春秋左氏伝 / 昭公七年 政は慎まざるべからず
夏。四月。甲辰。朔。日有食之。晉侯問於士文伯曰。誰將當日食。對曰。魯衛惡之。衛大魯小。公曰。何故。對曰。去衛地。如魯地。於是有災。魯實受之。其大咎。其衛君乎。魯將上卿。公曰。詩所謂彼日而食。于何不臧者。何也。對曰。不善政之謂也。國無政。不用善。則自取謫于日月之災。故政不可不慎也。務三而已。一曰擇人。二曰因民。三曰從時。晉人來治杞田。季孫將以成與之。謝息為孟孫守。不可。曰。人有言曰。雖有挈缾之知。守不假器。禮也。夫子從君。而守臣喪邑。雖吾子亦有猜焉。季孫曰。君之在楚。於晉罪也。又不聽晉。魯罪重矣。晉師必至。吾無以待之。不如與之。間晉而取諸杞。吾與子桃。成反。誰敢有之。是得二成也。魯無憂。而孟孫益邑。子何病焉。辭以無山。與之萊柞。乃遷于桃。晉人為杞取成。
新字:夏。四月。甲辰。朔。日有食之。晋侯問於士文伯曰。誰将当日食。対曰。魯衛悪之。衛大魯小。公曰。何故。対曰。去衛地。如魯地。於是有災。魯実受之。其大咎。其衛君乎。魯将上卿。公曰。詩所謂彼日而食。于何不臧者。何也。対曰。不善政之謂也。国無政。不用善。則自取謫于日月之災。故政不可不慎也。務三而已。一曰択人。二曰因民。三曰従時。晋人来治杞田。季孫将以成与之。謝息為孟孫守。不可。曰。人有言曰。雖有挈缾之知。守不仮器。礼也。夫子従君。而守臣喪邑。雖吾子亦有猜焉。季孫曰。君之在楚。於晋罪也。又不聴晋。魯罪重矣。晋師必至。吾無以待之。不如与之。間晋而取諸杞。吾与子桃。成反。誰敢有之。是得二成也。魯無憂。而孟孫益邑。子何病焉。辞以無山。与之萊柞。乃遷于桃。晋人為杞取成。
書き下し
夏、四月、甲辰、朔、日之を食する有り。晉侯士文伯に問ひて曰く、「誰か將に日食に當たらんとする」と。對へて曰く、「魯・衛之を惡む。衛は大に、魯は小なり」と。公曰く、「何の故ぞ」と。對へて曰く、「衛の地を去りて、魯の地に如く。是に於いて災有り、魯實に之を受く。其の大咎は、其れ衛君か。魯は將に上卿ならん」と。公曰く、「詩に所謂『彼の日にして食す、何の不臧に于いてぞ』とは、何ぞや」と。對へて曰く、「善政ならざるの謂ひなり。國に政無く、善を用ゐずんば、則ち自ら謫を日月の災に取る。故に政は慎まざるべからず。務むるは三のみ。一に曰く人を擇ぶ、二に曰く民に因る、三に曰く時に從ふ」と。晉人來たりて杞の田を治む。季孫將に成を以て之に與へんとす。謝息孟孫の為に守り、可かずして曰く、「人言有りて曰く、『挈缾の知有りと雖も、守りて器を假さず』と。禮なり。夫子君に從ひて、守臣邑を喪はば、吾子と雖も亦た猜(うたが)ふこと有らん」と。季孫曰く、「君の楚に在るは、晉に於いて罪なり。又晉に聽かずんば、魯の罪重し。晉の師必ず至らん。吾以て之を待つ無し。之に與ふるに如かず。晉に間あらば諸を杞に取らん。吾子に桃を與へん。成反らば、誰か敢へて之を有たん。是れ二成を得るなり。魯憂ひ無くして、孟孫邑を益す。子何ぞ病まん」と。辭するに山無きを以てす。之に萊・柞を與ふ。乃ち桃に遷る。晉人杞の為に成を取る。
現代語訳
夏四月甲辰の朔日、日食があった。晋侯(平公)が士文伯に尋ねた。「この日食の災いは誰に当たるのか」。士文伯は答えた。「魯と衛がこれを受けます。衛の災いは大きく、魯は小さいでしょう」。公が「どうしてか」と問うと、答えた。「日食は衛の分野を離れて魯の分野に移りました。これによって災いがあり、魯はその余波を受けます。大きな咎は、衛の君に当たるのではないでしょうか。魯では上卿に当たるでしょう」。公は言った。「詩に『あの日が欠けるのは、どんな善くないことのせいか』とあるのは、どういうことか」。士文伯は答えた。「善い政治をしないことを言うのです。国にまともな政治がなく、善い人を用いなければ、自ら日月の災いという咎めを招くのです。ですから政治は慎まなければなりません。務めるべきことは三つだけです。一つ目は人を選ぶこと、二つ目は民の心に沿うこと、三つ目は時節に従うことです」。晋の人々が魯に来て、杞の土地の返還を処理させようとした。季孫(季武子)は成の邑を杞に与えようとした。謝息は孟孫(孟僖子)に代わって成を守っていたが、承知せずに言った。「人の言葉に『水を汲む小さな瓶ほどの知恵しかなくても、守っている器は人に貸さない』とあります。それが礼です。主人(孟僖子)が君のお供をして楚へ行っている間に、留守を守る臣が邑を失ったら、あなたでさえ私を疑うでしょう」。季孫は言った。「君が楚へ行っていることは、晋に対して罪になっている。そのうえ晋の言うことを聞かなければ、魯の罪は重くなる。晋の軍が必ず来るだろう。我々には迎え撃つ力がない。与えてしまうほうがよい。晋に隙ができたら、杞から取り返せばよい。あなたには(代わりに)桃の邑を与えよう。成が戻ってきたら、誰がそれを取ろうとするものか。これで成を二つ得ることになる。魯は憂いがなくなり、孟孫は邑が増える。あなたは何を悩むことがあろう」。謝息は、桃には山がない(薪や材木が採れない)と言って辞退した。そこで季孫は萊と柞の山を与えた。謝息は桃に移った。晋の人々は杞のために成を取り上げた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 李斯列伝臣聞く、地広き者は粟多く、国大なる者は人衆く、兵彊ければ則ち士勇なりと。是を以て太山は土壌を譲らず、故に能く其の大を成す。河海は細流を択ばず、故に能く其の深きを就す。王者は衆庶を卻けず、故に能く其の徳を明らかにす。是を以て地に四方無く、民に異国無く、四時充美にして、鬼神福を降す。此れ五帝・三王の敵無き所以なり。今乃ち黔首を棄てて以て敵国に資し、賓客を卻けて以て諸侯に業し、天下の士をして退きて敢て西に向かはず、足を裹みて秦に入らざらしむ。此れ所謂「寇に兵を藉して盗に糧を齎す」者なり。夫れ物の秦に産せずして、宝とすべき者多し。士の秦に産せずして、忠を願ふ者衆し。今客を逐ひて以て敵国に資し、民を損じて以て讎を益し、内自ら虚しくして外怨みを諸侯に樹つ。国の危ふき無きを求むるも、得べからざるなり、と。秦王乃ち逐客の令を除き、李斯の官を復し、卒に其の計謀を用ふ。
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史記 淮陰侯列伝信数しば蕭何と語る。何之を奇とす。南鄭に至るに、諸将の道に行きて亡ぐる者数十人。信度るに、何等已に数しば上に言ふも、上我を用ゐずと、即ち亡ぐ。何信の亡ぐるを聞き、以て聞するに及ばず、自ら之を追ふ。人有りて上に言ひて曰く、「丞相何亡げたり」と。上大いに怒り、左右の手を失ふが如し。居ること一二日、何来りて上に謁す。上且つ怒り且つ喜び、何を罵りて曰く、「若亡ぐるは、何ぞや」と。何曰く、「臣敢へて亡げざるなり。臣は亡ぐる者を追ふ」と。上曰く、「若追ふ所の者は誰ぞ」と。何曰く、「韓信なり」と。上復た罵りて曰く、「諸将の亡ぐる者は十を以て数ふるも、公追ふ所無し。信を追ふは、詐りなり」と。何曰く、「諸将は得易きのみ。信の如き者に至りては、国士無双なり。王必ず長く漢中に王たらんと欲せば、信を事とする所無し。必ず天下を争はんと欲せば、信に非ずんば与に事を計る所の者無し。顧ふに王の策安くに決する所かのみ」と。王曰く、「吾も亦東せんと欲するのみ。安んぞ能く郁郁として久しく此に居らんや」と。何曰く、「王の計必ず東せんと欲せば、能く信を用ゐば、信即ち留まらん。用ゐること能はずんば、信終に亡げんのみ」と。王曰く、「吾公の為に以て将と為さん」と。何曰く、「将と為すと雖も、信必ず留まらじ」と。王曰く、「以て大将と為さん」と。何曰く、「幸甚なり」と。是に於て王信を召して之を拝せんと欲す。何曰く、「王素より慢にして礼無し。今大将を拝すること小児を呼ぶが如きのみ。此れ乃ち信の去る所以なり。王必ず之を拝せんと欲せば、良日を択び、斎戒し、壇場を設け、礼を具へて、乃ち可なるのみ」と。王之を許す。諸将皆喜び、人人各自ら以て大将を得んと為す。大将を拝するに至りて、乃ち韓信なり。一軍皆驚く。
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『韓非子』亡徵第十五境内の傑、事とされずして、封外の士を求め、功伐を以て課試せずして、好んで名問を以て舉錯し、羈旅起り貴くして以て故常を陵ぐ者は、亡ぶ可きなり。
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史記 孫子呉起列伝呉起是に於いて魏の文侯の賢なるを聞き、之に事へんと欲す。文侯、李克に問ひて曰く、「呉起は何如なる人ぞ」と。李克曰く、「起は貪にして色を好む。然れども兵を用ゐるは、司馬穰苴も過ぐる能はざるなり」と。是に於いて魏の文侯以て将と為し、秦を撃ち、五城を抜く。
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史記 管晏列伝管仲夷吾は、潁上の人なり。少き時常に鮑叔牙と游び、鮑叔、其の賢なるを知れり。管仲貧困にして、常に鮑叔を欺くも、鮑叔、終に善く之を遇し、以て言を為さず。已にして鮑叔、斉の公子小白に事へ、管仲は公子糾に事ふ。小白立ちて桓公と為り、公子糾死するに及び、管仲囚はる。鮑叔遂に管仲を進む。管仲既に用ひられ、政に斉に任ず。斉の桓公以て覇たり、諸侯を九合し、天下を一匡したるは、管仲の謀なり。
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史記 酈生陸賈列伝酈生食其(れきせいいき)は、陳留高陽の人なり。読書を好み、家貧しく落魄して、以て衣食の業を為す無く、里の監門の吏と為る。然れども県中の賢豪敢へて役せず、県中皆之を狂生と謂ふ。陳勝・項梁等の起こるに及び、諸将の地を徇へて高陽を過ぐる者数十人、酈生其の将皆握齱(あくさく)として苛礼を好み自ら用ひ、大度の言を聴く能はずと聞き、酈生乃ち深く自ら蔵匿す。後に沛公兵を将ゐて地を陳留の郊に略すと聞く。沛公の麾下の騎士、適(たまたま)酈生の里中の子なり、沛公時時邑中の賢士豪俊を問ふ。騎士帰る。酈生見えて之に謂ひて曰く、「吾聞く、沛公は慢にして人を易(あなど)るも、大略多しと。此れ真に吾が従ひて游ばんと願ふ所なり、我が為に先(さきだ)つ莫し。若し沛公に見えなば、謂ひて曰へ、『臣が里中に酈生有り、年六十余、長八尺、人皆之を狂生と謂ふも、生は自ら我は狂生に非ずと謂ふ』と」と。騎士曰く、「沛公は儒を好まず、諸客の儒冠を冠して来たる者あれば、沛公輒ち其の冠を解き、其の中に溲溺(そうでき)す。人と言ふに、常に大いに罵る。未だ儒生を以て説くべからざるなり」と。酈生曰く、「弟(ただ)之を言へ」と。騎士従容として酈生の誡むる所の如く言ふ。沛公高陽の伝舎に至り、人をして酈生を召さしむ。酈生至り、入りて謁す。沛公方に床に倨して両女子をして足を洗はしめ、而して酈生を見る。酈生入り、則ち長揖して拝せず、曰く、「足下は秦を助けて諸侯を攻めんと欲するか。且(はた)諸侯を率ゐて秦を破らんと欲するか」と。沛公罵りて曰く、「豎儒(じゅじゅ)。夫れ天下同じく秦に苦しむこと久し、故に諸侯相率ゐて秦を攻む。何ぞ秦を助けて諸侯を攻むと謂ふや」と。酈生曰く、「必ず徒を聚め義兵を合はせて無道の秦を誅せんとならば、宜しく倨して長者を見るべからず」と。是に於て沛公洗ふを輟め、起ちて衣を摂(ととの)へ、酈生を延きて上坐せしめ、
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