春秋左氏伝 / 襄公二十二年 貴にして能く貧し
四月。又朝以聽事。期不朝之間。無歲不聘。無役不從。以大國政令之無常。國家罷病。不虞荐至。無日不惕。豈敢忘職。大國若安定之。其朝夕在庭。何辱命焉。若不恤其患。而以為口實。其無乃不堪任命。而翦為仇讎。敝邑是懼。其敢忘君命。委諸執事。執事實重圖之。秋。欒盈自楚適齊。晏平仲言於齊侯曰。商任之會。受命於晉。今納欒氏。將安用之。小所以事大。信也。失信不立。君其圖之。弗聽。退告陳文子曰。君人執信。臣人執共。忠信篤敬。上下同之。天之道也。君自棄也。弗能久矣。九月。鄭公孫黑肱有疾。歸邑于公。召室老宗人。立段而使黜官薄祭。祭以特羊。殷以少牢。足以共祀。盡歸其餘邑曰。吾聞之。生於亂世。貴而能貧。民無求焉。可以後亡。敬共事君。與二三子。生在敬戒。不在富也。己巳。伯張卒。君子曰善戒。詩曰。慎爾侯度。用戒不虞。鄭子張其有焉。
新字:四月。又朝以聴事。期不朝之間。無歳不聘。無役不従。以大国政令之無常。国家罷病。不虞荐至。無日不惕。豈敢忘職。大国若安定之。其朝夕在庭。何辱命焉。若不恤其患。而以為口実。其無乃不堪任命。而翦為仇讎。敝邑是懼。其敢忘君命。委諸執事。執事実重図之。秋。欒盈自楚適斉。晏平仲言於斉侯曰。商任之会。受命於晋。今納欒氏。将安用之。小所以事大。信也。失信不立。君其図之。弗聴。退告陳文子曰。君人執信。臣人執共。忠信篤敬。上下同之。天之道也。君自棄也。弗能久矣。九月。鄭公孫黒肱有疾。帰邑于公。召室老宗人。立段而使黜官薄祭。祭以特羊。殷以少牢。足以共祀。尽帰其余邑曰。吾聞之。生於乱世。貴而能貧。民無求焉。可以後亡。敬共事君。与二三子。生在敬戒。不在富也。己巳。伯張卒。君子曰善戒。詩曰。慎爾侯度。用戒不虞。鄭子張其有焉。
書き下し
四月、又朝して以って事を聽く。不朝の間を期するも、歲として聘せざる無く、役として從はざる無し。大國の政令の常無きを以って、國家罷病し、不虞荐(しき)りに至り、日として惕(おそ)れざる無し。豈に敢へて職を忘れんや。大國若し之を安定せば、其れ朝夕庭に在らん、何ぞ命を辱くせん。若し其の患を恤へずして、以って口實と為さば、其れ乃ち命に任ふるに堪へずして、翦りて仇讎と為る無からんや。敝邑是れを懼る。其れ敢へて君の命を忘れんや。諸を執事に委ぬ。執事實に重ねて之を圖れ」と。秋、欒盈楚より齊に適く。晏平仲齊侯に言ひて曰く、「商任の會に、命を晉に受けたり。今欒氏を納る、將た安んぞ之を用ゐん。小の大に事ふる所以は、信なり。信を失へば立たず。君其れ之を圖れ」と。聽かず。退きて陳文子に告げて曰く、「人に君たる者は信を執り、人に臣たる者は共を執る。忠信篤敬、上下之を同じくするは、天の道なり。君自ら棄つるなり。久しきこと能はざらん」と。九月、鄭の公孫黑肱疾有り。邑を公に歸す。室老・宗人を召し、段を立てて、官を黜け祭を薄くせしむ。祭るに特羊を以ってし、殷するに少牢を以ってす、以って祀に共するに足る。盡く其の餘邑を歸して曰く、「吾之を聞く、亂世に生まれては、貴にして能く貧しければ、民求むること無く、以って後に亡ぶ可しと。敬み共して君と二三子とに事へよ。生は敬戒に在り、富に在らざるなり」と。己巳、伯張卒す。君子曰く、「戒を善くす。詩に曰く、『爾の侯度を慎み、用って不虞を戒む』と。鄭の子張其れ焉有り」と。
現代語訳
「四月にはまた朝見して貴国の指示を承りました。朝見の時期にあたらない間も、聘問しない年はなく、従軍しない戦役はありませんでした。大国の政令が一定しないため、わが国は疲れ果て、思いがけない事態が次々に起こり、恐れない日はありません。どうして務めを忘れることなどありましょう。大国がもしわが国を安定させてくださるなら、朝も夕も貴国の庭に参上いたしましょう。わざわざお呼び出しを受けるまでもありません。もしわが国の苦しみを顧みず、朝見しないことを口実にされるなら、わが国はご命令に堪えられず、見捨てられて仇敵となってしまうのではないか。わが国はそれを恐れております。どうして貴君のご命令を忘れましょう。このことを執事にお委ねいたします。執事にはどうか重ねてよくお考えいただきたい」。秋、欒盈が楚から斉へ移った。晏平仲(晏嬰)は斉侯(荘公)に言った。「商任の会で、わが国は晋から欒氏を受け入れるなという命令を受けました。いま欒氏を受け入れて、いったい何に使うのですか。小国が大国に仕える拠り所は信義です。信義を失えば立ちゆきません。君にはよくお考えいただきたい」。荘公は聞き入れなかった。晏子は退出して陳文子(陳須無)に告げた。「人の君たる者は信を守り、人の臣たる者は恭しさを守る。忠・信・篤実・敬慎を上下がともにするのが、天の道だ。わが君はみずからそれを棄てている。長くはもつまい」。九月、鄭の公孫黒肱(こくこう、字は子張・伯張)が病気になった。自分の邑を公室に返上した。家老と宗人(祭祀の担当者)を呼び、息子の段を跡継ぎに立てたうえで、官の数を減らし祭祀を簡素にさせた。四時の祭りは羊一頭で、大祭は少牢(羊と豚)で行えば、祖先の祭祀を営むには足りるとした。残りの邑はすべて返上して言った。「私はこう聞いている。乱世に生まれたなら、身分が高くても貧しく暮らせれば、民から求められる(恨まれる)こともなく、他家より後まで生き残れる、と。慎んで君と諸卿に仕えよ。生き残る道は慎み戒めることにあって、富にあるのではない」。己巳の日、伯張は死んだ。君子は言った。「戒めがよくできていた。『詩経』に『汝の諸侯としての法度を慎み、思いがけない事態を戒めよ』とある。鄭の子張にはそれがあった」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』襄公二年 鄭成公、楚に背かず二年春、鄭の師、宋を侵す。楚の令なり。齊侯、萊を伐つ。萊人、正輿子をして夙沙衛に賂(まひな)ふに索馬牛を以てせしむ、皆百匹。齊の師乃ち還る。君子是を以て齊の靈公の靈たるを知る。夏、齊姜薨ず。初め、穆姜、美檟を擇ばしめ、以て自ら櫬(ひつぎ)と頌琴とを爲る。季文子取りて以て葬る。君子曰く、「禮に非ざるなり。禮は逆ふる所無し。婦は姑を養ふ者なり。姑を虧きて以て婦を成す、逆焉より大なるは莫し。詩に曰く、『其れ惟れ哲人、之に話言を告ぐれば、德に順ひて之れ行ふ』と。季孫是に於て哲ならずと爲す。且つ姜氏は君の妣なり。詩に曰く、『酒を爲り醴を爲り、烝(すす)めて祖妣に畀(あた)へ、以て百禮を洽(あまね)くし、福を降すこと孔(はなは)だ偕(あまね)し』と」と。齊侯、諸姜・宗婦をして來りて葬を送らしむ。萊子を召す。萊子會せず。故に晏弱、東陽に城きて以て之に偪る。鄭の成公疾む。子駟、肩を晉に息めんことを請ふ。公曰く、「楚君、鄭の故を以て、親ら矢を其の目に集む。異人の任に非ず、寡人なり。若し之に背かば、是れ力と言とを棄つるなり。其れ誰か我に暱(した)しまん。寡人を免(ゆる)さば、唯だ二三子のみ」と。
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『春秋左氏伝』襄公二十二年 子産、晋の徴朝に対う二十二年春、臧武仲晉に如く。雨ふる。御叔に過(よぎ)る。御叔其の邑に在り、將に酒を飲まんとす。曰く、「焉んぞ聖人を用ゐん。我は將に酒を飲まんとするのみ。雨に行く、何ぞ聖を以って為さん」と。穆叔之を聞きて曰く、「使ふ可からざるなり。而も使人に傲る、國の蠹なり」と。其の賦を倍せしむ。夏、晉人朝を鄭に徵す。鄭人少正公孫僑をして對へしめて曰く、「晉の先君悼公の九年に在りて、我が寡君是に於いて位に即く。位に即きて八月にして、我が先大夫子駟、寡君に從ひて以って執事に朝す。執事寡君に禮せず。寡君懼る。是の行に因りて、我が二年六月、楚に朝す。晉是を以って戲の役有り。楚人猶ほ競ひて禮を敝邑に申ぶ。敝邑執事に從はんと欲すれども、大尤と為らんことを懼る。曰く、『晉其れ我を有禮に共せずと謂はん』と。是を以って敢へて楚に攜貳せず。我が四年三月、先大夫子蟜又寡君に從ひて以って釁を楚に觀る。晉是に於いてか蕭魚の役有り。我が敝邑を謂ふ、『晉國に邇く在り。諸を草木に譬ふれば、吾が臭味なり。而るに何ぞ敢へて差池せん』と。楚も亦た競はず。寡君其の土實を盡し、之に重ぬるに宗器を以ってし、以って齊盟を受く。遂に群臣を帥ゐて執事に隨ひ、以って歲終に會す。楚に貳する者、子侯・石盂は、歸りて之を討ず。溴梁の明年、子蟜老いたり。公孫夏寡君に從ひて以って君に朝し、嘗酎に見え、燔を執るに與る。間くこと二年、君將に東夏を靖んぜんとすと聞く。
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『春秋左氏伝』文公十七年 大国の間に居りて文公の二年、六月、壬申、齊に朝す。四年、二月、壬戌、齊の為に蔡を侵し、亦た成を楚に獲たり。大國の間に居りて、強令に從ふ、豈に其の罪ならんや。大國若し圖らずんば、命を逃るる所無し」と。晉の鞏朔成を鄭に行ふ。趙穿・公婿池、質と為る。秋、周の甘歜戎を邥垂に敗る、其の飲酒に乘ずるなり。冬、十月、鄭の大子夷・石楚、晉に質と為る。襄仲齊に如き、穀の盟を拜す。復(かへ)りて曰く、「臣聞く、齊人將に魯の麥を食まんとすと。臣を以って之を觀るに、將に能はざらんとす。齊君の語偸(かりそめ)なり。臧文仲言へる有りて曰く、『民の主偸なれば必ず死す』と」。
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『春秋左氏伝』襄公二十六年 子産、楚を禦がず冬、十月、楚子鄭を伐つ。鄭人將に之を禦がんとす。子產曰く、「晉・楚將に平らがんとし、諸侯將に和せんとす。楚王是の故に一たび來るに昧るのみ。逞くして歸らしむるに如かず。乃ち成り易からん。夫れ小人の性は、勇に釁き、禍に嗇り、以て其の性を足して、名を求むる者は、國家の利に非ざるなり。若何ぞ之に從はん」と。子展說び、寇を禦がず。十二月、乙酉、南里に入り、其の城を墮ち、樂氏に涉り、師之梁に門す。縣門發し、九人を獲たり。氾を涉りて歸る。而る後に許の靈公を葬る。衛人衛姬を晉に歸る。乃ち衛侯を釋す。君子是を以て平公の政を失ふを知る。晉の韓宣子周に聘す。王事を請はしむ。對へて曰く、「晉の士起將に時事を宰旅に歸せんとす。他事無し」と。王之を聞きて曰く、「韓氏其れ晉に昌阜ならんか。辭舊を失はず」と。齊人郟に城くの歲、其の夏、齊の烏餘廩丘を以て晉に奔る。衛の羊角を襲ひて之を取る。遂に我が高魚を襲ふ。大雨有り、其の竇より入り、其の庫に介して、以て其の城に登り、克ちて之を取る。又邑を宋に取る。是に於いて范宣子卒す。諸侯治むる能はず。趙文子政を為すに及び、乃ち卒に之を治む。文子晉侯に言ひて曰く、「晉盟主為り。諸侯或いは相侵さば、則ち討ちて其の地を歸さしむ。今烏餘の邑は、皆討類なり。而るに之を貪るは、是れ以て盟主為ること無きなり。請ふ之を歸さん」と。公曰く、「諾。孰か使ふべき」と。對へて曰く、「胥梁帶能く師を用ゐること無からん」と。晉侯往かしむ。
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『春秋左氏伝』文公十二年 国に陋なし春、郕伯卒す。郕人君を立つ。大子夫鍾と郕邽とを以って來奔す。公諸侯を以って之を逆ふ、禮に非ざるなり。故に書して曰く、「郕伯來奔す」と。地を書せざるは、諸侯を尊ぶなり。杞の桓公來朝す、始めて公に朝するなり。且つ叔姬を絕たんことを請ひて、昏を絕つこと無からんとす、公之を許す。二月、叔姬卒す。杞と言はざるは、絕てばなり。叔姬と書するは、女に非ざるを言ふなり。楚の令尹大孫伯卒し、成嘉令尹と為る。群舒楚に叛く。夏、子孔舒子平、及び宗子を執へ、遂に巢を圍む。秋、滕の昭公來朝す、亦た始めて公に朝するなり。秦伯西乞術をして來聘せしめ、且つ將に晉を伐たんとするを言ふ。襄仲玉を辭して曰く、「君先君の好を忘れず、魯國を照臨し、其の社稷を鎮撫し、之に重ぬるに大器を以ってす。寡君敢へて玉を辭す」と。對へて曰く、「不腆(ふてん)の敝器、辭するに足らざるなり」と。主人三たび辭す。賓答へて曰く、「寡君周公・魯公に福を徼(もと)めて、以って君に事へんことを願ふ。不腆なる先君の敝器、下臣をして諸を執事に致さしめ、以って瑞節と為し、好命を要結す。寡君の命を藉(し)きて、二國の好を結ぶ所以なり。是を以って敢へて之を致す」と。襄仲曰く、「君子有らずんば、其れ能く國せんや。國陋なること無し」と。厚く之に賄す。秦令狐の役の為の故に、
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『春秋左氏伝』襄公二十一年 欒祁の讒訴齊侯慶佐をして大夫と為さしむ。復た公子牙の黨を討じ、公子買を句瀆の丘に執ふ。公子鉏來奔す。叔孫還燕に奔る。夏、楚の子庚卒す。楚子薳子馮をして令尹と為さしめんとし、申叔豫に訪ふ。叔豫曰く、「國に寵多くして王弱し。國為む可からざるなり」と。遂に疾を以って辭す。方に暑きに、地を闕(ほ)りて冰を下し、而して床す。繭を重ね裘を衣、食を鮮(すく)なくして寢ぬ。楚子醫をして之を視しむ。復して曰く、「瘠(や)すること則ち甚だし。而れども血氣未だ動かず」と。乃ち子南をして令尹と為さしむ。欒桓子范宣子に娶りて、懷子を生む。范鞅其の亡げしを以って、欒氏を怨む。故に欒盈と公族大夫と為りて、相能くせず。桓子卒す。欒祁其の老州賓と通じ、幾ど室を亡ぼさんとす。懷子之を患ふ。祁其の討を懼れ、諸を宣子に愬へて曰く、「盈將に亂を為さんとす。范氏を以って桓主を死なしめて政を專らにすと為せり。曰く、『吾が父鞅を逐ふや、怒らずして寵を以って之に報ゆ。又吾と官を同じくして之を專らにす。吾が父死して益々富む。吾が父を死なしめて國に專らなり。死有るのみ、吾之に從ふこと蔑(な)からん』と。其の謀是くの如し。主を害せんことを懼る。吾敢へて言はずんばあらず」と。范鞅之が徵を為す。懷子施しを好み、士多く之に歸す。宣子其の士の多きを畏れ、之を信ず。懷子下卿為り。宣子著に城かしめて遂に之を逐ふ。
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