春秋左氏伝 / 昭公十五年 典を数えて祖を忘る
明之以文章。子孫不忘。所謂福也。福祚之不登。叔父焉在。且昔而高祖孫伯黶司晉之典籍。以為大政。故曰籍氏。及辛有之二子董之。晉於是乎有董史。女司典之後也。何故忘之。籍談不能對。賓出。王曰。籍父其無後乎。數典而忘其祖。籍談歸以告叔向。叔向曰。王其不終乎。吾聞之。所樂必卒焉。今王樂憂。若卒以憂。不可謂終。王一歲而有三年之喪二焉。於是乎以喪賓宴。又求彝器。樂憂甚矣。且非禮也。彝器之來。嘉功之由。非由喪也。三年之喪。雖貴遂服。禮也。王雖弗遂。宴樂以早。亦非禮也。禮。王之大經也。一動而失二禮。無大經矣。言以考典。典以志經。忘經而多言。舉典將焉用之。
新字:明之以文章。子孫不忘。所謂福也。福祚之不登。叔父焉在。且昔而高祖孫伯黶司晋之典籍。以為大政。故曰籍氏。及辛有之二子董之。晋於是乎有董史。女司典之後也。何故忘之。籍談不能対。賓出。王曰。籍父其無後乎。数典而忘其祖。籍談帰以告叔向。叔向曰。王其不終乎。吾聞之。所楽必卒焉。今王楽憂。若卒以憂。不可謂終。王一歳而有三年之喪二焉。於是乎以喪賓宴。又求彝器。楽憂甚矣。且非礼也。彝器之来。嘉功之由。非由喪也。三年之喪。雖貴遂服。礼也。王雖弗遂。宴楽以早。亦非礼也。礼。王之大経也。一動而失二礼。無大経矣。言以考典。典以志経。忘経而多言。舉典将焉用之。
書き下し
之を明らかにするに文章を以ってす。子孫忘れず、所謂福なり。福祚の登らざる、叔父焉くに在る。且つ昔而の高祖孫伯黶、晉の典籍を司り、以って大政と為す。故に籍氏と曰ふ。辛有の二子之を董すに及び、晉是に於いてか董史有り。女は司典の後なり。何の故に之を忘るる」と。籍談對ふる能はず。賓出づ。王曰く、「籍父其れ後無からんか。典を數へて其の祖を忘る」と。籍談歸りて以って叔向に告ぐ。叔向曰く、「王其れ終へざらんか。吾之を聞く、『樂しむ所必ず焉に卒ふ』と。今王憂ひを樂しむ。若し憂ひを以って卒へば、終ふと謂ふ可からず。王一歲にして三年の喪二有り。是に於いてか喪賓を以って宴し、又彝器を求む。憂ひを樂しむこと甚だし。且つ禮に非ざるなり。彝器の來るは、功を嘉するに由る、喪に由るに非ざるなり。三年の喪は、貴しと雖も服を遂ぐるは、禮なり。王遂げずと雖も、宴樂以って早し、亦た禮に非ざるなり。禮は、王の大經なり。一動して二禮を失ふ、大經無し。言は以って典を考へ、典は以って經を志す。經を忘れて言多し、典を舉ぐるも將た焉んぞ之を用ひん」と。
現代語訳
旗や服の模様によってそれを明らかにする。そうして子孫が忘れずにいることを、福と言うのである。この福が記されずにいたとしたら、叔父(晋侯)は今どこにいられようか。それに昔、そなたの高祖である孫伯黶は、晋の典籍をつかさどり、国の大事な政務としていた。だから籍氏と名乗るのだ。辛有の二人の子が晋に移ってこれを監督するようになり、晋にはそこから董史(記録官の董氏)ができた。そなたは典籍をつかさどる家の子孫である。どうしてそれを忘れたのか」。籍談は答えることができなかった。客が退出すると、王は言った。「籍父(籍談)には跡継ぎがいなくなるだろう。典籍のことを数え上げながら、自分の祖先を忘れている」。籍談は帰国して叔向にこのことを告げた。叔向は言った。「王はまっとうな終わりを迎えられないだろう。私はこう聞いている。『楽しむことによって、必ずその身を終える』と。いま王は憂いを楽しんでいる。もし憂いによって身を終えることになれば、まっとうな終わりとは言えない。王は一年のうちに三年の喪に服すべき不幸が二つあった(太子と王后の死)。それなのに喪の弔問客をもてなして宴を開き、さらに彝器を求めた。憂いを楽しむことがはなはだしい。しかも礼にかなっていない。彝器が献上されるのは、功績をたたえるためであって、喪のためではない。三年の喪は、たとえ身分が高くても最後まで服するのが礼である。王が最後まで服さないとしても、宴を開いて楽しむのは早すぎる。これもまた礼にかなっていない。礼は王の大いなる筋道である。一度の振る舞いで二つの礼を失った。大いなる筋道がなくなっている。言葉は典籍に照らして考えるものであり、典籍は筋道を記すものである。筋道を忘れて言葉ばかり多いのなら、典籍を持ち出したところで何の役に立とう」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』昭公二十六年 文辞は以て礼を行う鬼神を貫瀆し、刑法を慢棄し、齊盟に倍奸し、威儀に傲很(ごうこん)にして、先王を矯誣す。晉道ならずして、是れ攝(たす)け是れ贊け、其の罔極を肆(ほしいまま)にせんと思ふ。茲に不穀震盪播越して、荊蠻に竄(のが)れ、未だ厎(いた)る攸(ところ)有らず。若し我が一二の兄弟甥舅、天法に獎順し、狡猾を助くること無く、以って先王の命に從ひ、天罰を速くこと毋く、赦して不穀を圖らば、則ち願ふ所なり。敢へて盡く其の腹心、及び先王の經を布く。而して諸侯實に深く之を圖れ。昔先王の命に曰く、『王后に適無くんば、則ち擇びて長を立つ。年鈞しければ德を以ってし、德鈞しければ卜を以ってす。王は愛を立てず、公卿は私無し』と。古の制なり。穆后及び大子壽、早く夭して世に即(つ)く。單・劉、私を贊けて少を立て、以って先王を間す。亦た唯だ伯仲叔季之を圖れ」と。閔馬父、子朝の辭を聞きて曰く、「文辭は以って禮を行ふなり。子朝、景の命を干し、晉の大を遠ざけ、以って其の志を專らにす。無禮甚だし。文辭何をか為さん」と。齊に彗星有り。齊侯之を禳(はら)はしむ。晏子曰く、「益無きなり。祇(ただ)誣を取るのみ。
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史記 平原君虞卿列伝平原君趙勝は、趙の諸公子なり。諸子の中にて勝最も賢にして、賓客を喜み、賓客蓋し至る者数千人。平原君、趙の恵文王及び孝成王に相たり、三たび相を去り、三たび位に復し、東武城に封ぜらる。平原君の家の楼は民家に臨む。民家に躄者有り、槃散として行きて汲む。平原君の美人楼上に居り、臨み見て、大いにこれを笑ふ。明日、躄者平原君の門に至り、請ひて曰く、「臣聞く、君の士を喜むや、士の千里を遠しとせずして至る者は、君の能く士を貴びて妾を賤しむを以てなり。臣不幸にして罷癃の病有り、而るに君の後宮臨みて臣を笑ふ。臣願はくは臣を笑ふ者の頭を得ん」と。平原君笑ひて応へて曰く、「諾」と。躄者去る、平原君笑ひて曰く、「此の豎子を観よ、乃ち一笑の故を以て吾が美人を殺さんと欲す、亦甚だしからずや」と。終に殺さず。居ること歳余、賓客門下の舎人稍稍引き去る者半ばを過ぐ。平原君これを怪しみて曰く、「勝の諸君を待する所以の者、未だ嘗て敢へて礼を失はず、而るに去る者何ぞ多きや」と。門下の一人前みて対へて曰く、「君の躄者を笑ひしものを殺さざるを以て、君を以て色を愛して士を賤しむと為す、士即ち去るのみ」と。是に於いて平原君乃ち躄者を笑ひし美人の頭を斬り、自ら門に造りて躄者に進め、因りて謝す。その後門下乃ちまた稍稍来たる。
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『春秋左氏伝』哀公十六年 孔子卒す十六年春、瞞成・褚師比、出でて宋に奔る。衛侯、鄢武子をして周に告げしめて曰く、「蒯聵、罪を君父・君母に得て、晉に逋竄す。晉、王室の故を以て、兄弟を棄てず、諸を河上に寘く。天、其の衷を誘き、嗣ぎて封を守ることを獲たり。下臣肸をして、敢へて執事に告げしむ」と。王、單平公をして對へしめて曰く、「肸、嘉命を以て來りて余一人に告ぐ。往きて叔父に謂へ、『余、乃の成世を嘉し、爾の祿次を復す。之を敬まんかな。方に天の休なり。敬まざれば休ならず。悔ゆとも其れ追ふ可けんや』と」と。夏四月己丑、孔丘卒す。公、之を誄して曰く、「旻天弔まず、憖いて一老を遺さず、余一人を屏けて以て位に在らしむ。煢煢として余、疚に在り。嗚呼、哀しいかな。尼父、自ら律する無し」と。子贛曰く、「君其れ魯に沒せざらんか。夫子の言に曰く、『禮失へば則ち昏く、名失へば則ち愆る』と。志を失ふを昏と為し、所を失ふを愆と為す。生きては用ゐる能はずして、死して之を誄するは、禮に非ざるなり。一人と稱するは、名に非ざるなり。君、兩つながら之を失へり」と。
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論語・八佾篇子曰く、『夏の礼、吾能く之を言う。杞は徵すに足らず。殷の礼、吾能く之を言う。宋は徵すに足らず。文献足らざる故なり。足らば、則ち吾能く之を徵せん。』
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論語・八佾篇孔子季氏を謂う、「八佾庭に舞わす。是れをも忍ぶ可くんば、孰れをか忍ぶ可からざらん。」
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