導師導古典を学びたいすべての人に

春秋左氏伝 / 襄公二十九年 公冶、季氏を拒む

五月。公至自楚。公冶致其邑於季氏。而終不入焉。曰。欺其君。何必使余。季孫見之。則言季氏如他日。不見。則終不言季氏及疾。聚其臣曰。我死。必無以冕服斂。非德賞也。且無使季氏葬我。葬靈王。鄭上卿有事。子展使印段往。伯有曰。弱。不可。子展曰。與其莫往。弱不猶愈乎。詩云。王事靡盬。不遑啟處。東西南北。誰敢寧處。堅事晉楚。以蕃王室也。王事無曠。何常之有。遂使印段如

新字:五月。公至自楚。公冶致其邑於季氏。而終不入焉。曰。欺其君。何必使余。季孫見之。則言季氏如他日。不見。則終不言季氏及疾。聚其臣曰。我死。必無以冕服斂。非徳賞也。且無使季氏葬我。葬霊王。鄭上卿有事。子展使印段往。伯有曰。弱。不可。子展曰。与其莫往。弱不猶愈乎。詩云。王事靡盬。不遑啓処。東西南北。誰敢寧処。堅事晋楚。以蕃王室也。王事無曠。何常之有。遂使印段如

書き下し

五月、公、楚より至る。公冶、其の邑を季氏に致して、終に入らず。曰く、「其の君を欺く、何ぞ必ずしも余を使はん」と。季孫之を見れば、則ち季氏を言ふこと他日の如し。見ざれば、則ち終に季氏を言はず。疾むに及びて、其の臣を聚めて曰く、「我死せば、必ず冕服を以て斂むる無かれ。德賞に非ざるなり。且つ季氏をして我を葬らしむる無かれ」と。靈王を葬る。鄭の上卿、事有り。子展、印段をして往かしむ。伯有曰く、「弱し、不可なり」と。子展曰く、「其の往く莫からんよりは、弱きも猶ほ愈らずや。詩に云ふ、『王事盬(や)むこと靡し、啟處するに遑あらず』と、『東西南北、誰か敢へて寧處せん』と。堅く晉・楚に事へ、以て王室に蕃たるなり。王事曠しくすること無くんば、何の常か之れ有らん」と。遂に印段をして

現代語訳

五月、襄公は楚から帰国した。公冶は自分の邑を季氏に返上し、二度と季氏の家には出入りしなかった。そして言った。「自分の主君を欺くのに、なぜわざわざ私を使いにしたのか」。季孫(季武子)に会えば、以前と同じように季氏のことを話題にしたが、会わなければ、決して季氏のことを口にしなかった。病にかかると、家臣たちを集めて言った。「私が死んでも、決して冕服を着せて納棺してはならない。あれは徳によって賜った褒賞ではないのだから。それから季氏に私の葬儀をさせてはならない」。周の霊王を葬った。鄭では上卿が葬儀に参列すべきところ、上卿には事情があって行けなかった。子展は印段を行かせようとした。伯有は言った。「まだ若すぎる。いけない」。子展は言った。「誰も行かないよりは、若くてもまだましではないか。『詩経』に『王の仕事はやむことがなく、落ち着いて休む暇もない』とあり、また『東西南北、誰があえて安らかに過ごせようか』とある。わが国はしっかりと晋と楚に仕えて、王室の守りとなっているのだ。王の仕事を欠かしさえしなければ、決まった形式にこだわる必要などあろうか」。こうして印段を

解説

前句で季武子の使いとして卞邑奪取の報告を運ばされた公冶は、帰国後に自分の邑を季氏に返し、二度と季氏の門をくぐらなかった。主君を欺く使いに自分を使ったことへの抗議である。季武子の前では何事もなかったようにふるまい、陰では決して季氏を語らない。そのうえ、死に際して主君から賜った冕服での納棺を拒み、季氏による葬儀も禁じた。声高に非難せず、身の処し方だけで一線を引いた人物として左伝は描いている。後半は鄭の話で、周の霊王の葬儀に上卿が行けないため、子展は若い印段を送ろうとした。伯有の反対に対し、子展は『詩経』を引いて、王事を欠かさないことが大切で、形式上の格式にこだわる必要はないと答えた。不本意な役目を負わされたとき、どう距離を取るか。公冶の沈黙の抗議は一つの答えを示している。

この章句が説くこと

清廉抗議出処進退抜擢王事

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る