春秋左氏伝 / 襄公二十八年 遠慮と近憂
十二月。乙亥。朔。齊人遷莊公殯于大寢。以其棺尸崔杼於市。國人猶知之。皆曰崔子也。為宋之盟故。公及宋公。陳侯。鄭伯。許男。如楚。公過鄭。鄭伯不在伯有迋勞於黃崖。不敬。穆叔曰。伯有無戾於鄭。鄭必有大咎。敬。民之主也。而棄之。何以承守。鄭人不討。必受其辜。濟澤之阿。行潦之蘋藻。寘諸宗室。季蘭尸之。敬也。敬可棄乎。及漢。楚康王卒。公欲反。叔仲昭伯曰。我楚國之為。豈為一人行也。子服惠伯曰。君子有遠慮。小人從邇。飢寒之不恤。誰遑其後。不如姑歸也。叔孫穆子曰。叔仲子。專之矣。子服子。始學者也。榮成伯曰。遠圖者。忠也。公遂行。宋向戌曰。我一人之為。非為楚也。飢寒之不恤。誰能恤楚。姑歸而息民。待其立君而為之備。宋公遂反。楚屈建卒。趙文子喪之如同盟。禮也。王人來告喪。問崩日。以甲寅告。故書之。以徵過也。
新字:十二月。乙亥。朔。斉人遷荘公殯于大寝。以其棺尸崔杼於市。国人猶知之。皆曰崔子也。為宋之盟故。公及宋公。陳侯。鄭伯。許男。如楚。公過鄭。鄭伯不在伯有迋労於黄崖。不敬。穆叔曰。伯有無戻於鄭。鄭必有大咎。敬。民之主也。而棄之。何以承守。鄭人不討。必受其辜。済沢之阿。行潦之蘋藻。寘諸宗室。季蘭尸之。敬也。敬可棄乎。及漢。楚康王卒。公欲反。叔仲昭伯曰。我楚国之為。豈為一人行也。子服恵伯曰。君子有遠慮。小人従邇。飢寒之不恤。誰遑其後。不如姑帰也。叔孫穆子曰。叔仲子。専之矣。子服子。始学者也。栄成伯曰。遠図者。忠也。公遂行。宋向戌曰。我一人之為。非為楚也。飢寒之不恤。誰能恤楚。姑帰而息民。待其立君而為之備。宋公遂反。楚屈建卒。趙文子喪之如同盟。礼也。王人来告喪。問崩日。以甲寅告。故書之。以徴過也。
書き下し
十二月乙亥朔、齊人、莊公を遷して大寢に殯す。其の棺を以て崔杼を市に尸す。國人猶ほ之を知り、皆曰く、「崔子なり」と。宋の盟の為の故に、公及び宋公・陳侯・鄭伯・許男、楚に如く。公、鄭を過ぐ。鄭伯在らず。伯有、黃崖に迋勞す。敬せず。穆叔曰く、「伯有、鄭に戾無くんば、鄭必ず大咎有らん。敬は民の主なり。而るに之を棄つ、何を以て守を承けん。鄭人討たずんば、必ず其の辜を受けん。濟澤の阿、行潦の蘋藻、諸を宗室に寘き、季蘭之を尸る、敬なり。敬棄つべけんや」と。漢に及ぶ。楚の康王卒す。公反らんと欲す。叔仲昭伯曰く、「我は楚國を之れ為す。豈に一人の為に行かんや」と。子服惠伯曰く、「君子は遠慮有り、小人は邇きに從ふ。飢寒をこれ恤へずんば、誰か其の後に遑あらん。姑く歸るに如かず」と。叔孫穆子曰く、「叔仲子は之を專らにせん。子服子は始學者なり」と。榮成伯曰く、「遠圖する者は忠なり」と。公遂に行く。宋の向戌曰く、「我は一人の為にして、楚の為にするに非ず。飢寒をこれ恤へずんば、誰か能く楚を恤へん。姑く歸りて民を息め、其の君を立つるを待ちて之が備へを為さん」と。宋公遂に反る。楚の屈建卒す。趙文子、之を喪すること同盟の如くす。禮なり。王人來りて喪を告ぐ。崩日を問ふに、甲寅を以て告ぐ。故に之を書す、以て過ちを徵すなり。
現代語訳
十二月乙亥の朔日、斉の人々は荘公の遺体を移して、大寝(正殿)に殯(埋葬前の仮安置)した。そして崔杼の棺をもって、その屍を市場にさらした。国の人々はそれでもまだ崔杼の顔を見分け、皆「崔子だ」と言った。宋の盟の取り決めにより、魯の襄公は宋公・陳侯・鄭伯・許男とともに楚に朝見に行った。襄公が鄭を通過したとき、鄭伯(簡公)は不在であった(すでに楚へ出発していた)。伯有が黄崖で出迎えてねぎらったが、その態度は不敬であった。穆叔(叔孫豹)は言った。「伯有が鄭で罰を受けないならば、鄭には必ず大きな災いがあるだろう。敬は民を治める者の根本である。それを捨てて、どうして先祖から受けた守りを受け継げよう。鄭の人々が彼を討たなければ、必ず国がその罪を負うことになる。済の沢のほとりや、道のたまり水に生える浮草や藻のような粗末なものでも、宗廟に供え、若い娘がその祭りの主となる。それが敬というものだ(『詩経』采蘋の意)。敬を捨ててよいものか」。一行が漢水に着いたとき、楚の康王が死んだ。襄公は引き返そうとした。叔仲昭伯は言った。「われわれは楚という国のために行くのです。どうして一人の王のために行くのでしょう」。子服恵伯は言った。「君子は遠い先のことを考え、小人は目先のことに従う、といいます。しかし、いま飢えや寒さのような目前の苦しみをかえりみないで、誰がその先のことを考える余裕がありましょう。ひとまず帰るのがよいでしょう」。叔孫穆子は言った。「叔仲子には任せてよい。子服子はまだ学び始めの者だ」。栄成伯は言った。「遠い先を図る者こそ忠である」。襄公はそのまま楚へ向かった。宋の向戌は言った。「われわれは楚王一人のために行くのであって、楚の国のためではない。自国の飢えや寒さをかえりみないで、どうして楚のことをかえりみられよう。ひとまず帰って民を休め、楚が新しい君を立てるのを待って、それに備えることにしよう」。宋公はそのまま引き返した。楚の屈建(令尹子木)が死んだ。趙文子(趙武)は同盟国の卿に対する礼で喪に服した。これは礼にかなっている。周王の使者が来て、霊王の喪を告げた。崩御の日を問うと、甲寅の日と告げた(実際は癸巳)。それで『春秋』はその日付をそのまま記し、周の誤りを明らかにしたのである。
解説
この章句が説くこと
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史記 韓世家王楚の虚名を恃みて、軽々しく彊秦の敵を絶たば、王必ず天下の大笑と為らん。且つ楚・韓は兄弟の国に非ざるなり。又素より約して秦を伐たんと謀るに非ざるなり。已に伐つの形有り、因りて兵を発して韓を救ふと言ふ。此れ必ず陳軫の謀なり。且つ王已に人をして秦に報ぜしむ。今行かざるは、是れ秦を欺くなり。夫れ軽々しく彊秦を欺きて楚の謀臣を信ぜば、恐らくは王必ず之を悔いん」と。韓王聴かず、遂に秦に絶つ。秦因りて大いに怒り、甲を益して韓を伐ち、大いに戦ふ。楚の救ひ韓に至らず。十九年、大いに我を岸門に破る。太子倉秦に質となりて以て和す。二十一年、秦と共に楚を攻め、楚の将屈丐を敗り、首を斬ること八万を丹陽に於てす。是の歳、宣恵王卒し、太子倉立つ、是を襄王と為す。襄王四年、秦の武王と臨晋に会す。其の秋、秦甘茂をして我が宜陽を攻めしむ。五年、秦我が宜陽を抜き、首を斬ること六万。秦の武王卒す。六年、秦復た我に武遂を与ふ。九年、秦復た我が武遂を取る。十年、太子嬰秦に朝して帰る。十一年、秦我を伐ち、穣を取る。秦と楚を伐ち、楚の将唐眛を敗る。十二年、太子嬰死す。公子咎・公子蟣蝨争ひて太子と為らんとす。時に蟣蝨楚に質たり。蘇代、韓咎に謂ひて曰く、「蟣蝨亡げて楚に在り。楚王之を内れんと欲すること甚だし。今楚の兵十余万方城の外に在り。公何ぞ楚王をして万室の都を雍氏の旁に築かしめざる。韓必ず兵を起こして以て之を救はん。公必ず将たらん。公因りて韓・楚の兵を以て蟣蝨を奉じて之を内れよ。其の公に聴くこと必せり。必ず楚・韓を以て公を封ぜん」と。韓咎其の計に従ふ。楚雍氏を囲む。韓救ひを秦に求む。秦未だ為に発せず。公孫昧をして韓に入らしむ。公仲曰く、「子秦を以て且に韓を救はんとすと為すか」と。
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史記 屈原賈生列伝屈平既に絀けらる。其の後秦斉を伐たんと欲す。斉と楚と従親す。恵王之を患ふ。乃ち張儀をして詳りて秦を去り、厚幣もて質を委ねて楚に事へしめて曰く、「秦は甚だ斉を憎む。斉と楚と従親す。楚誠に能く斉と絶たば、秦は商・於の地六百里を献ぜんことを願ふ」と。楚の懐王貪りて張儀を信じ、遂に斉と絶ち、使をして秦に如きて地を受けしむ。張儀之を詐りて曰く、「儀は王と六里を約せり。六百里を聞かず」と。楚の使怒りて去り、帰りて懐王に告ぐ。懐王怒り、大いに師を興して秦を伐つ。秦兵を発して之を撃ち、大いに楚の師を丹・淅に破り、首を斬ること八万、楚将屈丐を虜にし、遂に楚の漢中の地を取る。懐王乃ち悉く国中の兵を発して以て深く入りて秦を撃ち、藍田に戦ふ。魏之を聞き、楚を襲ひて鄧に至る。楚兵懼れ、秦より帰る。而して斉竟に怒りて楚を救はず。楚大いに困しむ。明年、秦漢中の地を割きて楚に与へ以て和す。楚王曰く、「地を得るを願はず。張儀を得て心を甘んぜんことを願ふ」と。張儀聞き、乃ち曰く、「一儀を以て漢中の地に当つ。臣請ふ往きて楚に如かん」と。楚に如き、又因りて厚幣もて事を用ふる者の臣靳尚に用ひ、而して詭弁を懐王の寵姫鄭袖に設く。懐王竟に鄭袖に聴き、復た張儀を釈し去らしむ。是の時屈平既に疏んぜられ、復た位に在らず。斉に使ひし、顧反し、懐王を諫めて曰く、「何ぞ張儀を殺さざる」と。懐王悔い、張儀を追へども及ばず。其の後諸侯共に楚を撃ち、大いに之を破り、其の将唐眛を殺す。時に秦の昭王楚と婚し、懐王と会せんと欲す。懐王行かんと欲す。屈平曰く、「秦は虎狼の国なり。信ずべからず。行くこと毋きに如かず」と。懐王の稚子子蘭、王に行くを勧む。「奈何ぞ秦の歓を絶たん」と。懐王卒に行く。武関に入る。秦伏兵もて其の後を絶ち、因りて懐王を留め、以て地を割かんことを求む。懐王怒り、聴かず。亡げて趙に走る。趙内れず。復た秦に之き、竟に秦に死して帰葬せらる。
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『韓非子』十過第十楚王之を聞きて、懼れ、陳軫を召して之に告げて曰く、「韓朋将に西のかた秦と和せんとす、今将に奈何せん」と。陳軫曰く、「秦韓の都一を得て、其の練甲を駆り、秦・韓一と為りて以て南のかた楚に郷ふ、此れ秦王の廟祠して求むる所なり、其の楚の害為ること必せり。王其れ趣かに信臣を発し、其の車を多くし、其の幣を重くして以て韓に奉じ、曰へ、『不穀の国小なりと雖も、卒已に悉く起こせり、願はくは大国の意を秦に信くせんことを。因りて願はくは大国使者をして境に入りて楚の卒を起こすを視しめよ』と」と。韓人をして楚に之かしむ、楚王因りて車騎を発して之を下路に陳ね、韓の使者に謂ひて曰く、「韓君に報じて、弊邑の兵今将に境に入らんとすと言へ」と。使者還りて韓君に報ず、韓君大いに悦び、公仲を止む。公仲曰く、「不可なり。夫れ実を以て我を害する者は、秦なり。名を以て我を救ふ者は、楚なり。楚の虚言を聴きて強秦の実禍を軽んずるは、則ち国を危ふくするの本なり」と。韓君聴かず。公仲怒りて帰り、十日朝せず。宜陽益々急なり、韓君使者をして卒を楚に趣さしむ、冠蓋相望みて卒に至る者無し。宜陽果たして抜かれ、諸侯の笑ひと為る。
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『韓非子』說林上二十二君之に与へて以て智伯を驕らしむるに如かず。且つ君何ぞ天下を以て智氏を図るを釈てて、独り吾が国を以て智氏の質と為すや」と。君曰く、「善し」と。乃ち之に万戸の邑を与ふ。智伯大いに悦び、因りて地を趙に索む、与へず、因りて晋陽を囲む。韓・魏之に外に反し、趙氏之に内に応じ、智氏以て亡ぶ。秦の康公、台を築くこと三年。荊人兵を起こし、将に兵を以て斉を攻めんと欲す。任妄曰く、「饑は兵を召き、疾は兵を召き、労は兵を召き、乱は兵を召く。君台を築くこと三年、今荊人兵を起こして将に斉を攻めんとす、臣恐らくは其の斉を攻むるは声と為して、秦を襲ふを以て実と為さん。之に備ふるに如かず」と。東辺を戍りて、荊人行を輟む。斉、宋を攻む。宋、臧孫子をして南のかた救ひを荊に求めしむ。荊大いに説び、之を救ふことを許して甚だ勧む。臧孫子憂へて反る。其の御曰く、「救ひを索めて得たり、今子に憂色有るは何ぞや」と。臧孫子曰く、「宋は小にして斉は大なり。夫れ小宋を救ひて大斉に悪まるるは、此れ人の憂ふる所以なり。而るに荊王説ぶは、必ず以て我を堅くせんとすればなり。我堅くして斉敝るるは、荊の利とする所なり」と。臧孫子乃ち帰る。斉人、五城を宋に抜きて荊の救ひ至らず。魏の文侯、道を趙に借りて中山を攻めんとし、趙の粛侯将に許さざらんとす。趙刻曰く、「君過てり。魏、中山を攻めて取ること能はずんば、則ち魏必ず罷れん。罷るれば則ち魏軽く、魏軽ければ則ち趙重し。魏、中山を抜くとも、必ず趙を越えて中山を有つこと能はざるなり。是れ兵を用ふる者は魏にして、地を得る者は趙なり。君必ず之を許せ。之を許して大いに歓べば、彼将に君の之を利とするを知りて、必ず将に行を輟めんとす。君は之に道を借して、示すに已むを得ざるを以てするに如かず」と。鴟夷子皮、田成子に事ふ。田成子、斉を去り、走りて燕に之く。鴟夷子皮、伝を負ひて従ふ。望邑に至る。子皮曰く、「子独り涸沢の蛇を聞かざるか。沢涸るれば、蛇将に徙らんとす。
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『墨子』魯問魯君、子墨子に謂いて曰く、「吾れ齊の吾を攻めんことを恐る。救う可きか」と。子墨子曰く、「可なり。昔者、三代の聖王、禹・湯・文・武は、百里の諸侯なり。忠を説き義を行いて、天下を取る。三代の暴王、桀・紂・幽・厲は、讐怨し暴を行いて、天下を失う。吾れ願わくは主君の、上は天を尊び鬼に事え、下は百姓を愛し利し、厚く皮幣を為り、辭令を卑くし、函く徧く四隣の諸侯を禮し、國を敺りて以て齊に事えんことを。患い救う可きなり。願うに非ざれば為す可き者無し」と。
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説苑・奉使齊魯を攻む。子貢哀公に見え、吳に救いを求めんことを請う。公曰く、「奚ぞ先君の寶を用いんや。」子貢曰く、「吳をして寶を責めて我に師を與えしむれば、是れ恃むべからざるなり。」是に於て楊幹麻筋の弓六を以て往く。子貢吳王に謂いて曰く、「齊無道を爲し、周公の後をして血食せざらしめんと欲す。且つ魯の賦五百、邾の賦三百なり。識らず此を以て齊を益せば、吳の利ならんか、非ならんか。」吳王懼れ、乃ち師を興して魯を救う。諸侯曰く、「齊周公の後を伐つに、吳之を救う。」遂に吳に朝す。
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