春秋左氏伝 / 昭公二十五年 昭公、季氏を伐つ
此之謂不能庸先君之廟。大夫遂怨平子。公若獻弓於公為。且與之出射於外。而謀去季氏。公為告公果。公賁。公果。公賁。使侍人僚柤告公。公寢。將以戈擊之。乃走。公曰。執之。亦無命也。懼而不出。數月不見。公不怒。又使言。公執戈以懼之。乃走。又使言。公曰。非小人之所及也。公果自言。公以告臧孫。臧孫以難。告郈孫。郈孫以可勸。告子家懿伯。懿伯曰。讒人以君徼幸。事若不克。君受其名。不可為也。舍民數世以求克。事不可必也。且政在焉。其難圖也。公退之。辭曰。臣與聞命矣。言若洩。臣不獲死。乃館於公。叔孫昭子如闞。公居於長府。九月。戊戌。伐季氏。殺公之于門。遂入之。平子登臺而請。曰。君不察臣之罪。
新字:此之謂不能庸先君之廟。大夫遂怨平子。公若献弓於公為。且与之出射於外。而謀去季氏。公為告公果。公賁。公果。公賁。使侍人僚柤告公。公寝。将以戈撃之。乃走。公曰。執之。亦無命也。懼而不出。数月不見。公不怒。又使言。公執戈以懼之。乃走。又使言。公曰。非小人之所及也。公果自言。公以告臧孫。臧孫以難。告郈孫。郈孫以可勧。告子家懿伯。懿伯曰。讒人以君徼幸。事若不克。君受其名。不可為也。舎民数世以求克。事不可必也。且政在焉。其難図也。公退之。辞曰。臣与聞命矣。言若洩。臣不獲死。乃館於公。叔孫昭子如闞。公居於長府。九月。戊戌。伐季氏。殺公之于門。遂入之。平子登台而請。曰。君不察臣之罪。
書き下し
此を之れ先君の廟を庸ゐる能はずと謂ふ」と。大夫遂に平子を怨む。公若弓を公為に獻じ、且つ之と出でて外に射て、季氏を去らんことを謀る。公為公果・公賁に告ぐ。公果・公賁、侍人僚柤をして公に告げしむ。公寢ぬ。將に戈を以って之を擊たんとす。乃ち走る。公曰く、「之を執へよ」と。亦た命無きなり。懼れて出でず。數月見えず。公怒らず。又言はしむ。公戈を執りて以って之を懼れしむ。乃ち走る。又言はしむ。公曰く、「小人の及ぶ所に非ざるなり」と。公果自ら言ふ。公以って臧孫に告ぐ。臧孫以って難しとす。郈孫に告ぐ。郈孫以って可なりとして勸む。子家懿伯に告ぐ。懿伯曰く、「讒人君を以って幸ひを徼む。事若し克たずんば、君其の名を受けん。為す可からざるなり。民を舍つること數世、以って克つを求むるも、事必す可からざるなり。且つ政焉に在り。其れ圖り難きなり」と。公之を退く。辭して曰く、「臣命を與り聞けり。言若し洩れなば、臣死を獲ざらん」と。乃ち公に館す。叔孫昭子闞に如く。公長府に居る。九月、戊戌、季氏を伐ち、公之を門に殺し、遂に之に入る。平子臺に登りて請ひて曰く、「君臣の罪を察せず、
現代語訳
「これこそ、先君の廟で祭祀を行うこともできないということだ」。大夫たちはこうして平子を怨んだ。公若は弓を昭公の子の公為(こうい)に献上し、一緒に郊外へ弓を射に出かけて、季氏を除くことを謀った。公為はこれを弟の公果と公賁(こうほん)に告げた。公果と公賁は近侍の僚柤(りょうそ)に命じて昭公に告げさせた。昭公は寝ていたが、戈(ほこ)で僚柤を打とうとしたので、僚柤は逃げ出した。昭公は「捕らえよ」と言ったが、本気の命令ではなかった。僚柤は恐れて出仕せず、数か月も昭公の前に姿を見せなかった。昭公は怒らなかった。また僚柤に言わせると、昭公は戈を手に取って脅したので、僚柤は逃げた。また言わせると、昭公は言った。「これは身分の低い者の口出しすることではない」。そこで公果が自ら申し上げた。昭公はそのことを臧孫(臧昭伯)に告げた。臧孫は難しいと考えた。郈孫(郈昭伯)に告げると、郈孫はできると考えて勧めた。子家懿伯(しかいはく、子家羈)に告げると、懿伯は言った。「讒言する者たちは、君を使って自分たちの僥倖を狙っているのです。事がもしうまくいかなければ、君がその汚名を受けることになります。なさってはいけません。民を顧みなくなって数代を経ているのに、それで勝とうとしても、事は必ず成るとは限りません。しかも政治の実権は季氏のもとにあります。それを謀るのは難しいことです」。昭公は懿伯を下がらせた。懿伯は言った。「私はこの密命を聞いてしまいました。もし言葉が漏れれば、私は満足な死に方はできますまい」。そこで宮中に泊まり込んだ。叔孫昭子は闞の邑へ出かけていた。昭公は長府にいた。九月戊戌の日、昭公は季氏を討ち、門のところで公之を殺し、そのまま季氏の屋敷に攻め入った。平子は高台に登って願い出て言った。「君は私の罪をお調べにならず、
解説
この章句が説くこと
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史記 李斯列伝丞相の長男李由は三川の守為り。楚の盗陳勝等は皆丞相の傍県の子なり。故を以て楚の盗公行し、三川を過ぐるも、城守りて撃つを肯ぜず。高聞く、其の文書相往来すと。未だ其の審らかなるを得ず。故に未だ敢て以て聞せず。且つ丞相は外に居りて、権は陛下より重し」と。二世以て然りと為す。丞相を案ぜんと欲するも、其の審らかならざるを恐れ、乃ち人をして三川の守の盗と通ずる状を案験せしむ。李斯之を聞く。是の時二世甘泉に在り、方に觳抵優俳の観を作す。李斯見ゆるを得ず、因りて書を上りて趙高の短を言ひて曰く、「臣之を聞く、臣其の君を疑へば、国を危ふくせざる無し。妾其の夫を疑へば、家を危ふくせざる無しと。今大臣有りて陛下に於て利を擅にし害を擅にし、陛下と異なる無し。此れ甚だ便ならず。昔者司城子罕宋に相たり、身づから刑罰を行ひ、威を以て之を行ふ。朞年にして遂に其の君を劫かす。田常は簡公の臣と為り、爵列国に敵無く、私家の富は公家と均し。恵を布き徳を施し、下は百姓を得、上は群臣を得、陰かに斉国を取り、宰予を庭に殺し、即ち簡公を朝に弑し、遂に斉国を有つ。此れ天下の明らかに知る所なり。今高は邪佚の志、危反の行ひ有ること、子罕の宋に相たるが如きなり。私家の富は、田氏の斉に於けるが若きなり。田常・子罕の逆道を兼ね行ひて陛下の威信を劫かす。其の志は韓玘の韓安の相と為るが若きなり。陛下図らずんば、臣其の変を為さんことを恐る」と。二世曰く、「何ぞや。夫れ高は、故の宦人なり。然れども安きを為して志を肆にせず、危ふきを以て心を易へず、行ひを潔くし善を修め、自ら此に至らしむ。忠を以て進むを得、信を以て位を守る。朕実に之を賢とす。而るに君之を疑ふは、何ぞや。且つ朕少くして先人を失ひ、識知する所無く、民を治むるに習はず。而して君又老い、恐らくは天下と絶えん。朕趙君に属せずんば、当に誰にか任ずべき。
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『春秋左氏伝』昭公二十七年 知者は讒を除きて自ら安んず仁者は人を殺して以って謗りを掩ふすら、猶ほ為さざるなり。今吾子人を殺して以って謗りを興して、圖らず、亦た異ならずや。夫れ無極は楚の讒人なり。民知らざる莫し。朝吳を去り、蔡侯朱を出だし、太子建を喪ひ、連尹奢を殺し、王の耳目を屏(おほ)ひて、聰明ならざらしむ。然らずんば、平王の溫惠共儉、成・莊に過ぐる有りて、及ばざる無し。諸侯を獲ざりし所以は、邇(ちか)づくるに無極を以ってすればなり。今又三不辜を殺して、以って大謗を興し、幾ど子に及ばんとす。子にして圖らずんば、將た焉んぞ之を用ゐん。夫れ鄢將師、子の命を矯りて、以って三族を滅ぼす。國の良なり、而して位に愆(あやま)たず。吳新たに君有り、疆埸(きゃうえき)日に駭く。楚國若し大事有らば、子其れ危ふからん。知者は讒を除きて以って自ら安んず。今子は讒を愛して以って自ら危ふくす。甚だしいかな其の惑へるや」と。子常曰く、「是れ瓦の罪なり。敢へて良く圖らざらんや」と。
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史記 滑稽列伝左右の群臣の事に習ひ経術に通ずる者に問ふも、能く知る莫し。詔して東方朔をして之を視しむ。朔曰く、「臣之を知る。願はくは美酒粱飯を賜ひて大いに臣に飱せしめよ。臣乃ち言はん」と。詔して曰く、「可なり」と。已にして又曰く、「某所に公田・魚池・蒲葦数頃有り。陛下以て臣に賜はば、臣朔乃ち言はん」と。詔して曰く、「可なり」と。是に於いて朔乃ち肯へて言ひて曰く、「所謂騶牙なる者なり。遠方当に来たりて義に帰すべくして、騶牙先づ見る。其の歯は前後一の若く、斉等にして牙無し。故に之を騶牙と謂ふ」と。其の後一歳所にして、匈奴の混邪王果たして十万の衆を将ゐて来たりて漢に降る。乃ち復た東方生に銭財を賜ふこと甚だ多し。老に至り、朔且に死せんとする時、諫めて曰く、「詩に云ふ、『営営たる青蠅、蕃に止まる。愷悌の君子、讒言を信ずる無かれ。讒言極まり罔く、交々四国を乱す』と。願はくは陛下巧佞を遠ざけ、讒言を退けよ」と。帝曰く、「今顧みるに東方朔多く善言するか」と。之を怪しむ。居ること幾何も無く、朔果たして病みて死す。伝に曰く、「鳥の将に死なんとするや、其の鳴くや哀し。人の将に死なんとするや、其の言ふや善し」と。此の謂ひなり。武帝の時、大将軍衛青なる者は衛后の兄なり。封ぜられて長平侯と為る。軍に従ひて匈奴を撃ち、余吾水の上に至りて還る。斬首捕虜し、功有りて来たり帰る。詔して金千斤を賜ふ。将軍宮門を出づるに、斉人東郭先生、方士を以て公車に待詔し、道に当たりて衛将軍の車を遮り、拝謁して曰く、「願はくは事を白さん」と。将軍車を前に止む。東郭先生、車に旁(そ)ひて言ひて曰く、「王夫人新たに上に幸を得たるも、家貧し。今将軍金千斤を得たり。誠に其の半ばを以て王夫人の親に賜はば、人主之を聞きて必ず喜ばん。此れ所謂奇策便計なり」と。衛将軍之に謝して曰く、「先生幸ひに之に告ぐるに便計を以てす。請ふ、教へを奉ぜん」と。是に於いて衛将軍乃ち五百金を以て王夫人の親の寿と為す。王夫人以て武帝に聞す。帝曰く、「大将軍は此を為すを知らず」と。
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