春秋左氏伝 / 昭公十年 知るは難きに非ず
孤斬焉在衰絰之中。其以嘉服見。則喪禮未畢。其以喪服見。是重受弔也。大夫將若之何。皆無辭以見。子皮盡用其幣。歸。謂子羽曰。非知之實難。將在行之。夫子知之矣。我則不足。書曰。欲敗度。縱敗禮。我之謂矣。夫子知度與禮矣。我實縱欲。而不能自克也。昭子至自晉。大夫皆見。高彊見而退。昭子語諸大夫曰。為人子。不可不慎也哉。昔慶封亡。子尾多受邑而稍致諸君。君以為忠。而甚寵之。將死。疾于公宮。輦而歸。君親推之。其子不能任。是以在此。忠為令德。其子弗能任。罪猶及之。難不慎也。喪夫人之力。棄德曠宗。以及其身。不害乎。詩曰。不自我先。不自我後。其是之謂乎。冬。十二月。宋平公卒。初。元公惡寺人柳。欲殺之。及喪。柳熾炭于位。將至。則去之。比葬。又有寵。
新字:孤斬焉在衰絰之中。其以嘉服見。則喪礼未畢。其以喪服見。是重受弔也。大夫将若之何。皆無辞以見。子皮尽用其幣。帰。謂子羽曰。非知之実難。将在行之。夫子知之矣。我則不足。書曰。欲敗度。縦敗礼。我之謂矣。夫子知度与礼矣。我実縦欲。而不能自克也。昭子至自晋。大夫皆見。高彊見而退。昭子語諸大夫曰。為人子。不可不慎也哉。昔慶封亡。子尾多受邑而稍致諸君。君以為忠。而甚寵之。将死。疾于公宮。輦而帰。君親推之。其子不能任。是以在此。忠為令徳。其子弗能任。罪猶及之。難不慎也。喪夫人之力。棄徳曠宗。以及其身。不害乎。詩曰。不自我先。不自我後。其是之謂乎。冬。十二月。宋平公卒。初。元公悪寺人柳。欲殺之。及喪。柳熾炭于位。将至。則去之。比葬。又有寵。
書き下し
孤斬焉として衰絰の中に在り。其れ嘉服を以って見えば、則ち喪禮未だ畢らず。其れ喪服を以って見えば、是れ重ねて弔を受くるなり。大夫將に之を若何せんとする」と。皆以って見ゆる辭無し。子皮盡く其の幣を用ゐて、歸る。子羽に謂ひて曰く、「之を知るの實に難きに非ず、將に之を行ふに在り。夫子之を知れり。我は則ち足らず。書に曰く、『欲は度を敗り、縱は禮を敗る』と。我の謂ひなり。夫子は度と禮とを知れり。我は實に欲を縱にして、自ら克つ能はざるなり」と。昭子晉より至る。大夫皆見ゆ。高彊見えて退く。昭子諸大夫に語りて曰く、「人の子為るもの、慎まざるべからざるかな。昔慶封亡ぶ。子尾多く邑を受けて稍く諸を君に致す。君以って忠と為して、甚だ之を寵す。將に死せんとするに、公宮に疾む。輦して歸る。君親ら之を推す。其の子任ふる能はず。是を以って此に在り。忠は令德為り。其の子任ふる能はずして、罪猶ほ之に及ぶ。慎まざるを難とするなり。夫の人の力を喪ひ、德を棄て宗を曠しくして、以って其の身に及ぶ。害あらずや。詩に曰く、『我より先ならず、我より後ならず』と。其れ是を之れ謂ふか」と。冬、十二月、宋の平公卒す。初め、元公寺人柳を惡み、之を殺さんと欲す。喪に及びて、柳炭を位に熾す。將に至らんとすれば、則ち之を去る。葬に比びて、又寵有り。
現代語訳
孤は喪服をまとって深い悲しみの中にあります。もし吉服でお会いすれば、喪礼がまだ終わっていないのに喪を解いたことになります。もし喪服でお会いすれば、重ねて弔問を受けることになります。大夫方はどうなさるおつもりか」。皆、会見を求める言葉がなかった。子皮は持ってきた贈り物をすべて使い果たして帰国した。子皮は子羽(公孫揮、鄭の大夫)に言った。「知ることが難しいのではない。実行することにこそ難しさがある。あの方(子産)はそれを知っていた。私は足りなかった。『書』に『欲は節度を損ない、放縦は礼を損なう』とある。私のことだ。あの方は節度と礼とを知っていた。私は実に欲をほしいままにして、自分に克つことができなかった」。叔孫昭子が晋から帰国した。大夫たちが皆会いに来た。(斉から亡命してきた)高彊も会いに来て、退出した。昭子は大夫たちに語って言った。「人の子である者は、慎まなければならないものだ。昔、慶封が亡命したとき、子尾(高彊の父)は多くの邑を受けたが、少しずつそれを君に返した。君はそれを忠とみなし、たいへん寵愛した。子尾が死に臨んで宮中で病むと、手押し車で家に帰らせ、君は自らその車を押した。その子(高彊)は父の徳を受け継ぐことができず、それでいまここ(魯)にいる。忠は立派な徳である。その子が受け継げなければ、罪はやはりその身に及ぶ。慎まないことこそ災いの元なのだ。父の功績を失い、徳を捨て、宗廟を空にして、その身に災いが及んだ。痛ましいことではないか。『詩』に『(災いは)私より先でもなく、私より後でもなく(まさに私の代に来た)』とある。これを言うのであろう」。冬十二月、宋の平公が死んだ。これより前、元公(平公の太子)は宦官の柳を憎み、殺そうとしていた。平公の喪に際し、柳は元公の座る場所で炭をおこして暖めておき、元公が来ようとすると炭を取り去った。葬儀のころには、柳はまた寵愛を受けるようになっていた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『墨子』耕柱公孟子曰く、「君子は作らず、術ぶるのみ」と。子墨子曰く、「然らず。人の其れ君子ならざる者は、古の善き者は誅がず、今や善き者は作らず。其の次に君子ならざる者は、古の善き者は遂げず、已に善有れば則ち之を作り、善の己より出でんことを欲す。今、誅ぎて作らざるは、是れ遂ぐるを好まずして作る者に異なる所無きなり。吾れ以為えらく、古の善き者は則ち之を誅ぎ、今の善き者は則ち之を作り、善の益ます多からんことを欲すと」と。
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『武士道』第十六章 武士道の命脈・七百年に蓄積したる動量其メーソニック・サイン明亮なることは、個々の間、暗号を有せずしてなお能く直ちに感通するを得るに足るものあり、となす。武士道の我国民、特に士林に印象したる性格は、之を以て種属の具有する不変の要素を形成するものなりと称するを得ずと雖、なお之れが活力を保有せることは、復た疑を容れず。武士道もしただ物理力に過ぎずとすとも、なお既往七百年の間に蓄積したる動量は、俄然停止するを得べきに非ず。武士道はただ遺伝によりてのみ継承したりとすとも、其感化の範囲はすこぶる広大ならずんばあらず。試みに思へ、仏国経済学者ケソン氏が、仮に一世紀を人間三代と定めて打算せば、『吾人は各自其血管中に、紀元一千年に生存したる、少くも二千万人の血液を伝ふるものなり』と云へるを。
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孟子・盡心章句下孟子曰く、「堯舜由り湯に至るまで、五百有餘歲。禹・皋陶の若きは、則ち見て之を知る。湯の若きは、則ち聞きて之を知る。湯由り文王に至るまで、五百有餘歲。伊尹・萊朱の若きは、則ち見て之を知る。文王の若きは、則ち聞きて之を知る。文王由り孔子に至るまで、五百有餘歲。太公望・散宜生の若きは、則ち見て之を知る。孔子の若きは、則ち聞きて之を知る。孔子由り而來今に至るまで、百有餘歲。聖人の世を去ること、此の若く其れ未だ遠からざるなり。聖人の居に近きこと、此の若く其れ甚しきなり。然り而して有ること無しとせば、則ち亦た有ること無からん。」
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説苑・修文春秋に曰く、「壬申、公高寢に薨ず。」傳に曰く、「高寢とは何ぞ?正寢なり。曷為れぞ或いは高寢と言い、或いは路寢と言うか?曰く、諸侯の正寢三つ、一に曰く高寢、二に曰く左路寢、三に曰く右路寢。高寢とは、始めて封ぜられし君の寢なり。二つの路寢とは、體を繼ぐ君の寢なり。其の二つなるは何ぞ?曰く、子父の寢に居らず、故に二寢あり。體を繼ぐ君は世世高祖の寢に居るべからず、故に高寢有り、名づけて高と曰う。路寢其の立つこと奈何?高寢中に立ち、路寢左右す。」と。春秋に曰く、「天王成周に入る。」傳に曰く、「成周とは何ぞ?東周なり。然らば則ち天子の寢奈何?曰く、亦二つの承明あり、體を繼ぎ文を守る君の寢、左右の路寢と曰う。之を承明と謂うは何ぞ?曰く、明堂の後に承くる者なり。故に天子諸侯三寢立ちて名實正しく、父子の義章らかに、尊卑の事別れ、大小の德異なるなり。」
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説苑・建本晋の襄公薨じ、嗣君少く、趙宣子相たり。大夫に謂いて曰わく、「少君を立つれば、多難ならんことを懼る。請う雍を立てん。雍長じ、出でて秦に在り、秦大にして、以て援と為すに足る」と。賈季曰わく、「公子楽に若かず。楽国に寵有り、先君愛して之を翟に仕えしむ、翟是を以て援と為す」と。穆嬴太子を抱きて庭に呼びて曰わく、「先君奚の罪ありや、其の嗣も亦奚の罪ありや。嫡嗣を捨てて立てずして外に君子を求む」と。朝を出でて抱きて宣子に見えて曰わく、「難きを悪みて、故に長君を立てんと欲するも、長君立ちて少君壮なれば、難乃ち至らん」と。宣子之を患い、遂に太子を立つ。
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『驢鞍橋』卷下因に云ふ、大形昔より師一人にして、二代になれば、早や衰ふと見えたり。然ればこそ、仏弟子より此の位有る也。仏経には勇猛精進と多く説き給ふに、その後誰れでも沙汰したる人を聞かす、若し沙汰せば、先つ迦葉のめされんすか早や替りたると見えたり。総而昔も今の如く、善き者出でにくかるべし。替り有るべからず。皆知らずして仏の御出世なる間、誰れをも彼れをも善からんずと計思はるゝ也。時に僧問ふ、普化は仏境界の人と承る、何ぞ度人なきや。師曰く、中中さつさつとしたる活境界にて、度人も何も有る様の機に非ず、是れはよく我知ると也。
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