈奴の大単于の恙無きを問ふ。
-
『晏子春秋』雑下・晏子使吳吳王命儐者稱天子晏子詳惑晏子呉に使いす。呉王行人に謂いて曰く、「吾聞く、晏嬰は蓋し北方の辞に弁にして、礼に習う者なりと。儐者に命ぜよ、『客見ゆれば則ち天子請見すと称せよ』と」と。明日、晏子事有り。行人曰く、「天子請見す」と。晏子蹴然たり。行人又曰く、「天子請見す」と。晏子蹴然たり。又曰く、「天子請見す」と。晏子蹴然たること三たび、曰く、「臣命を弊邑の君に受け、将に呉王の所に使いせんとす。不敏にして迷惑するを以て、天子の朝に入れり。敢えて問う、呉王は悪くにか存する」と。然る後呉王曰く、「夫差請見す」と。之に見ゆるに諸侯の礼を以てす。
-
史記 春申君列伝春申君は楚人なり、名は歇、姓は黄氏。游学して博聞、楚の頃襄王に事ふ。頃襄王、歇を以て弁と為し、秦に使ひせしむ。秦の昭王、白起をして韓・魏を攻めしめ、これを華陽に敗り、魏将芒卯を禽にす。韓・魏服して秦に事ふ。秦の昭王方に白起をして韓・魏と共に楚を伐たしめんとし、未だ行かず、而して楚の使ひ黄歇適々秦に至り、秦の計を聞く。是の時に当たり、秦已に前に白起をして楚を攻めしめ、巫・黔中の郡を取り、鄢郢を抜き、東して竟陵に至る。楚の頃襄王、東に徙りて陳県に治す。黄歇は楚の懐王の秦に誘はれて入朝し、遂に欺かれて留められ秦に死するを見る。頃襄王はその子なり、秦これを軽んず、恐らくは壹たび兵を挙げて楚を滅ぼさん。歇乃ち上書して秦の昭王に説きて曰く、天下に秦・楚より彊きは莫し。今聞く、大王楚を伐たんと欲すと。此れ猶ほ両虎の相与に闘ふがごとし。両虎相与に闘へば駑犬その獘を受く、楚を善くするに如かず。臣請ふその説を言はん。臣聞く、物至れば則ち反る、冬夏是れなり。致至れば則ち危ふし、累棋是れなり。今、大国の地は、遍く天下にその二垂を有す、此れ生民より已来、万乗の地の未だ嘗て有らざる所なり。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る